39話
「ああ、私だが妻を頼む」
斎牙が電話を掛けた先は、自宅にいる妻であった。
それだけであるならば、特に変わった点はなく、精々が息子と話をしたなどの軽い報告をするのかと思うだろう。
だが、非凡な存在である宗介を生んだ両親が凡人であるかと言われれば、答えは否であり、特に斎牙のそれは病的な部分を含んでいた。
つまりはどういうことかといえばだ……。
『はい、お電話替わりました。何かあったんですか?』
「どうしよーう! 俺の大事なむちゅこたんが、初めてのライバルができたんだって!? 母さん、どうしたらいいの!? こういう時、パパもその相手に挨拶に行ったらいいのかな!?」
大黒帝斎牙……類まれなる才能を持ち、その実力を遺憾なく発揮し、日本経済を支える大財閥大黒帝グループの頂点に君臨する男。しかし、それはこの男の表の顔に過ぎない。
一枚皮を捲ってみれば、そこには異常と言わんばかりの家族愛……特に自身の子供に対する深い愛に溢れた人物であった。
しかしながら、そのあまりの愛情の深さ故、客観的視点から見ればそれはもはや親バカを通り越して精神的な病気を疑うレベルの入れ込みっぷりであり、彼を諌める存在がいなければ、とんでもないことになってしまうほどだ。
そんな彼を諌めることができる数少ない存在である妻百合香は、内心でまたかとため息を吐く。
斎牙の家族に対する愛情深さというのは、一般的には美徳とされており、決して悪いことではない。
だが、何事にも限度というものがあり、彼の息子たちに対する愛情は異常なほどであった。
病気といっても過言でない彼の執着ぶりに、妻であるはずの彼女も最初は困惑したほどである。
しかし、そこは十八歳の頃から始まり、今では結婚生活二十八年目のベテランである彼女であるからして、夫の発作の如き今の状態をどうにかすることなど、もはや朝飯前であった。
『それはやめた方がいいですね。それと、いい加減子離れなさってください』
「やだやだやだやだやだぁー!! 俺には妻と二人のむちゅこたんが生き甲斐なんだ!! それを自重なんてできるわけがない!!」
『はあー』
自分たちに愛を振りまいてくれる夫であるため、彼女としてもあまり強く出られないところであるが、彼の年齢も年齢であるため、そろそろ自制を覚えてほしいと考えていた。
四十八歳のおっさんが駄々をこねるところを見せられるなど、一体どんな罰ゲームだと言いたくもなるが、百合香はこれを二十七年も見せられてきたのだ。
結婚したばかりの頃は、まさか夫がこんな状態になるとは夢にも思っていなかった百合香だったが、結果的にはこれでよかったのだと納得もしている。
若さに満ち溢れていた二十歳だった夫も、二十八年も経てば世間一般のおっさんと変わりない。
しかも、それが子供のように駄々っ子のような態度を取るなど、一般的な旦那像としてはあまり相応しくはないだろう。
『あんまり我が儘を言うと、そのうち息子たちに嫌われてしまいますよ?』
「ヒュゥー……そ、そそ、それは嫌だ!」
『では、もう少し大人になりましょうねー?』
百合香の言葉に掠れるような息遣いをしながら、斎牙は最悪の事態を浮かべ顔を歪ませる。その事態とは、息子たちに嫌われるということだ。
ここまでの彼の言動で、大黒帝斎牙という人間が家族を……特に息子たちを溺愛していることは理解できたことだろう。
そんな彼が最も恐れていることは何か? それは、息子たちに嫌われるということである。
生き甲斐と言ってもいい息子たちに嫌われることは自らの存在意義を失うということであり、彼にとってもはや生きている意味を失うことと同義なのだ。
であるからして、彼にとって息子たちに嫌われることは何としても避けねばならないことなのである。
しかしながら、宗介と冬夜(とうや)の兄弟が小学生の頃に自分の父親が自分たちにどういった態度を取ってきたのか覚えており、今の厳格な父親像が偽りのものであると認識している。
だが、二人が父である斎牙のことを嫌うことはなく、寧ろ大黒帝グループを取り仕切りながら家族サービスも怠らない彼のことを尊敬しており、いずれ自分たちが結婚して家族を持つことになれば、父のような存在でありたいとすら考えていることは、本人以外は周知のことであったのだ。
「でもぉー、でもでもでもぉー。心配じゃあないか。ここはやはりパパとして先方にご挨拶を――」
――コンコン。
それは、斎牙一人しかいない部屋に良く響き渡る音であった。
その音の正体は、執務室の扉を叩くノックの音であり、それ即ち彼の部屋に人がやってくるということであった。
そのことを瞬時に察知した斎牙は、途端に目つきを鋭くさせ、まるで戦場で戦う歴戦の戦士のような顔つきで電話の向こうにいる妻に話し掛け始めた。
「失礼します」
「とりあえす、先方様にご挨拶をする件については、今日家に帰って話し合うことにする。何分初めてのことだからな。ここは慎重に事に当たらねばなるまい。では、私は忙しい。切るぞ。……おまえか冬夜、何か予定でもあったか?」
「いえ、兄さんが来ていると聞いたもので」
一方の百合香といえば、夫の態度が急変したことに違和感を覚えず、長年の阿吽の呼吸で斎牙に合わせた。
そして、部屋にやってきた人物があたかも重要な話し合いが行われていると錯覚させるように仕向けたのである。
斎牙のもとにやってきたのは、もう一人の息子である冬夜だった。
宗介と同じく整った顔立ちだが、父親に似た顔であるため、些か目つきが鋭い。
しかし、その内情もまた父親譲りの情に厚い性格をしているため、それを知る人間は彼に対し絶対的な信頼を寄せている。
大黒帝冬夜(とうや)は、宗介に成り代わって時期大黒帝グループを背負って立つ後継者であり、弱冠二十歳という年齢ながら、すでに大黒帝グループの重要な役割の一つを任されているほどに優秀な人間であった。
「もう帰ったぞ」
「そうですか。何か僕について言っていませんでしたか?」
「いいや、特に何も言っておらんかったな」
「そうですか……」
宗介を呼び出したのは他でもない斎牙であり、彼の意志で父親のもとに赴いたわけではない。そのため、特に用のない弟について言及することはなく、寧ろ忙しいという彼の気遣いで、冬夜に伝言なども残さなかったのだ。
だが、冬夜はそう思っておらず、久しぶりの兄に会えると喜び勇んで来てみれば、すでに兄はおらず、何か伝言を残しているかと聞いても特にないと言われてしまった。
「ま、まあ。おまえが忙しいことは知っているだろうから、気を遣ったんだろう」
「それはそうですが」
その気遣い自体は理解できる冬夜だが、それでも兄の相手をするくらいの時間はあり、一言あっても良かったのではと彼は思わざるを得ない。
「はあー、宗介兄さん。会いたいよ……」
(うぉー、俺のむちゅこたんが可愛すぎる件について!!)
兄に会えなかったことに落ち込む様子を見た斎牙の心境は狂喜乱舞の一言に尽きる。
バカ親……もとい、親バカの彼にとって息子が落ち込んでいる姿は愛くるしいものであり、彼の心の内に秘めたる父性がビンビンに刺激されていた。
もし、今この場で斎牙が本性を表せば、息子を慰めるべく力強く抱きしめていたことは容易に想像できる。しかしながら、そんなことをして息子に嫌われてしまうことを恐れている彼は最後に残った理性でその衝動を全力で抑え込んでいたのだ。
「ま、まあ。またいずれ会う機会もあるだろう。それよりも、例の件はどうなっている?」
これ以上息子の愛らしい姿を見せつけられては我慢できなくなると考えた斎牙は、自分の内にある衝動をごまかすため、話題を仕事の話にシフトチェンジした。
冬夜としても、もとは仕事の報告のついでに兄に会うため立ち寄った一面があったため、淡々と仕事の内容を報告していく。
「という結果となりました。次に書籍・出版部門についてですが、新たに我が大黒帝グループ主催で何かコンテストなどの催し物ができないかと考えております」
「ほう、詳しく聞こうか」
「まず手始めに、大黒帝グループが出資をして主催となり、日本国内で新しい小説コンテストを立ち上げようという試みを行う案が出ております。詳細はこちらの資料をご確認いただいて、あとは社長の承認がいただければ――」
「許す! 新たな事業開拓は、大いに推奨されるべきことだからな。多少の赤字を被っても、新しい分野に手を加えたという結果が大事なのだ」
「……わかりました。では、新しく立ち上げた部門の連中には、そのように通達いたします」
そう言って、頭を下げる冬夜だったが、彼はしっかりと理解していた。
斎牙が今回の新規事業の開拓を即座に推奨したのは、その事業に宗介が関わっているからであるということを。
幼い頃から、兄に帝王学のノウハウを教え込まれた冬夜としては、自分が兄に勝つことができない劣等生であるという自覚があった。
事実、彼が何をやっても一度たりとも宗介に勝てたことがなく、本当であれば大黒帝グループを継ぐのは兄である宗介が相応しいと考えていたのだ。
そして、父である斎牙の本性を知る人間である冬夜は、彼が今回の話に乗り気になることを知っていたが、一応確認事項のために聞いてみただけであり、父親が今回の事業開拓の話に難色を示すことはないだろうと思っていたのだ。
案の定と言うべきか、斎牙はすぐに許可を出した。
GOサインが出た冬夜としても、兄の役に立てるということで、この事業に心血を注ぐ意気込みを見せていたのだ。
似たもの親子とはよく言ったもので、斎牙が家族を愛しているように、冬夜もまた兄に尊敬の念を抱いていた。所謂ブラコンというやつである。
「じゃあ、パパ。僕はもう行くから」
「う、うむ。あまり根を詰め過ぎないようにな」
「わかったよ」
辛うじてそう返答できた斎牙だったが、その体の内から溢れ出んばかりの愛情が迸っていた。
それを察知したのか、それとも用は済んだと判断したのかはわからないが、父の言葉を聞いた冬夜は足早に部屋を後にする。
事実は、兄の役に立てる仕事を行えるということによる喜びで一刻も早く仕事に戻りたかっただけなのだが、冬夜が部屋を後にした瞬間、もはや斎牙の父性は我慢の限界を超えた。
「あおうぅー、俺のむちゅこたん可愛すぎぃぃぃぃぃぃいいいいいい!! おう、おう、おうあーおう。イエス、ラブ、マイソン!!」
それから、再び百合香のもとに電話を入れ、いかに息子が愛おしかったかを力説する斎牙であったが、さすがに彼の息子自慢をずっと聞いているわけにもいかないため、彼女の「いい加減仕事に戻ってください!! このバカ親!!」というお叱りの言葉を受けることになってしまったのは言うまでもない。
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