35話



 嵐のような出来事が起こった後、編集部の空間が何事もなかったかのような静けさに包まれる。



 そこにいた全員がどんな言葉を口にすればいいのかわからず、ただただ視線は先ほどまでの騒ぎの中心人物に向けられている。



 そして、その人物はといえば、まるで先ほどの出来事がなかったかのようなあけすけな態度で佑丞に近づくと、こう宣ったのだ。



「じゃあ、打ち合わせを始めましょうか?」


『いやいやいやいやいやいやいやいや!!』



 全員が彼の言葉を聞き、心の中で突っ込んだ。

 さっきまで修羅場を演じていたとは思えないほどの態度に、喋りかけられた相手もこう返す。



「治乃介くん、さすがにあんなことがあった後で打ち合わせというのも……」


「そうですか?」



 治乃介は、まるでさっきの出来事が何でもないことのように振舞っているが、騙されてはいけない。

 彼が対峙していた相手は、日本におけるラノベ作家においてトップに君臨する男だった。それは揺るぎのない事実である。



 そんな男をあれほどまでに足蹴にしておいて何事も起こらないはずはない、それを佑丞も理解しているが故、打ち合わせどころの話ではないと言ったのだ。



 だが、彼らの心配も余所に、治乃介は大丈夫と口にしてこう続けたのである。



「もし、あの男が今後何か仕掛けてくるのであれば、それこそ作家や男としてではなく人間として終わってしまうことになりますから。見たところ、プライドの塊のような人でしたし、余程の馬鹿でない限り、そのことにも気付くはずです」


「馬鹿って……君ねぇ」



 治乃介のあまりにあまりな流聖に対する評価に、さすがの佑丞も呆れた表情を浮かべざるを得ない。

 帝流聖といえば、業界内ではかなりの実力を持つ作家であり、彼の実家でもある大黒帝グループもその影響力をもろに受けていた。



 国内の主要な小説コンテストなどのスポンサー然り、出版業界には欠かせない印刷所についてもいくつか子会社を保有しており、まさに大黒帝グループとはずぶずぶな関係といっても過言でなかった。



 そんな大黒帝グループの人間である流聖のプライドを傷つけてタダで済むはずもなく、今後彼がどう動いてくるかと佑丞は心配していた。



 だが、そんな心配も余所に当の本人である治乃介といえば、馬鹿でない限りは行動を起こさないと言及する。

 確かに、あの手の人間はプライドのために動く時もあれば、恥になるとわかっていれば動くことはない人間でもあった。



「余程の馬鹿だったら、どうするんだい?」


「その時はその時で対処しますよ。それよりも、母さんいるんだろ? いい加減隠れてないで出て来なよ」


「えへへ、どうして隠れてるってわかったのかしら?」



 そう言いながら、会議室の扉に向かって声を掛けると、そこにはみゆきの姿があった。

 治乃介との打ち合わせがあるというのにもかかわらず、今の今まで彼女が姿を見せなかったことに不自然さがあるが、その理由は彼女が流聖を苦手としていたからである。



「なんとなくだ。それよりも、なんで隠れる真似なんか。いつもみたいに肉体裁判すればいいじゃないか?」


「それができたらいいのだけれどね。あの馬……帝流聖は、大黒帝グループの御曹司でね。私たち出版業界にも影響力を持ってるのよ。そんな人間の機嫌を損ねればどうなるのか決まり切ってるわよね?」



 誰に対しても物怖じしないタイプのみゆきだが、さすがに大財閥と言われている大黒帝グループの関係者に喧嘩を売るわけにいかないため、トラブルにならないよう隠れていたらしい。



「それに、あの子私のことが好みみたいで、会う度に口説いてくるのよ。年下も悪くはないけど、あの人よりもいい男なんてねぇ?」


「同意を求められても困るが、まあ確かに母さんはアレには会わない方がいい。水と油の関係だからな」



 業界屈指のラノベ作家を捕まえて“アレ”呼ばわりという大それた言動を取る治乃介だったが、みゆき自身流聖については会うべきではないという判断は正しいことであると理解しているため、治乃介の意見には同意せざるを得ない。



 超が付くほどのイケメンである流聖だが、残念ながらみゆきのお眼鏡にはかなわないらしく、事あるごとに彼のアプローチを断り続けていた。



 次第に仕事以外のプライベートに突っ込んでくるようになったため、できるだけ彼とは会わないようにしていたため、今回も表に出ずに隠れていたのだ。



 このみゆきの判断は、正しかったと言わざるを得ない。

 仮に彼女が先ほどの場に居合わせていれば、気に入りの女性の前でいい格好をしたいという流聖のプライドにより、いらないトラブルを招いていた可能性があった。



 彼女としてはそういった判断で隠れていたわけではないのだが、結果的にそれが功を奏した形となったのだ。



「とりあえず、打ち合わせよろしくー」


「えー、こんな状況でやるのー? また今度でいいじゃない」


「そう言って、俺に打ち合わせさせない気だろ? その手は通じないぞ?」


「ちっ、バレてたか……じゃあ、こっちに来てちょうだい。環編集長も」


「あ、結局やるんだ」



 最終的に流聖のことについては、すでに治乃介とみゆきの中ではなかった存在として扱われている。

 そのことに、それでいいのかとその場にいた人間全員が思ったが、何をしてくるのかわからない状態で気を張っているよりかは、精神衛生上的にはいいと無理矢理に結論付け、それぞれがそれぞれの仕事に戻っていった。



 こうして、帝流聖との初邂逅はお互いにあまりいい印象ではなかったが、彼がこのまま何事もなく大人しくしている人間ではないということを治乃介たちは思い知らされることとなる。






 〇×△






「……」



 編集部を後にした流聖は、俯き加減でトボトボと歩いていた。

 治乃介に完膚なきまでに叩きのめされ、さぞやその傲慢なプライドがへし折れているかと思いきや……。



「ふふふふふふふふ、はははははははは、はぁーはははははははははっ!!!」



 笑っていた。

 先刻の出来事を見ていない者にとっては、気でも触れたのかと思う彼の言動であったが、残念ながら流聖の気は確かであった。



 では、一体彼の中で何が起こったというのか、それは彼の次の言葉で理解することになる。



「初めてだよ……この俺をここまでコケにした大馬鹿野郎は」



 帝流聖、本名大黒帝宗介。

 由緒正しき大黒帝グループの跡取り息子であり、大財閥を引っ張っていけるほどの器と能力を持ち合わせた人間。



 今まで生きてきた中で、流聖がコケにされた経験はなく、あれほどまでに自分を否定してきた人間はいない。



 しかし、治乃介の読み通りというべきか、流聖の中では寧ろ彼の言動は好印象に映っていた。

 それは、順風満帆な人生を送ってきた流聖にとって初めて出現した自分と同格以上の存在……即ち宿敵の出現である。



 彼は今まで挫折らしい挫折を味わったことがなく、どんなことでも卒なくこなせる能力を持っていた。

 しかし、今回治乃介の放った言葉に一切の反論ができなかったのである。



 元々、不遜な流聖の物言いと一般論を交えた治乃介の正論とでは、どちらに非があるかはわかりきったことであったが、黒いものを白としてきた彼にとっては、自分の物言いが否定されたことに衝撃を受けたのである。



 そして、流聖が治乃介に対して感じたもの、それは嫌悪感や自分の考えを否定されたことに対する遺憾の念ではなく、寧ろ否定されたことに喜びすら感じていた。



 最終的に流聖は、治乃介のことを自分と対等に渡り合える同格の存在と認識し、生涯に渡って倒さねばならない宿敵と位置付けたのだ。



「少年、いや無名玄人。おまえは、必ずやこの俺帝流聖が倒して見せようぞ!! それまで首を洗って待っているがいい。はぁーはははははははははっ、はぁーははははははは

――うっ、ごほっごほっ、む、むせた……」



 帝流聖……見た目がいいのに最後まで締まらない姿の彼だが、どうやら根は悪い人間ではないようだ。



「次の勝負は【あのライトノベルがやべぇ下半期】か? いや、確か八月下旬に奴の【勇者伝説】の新刊が出るという話だったな。……ふふふ、であれば。……ああ、俺だ。次の新刊の発売日についてだが……」



 そう言うと、意味深な笑みを浮かべた流聖は、懐から取り出したスマートフォンでどこかへと電話を掛け始めた。そして、英雄社の外へと繰り出し、どこかへと消えて行ったのであった。

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