第一章 シチリアの亡霊
第一部
第一部1
ウイスキーの瓶を片手に通りをぶらつく。
シチリア島の第二の都市――カターニア。
特に目的があるわけでもなく、イアンはこれからのことを考えあぐねていた。
衝動的にアメリカを飛び出したものの、見知らぬ街の石畳を踏むとなんだかそわそわして落ち着かなかった。
飛行機を降りるなり買ったウイスキーの瓶を仰ぐと多少はましになったが、もう既にシチリア島を離れたくなった。
かといって、アメリカには戻りたくなかった。
ひとまずイアンは電車に乗ってシラクサを目指すことにした。
理由はない。
ただ目を瞑って地図を指差した先にシラクサがあったのだ。
シラクサに到着する頃にはウイスキーの瓶は空になっていた。
瓶を逆さにしても一滴すら落ちてこなかった。
どこかで酒を手に入れておきたい。
酒がなければ正気でいられない。
アメリカ陸軍を退役してから、イアンは酒を手放せなくなっていた。
脳内にはっきりと刻みつけられた記憶をぼかすには酒の力が必要だった。
酒は彼の精神を安定させる薬のようなものだった。
これでもイアンはまともな方だった。
アメリカ陸軍の戦友や上官の中には、ドラッグで精神の安定を図っている者がいた。
兵士に限り、ドラッグの使用は暗黙の了解で合法化されている。
戦力が上昇したという虚偽によって国からも許可されている。
実際はドラッグの幻覚と死への恐怖による発狂で暴走しているに過ぎないし、味方も敵も無差別に攻撃して戦力の上昇どころではない。
が、ジャンキーの上官による隠蔽で事実が揉み消されているのだ。
ドラッグに溺れた人間はまるで動物のようだ。
理性が取り払われて本能と欲望が浮き彫りになり、やがて己を見失って動物へと成り下がる。
理性こそが人間と動物を隔てている、とイアンは思う。
人間は一枚の皮で、皮をかぶっているのはただの動物だ。
人間は理性という皮をかぶった動物だ。
ドラッグはその皮をいとも簡単に剥がす。
イアンはドラッグに内部から蝕まれていくいたたまれない戦友を何人も見てきた。
基地で発狂し、頭部を何度も壁に打ちつけて自殺した戦友もいた。
敵地に躍り出て不気味なダンスを披露する戦友もいた。
動物に変貌した戦友たちが次から次へと死んでいく不安をドラッグでかき消す戦友もいた。
イアンはドラッグを使用しなかった。
戦い続けることで人間でいようとした。
だが、人間でいることはできなかった。
戦いのジャンキーとなり、理性の皮を剥がされて動物に成り下がってしまった。
戦いを失ったイアンは人間にも動物にもなれなかった。
何者にもなれない紛い物にしかなれなかった。
生きる意味なんてない。
死にたい。
それでも死ぬのは怖い。
このジレンマが生み出す苦痛は死よりも遥かに強大だ。
イアンが辛うじて生きていられるのは、生きる意味を模索することをやめたからだ。
彼は人間の唯一の権利を放棄した。
生への執着がないがゆえに、死への恐怖が際立っていた。
生と死を拒絶した動物の末路は神さえも知らない。
ただ一つわかっているのは、人間も動物も遅かれ早かれいずれは死ぬ、ということだ。
これは自然の摂理であり、人間にとっては常識の範疇だ。
人間は心のどこかで死を受け入れている。
同時に、生に対して疑問を持つ。
人間にはその権利がある。
イアンは人間の権利を放棄し、生と死について思考することをやめた。
だからこそシチリア島に旅行しようという突飛な思いつきを実行した。
通りを抜けて市場に入り、市場を過ぎてさらに路地裏へと入る。
進むごとに人気がなくなっていき、壁に寄りかかったホームレスがちらほら視界の端に映る。
イタリアは実質的には戦争に参加していない。
治安も比較的悪くない。
シチリア島は特に治安がよく、外国から逃げてくる人間も少なくない。
しかし、シチリア島といえども貧困は避けられない。
貧困は世界の問題だ。
むしろ、このご時世、裕福な国があることの方が異常なのだ。
それでもシチリア島は裕福な方なのかもしれない。
かつて繁栄していた観光ビジネスの産物が裕福な雰囲気を演出している。
レストランは外国から逃げてくる人間のおかげで繁盛し、ホテルやアパートには移民が密集している。
表は裕福とはいえ、裏には貧困の代わりに別の要因が絡んでいる。
その大きな要因の一つに犯罪率の高さが挙げられる。
シチリア島はイタリアン・マフィア――コーサ・ノストラが拠点としており、武器の売買が犯罪を誘発している。
これは世界規模で起こっており、コーサ・ノストラをよく思っていない国も多い。
イタリアからも目をつけられている。
つまるところ、世界の食料や武器の需要が圧倒的に多く、供給が一部の国にしか行き渡らないくらい少ないのだ。
ただ、需要と供給が釣り合っているため、この時代でもシチリア島は裕福に思われるのだ。
イアンは煙草に火をつけた。
酒を飲みたいという衝動を凌ぐための行為に過ぎなかったが、孤独と静謐を紛らわせるにはちょうどいい代物だった。
いい加減に路地裏から出ようと枝わかれした道に差しかかる。
芳醇な香りが潮風に乗って鼻腔を刺激し、途端に酒よりもコーヒーを喫したくなる。
細い道に入ると、人影が見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます