33話



「はあー」



 とぼとぼとした歩調で、治乃介は盛大な溜息を吐き出す。

 現在彼は、ある場所へ向かっており、買い出し以外の目的で外を出歩いていた。



 あの【乱菊エロスティックバイオレンス事件】から数日が経過しており、平静さを取り戻した治乃介は、今後悔の念に苛まれていた。



 若気の至りと簡単に口にすることはできるだろう。

 しかしながら、それはあくまでも第三者の視点から言える軽率な評価であり、本人からすれば殺してくれと懇願する黒歴史でしかない。



「認めたくないものだな。己自身の、若さゆえの過ちというものを……」



 どこかで聞いたような台詞を口にしつつ、それでも治乃介は気力を振り絞って目的地へと向かって行く。



 今回治乃介が向かっている場所は、以前顔合わせと称してみゆきに無理矢理連れてこられた場所……英雄社の本社ビルである。



 一体全体、治乃介がどうしてその場所に向かっているのかといえば、打ち合わせがしたいという知らせが編集長の佑丞からあったからだ。



 現状、小説家として自身が手掛ける【勇者伝説】の続きを執筆中の身である治乃介だが、小説家というものは、何もただ己が作品と向き合っていればいいというものではない。



 製本や出版に伴う作業というものがあり、それはあとがきであったり、挿絵についての要望や監修であったりなどといった確認作業が必要であり、そのためには出版に関わる出版社との綿密な打ち合わせが必須となってくるのだ。



 だというのに、肝心の担当者であるみゆきはそういったことを治乃介に伝えておらず、独断で進めてしまっている節がある。

 それを不憫に思ったのか、それとも彼女の独断先行を良しとしなかった佑丞が、治乃介に直接連絡を寄こしたのだ。



“【勇者伝説】についての打ち合わせを行いたいので、英雄社に来てほしい”と……。



 本来ならば、担当者のみゆきが作家である治乃介の自宅に行くか、喫茶店などの出版社以外の場所で打ち合わせを行うというのが通例だが、当の本人がそれをやらない以上、第三者立会いの下で打ち合わせを敢行するしかない。



 これについては、治乃介も望むところであり、現状の把握ができていないため、そういった意味でも打ち合わせを行うことが必要であると感じていた。



 自身が手掛けている創作物で金銭が発生している以上、しっかりとした状況の把握が必要であると彼は考えており、佑丞の提案をすぐに受け入れ、英雄社へと足を運んだ。



「ふう、なんだかんだで、ここにはよく来てるな」



 英雄社の本社ビルに到着し、中へと入る。

 ビル内は空調が整えられており、熱気が立ち込める屋外とは打って変わり、涼しい空気が治乃介の体を包み込む。



 すぐに汗が引いていく感覚を覚えつつ、彼は佑丞が待つ編集部へと向かった。



 そろそろ編集部に到着すると思われたその時、目的地の部屋から割れんばかりの大音声が聞こえてきたのだ。



「さあ、隠しても無駄だ! 今すぐ無名玄人を出せ!!」


「そう言われましても、いないものはいないんですよ」


「ええい、おまえでは話にならん! 責任者を出せ!!」


「私がここの編集長ですが……」



 何事かと中に入ってみると、ある一人の男が叫び続けていた。



 紫髪紫目の二十代の青年で、スラーっとした体躯に目鼻立ちの整った甘いマスクを持ったイケメンだ。

 その見た目の美しさもあって、世の男からヘイトを女からは黄色い悲鳴を集めそうな風貌をしている。



 よくよく話の内容を聞いてみると、どうやら無名玄人に会いに来たようで、先ほどから一貫して「無名玄人を出せ」の一点張りであった。



「こんにちは環さん、連絡通り来ましたけど」


「あ、ああ治乃介くん。呼び出しておいて申し訳ないけど、ちょ、ちょっと待っててね」


「ん? なんだ少年。ここは君のような少年が来るところでは……」



 騒ぎが起こっていたが、治乃介としても呼び出された手前、このまま騒ぎがおさまるまで待ちぼうけを食らうのは癪であるため、まるで気にせずに佑丞に話し掛けた。



 その一方で話し掛けられた佑丞は、当事者が現れたことで嬉しいやら面倒事に巻き込んでしまうことを申し訳ないやらなどという思いがあるのか、複雑な表情で笑みを浮かべている。



 そして、突然現れ話の腰を折ってきた闖入者に対し、抗議しようとした男は、治乃介の姿を見て一瞬固まった。



 それは、本能とも言うべき野生の勘であり、男は治乃介に何か不安めいた感覚を覚えたのだ。

 まるで、自分と同格の存在と相対しているような、ライオンが初めて虎と出会ったかのような、治乃介を見た瞬間男はすぐに彼が自分の探し求めていた人物であることを直感的に理解した。



「ようやく現れたようだな。無名玄人ぉー!!」


「……」



 男は、治乃介に指を突きつけ、彼のペンネームである無名玄人という名を絶叫する。

 一方、指を差された治乃介はといえば、特に反応を示すことなく、男を見据えている。



「あなた、誰ですか?」


「何? 少年、俺のことを知らないと言うのか!?」


「初対面ですよね?」


「……いいだろう。聞いて驚け! 我が名は帝流聖。日本ライトノベル界を背負って立つ男だ!! どうだ!!」



 男が一体何者であるのか疑問に思った治乃介は、誰何の声を上げる。

 男はといえば、治乃介が自分のことを知らなかったという事実に驚愕しながらも、大げさに自己紹介をした。



 これで男……流聖は治乃介が驚愕の表情を浮かべながら「まさかあの超有名人の帝先生だったとは……」と感激する姿を想像していた。しかし、流聖の自己紹介に対し、返ってきた治乃介の反応は、彼の予想に反していた。



「……」


「ん? 少年?」


「……」


「まさかとは思うが、帝流聖を知らないとか言うんじゃあるまいな?」


「知りません。誰ですか、帝流聖って? 新しい中華料理屋か何かですか?」


「ぐはっ、おお……今のは効いた。なかなか重い一撃だったぞ少年」


「……」



 流聖の自己紹介に対して、治乃介から帰ってきた反応は無であった。

 今まで大黒帝グループの跡取り息子として育ってきた彼にとって、それは初めて返された反応だったのだ。



 そして、初めてであるが故に感じてしまった感情……それは、圧倒的屈辱。

 人間が行う行為の中でも悪質と言われているものは何か? それは、無視である。



 そこにいるはずの人間をいないものとして扱い、いてもいなくても何も変わらないどうでもいい存在とする。それが、無視である。



 流聖が感じた屈辱は、今まで自分という存在が重要視されてきたことによる優越感から、いてもいなくてもいい存在という絶望のどん底に叩き落とされた時の落差によって生じた感情だ。



 そして、追撃とばかりに治乃介の口から放たれた言葉……それは“おまえのことなど知らない”という突き放すような言葉であった。



 仮にも国内市場において累計販売部数が九百六十万部というとてつもない数字を叩き出している超人気作家に向かって、彼はあろうことか“知らない”と宣ったのだ。



 それは流聖にとっては、拳銃のピストルで心臓を貫かれたかのような、はたまた電車に撥ねられたかのような衝撃を与えるものであった。



 あまりのショックに、流聖はその場に両手両膝を地に付け、治乃介の放った言葉に打ちひしがれている。俗に言う、ORZな状態だ。



 一方の治乃介はといえば、突如いわれのない敵意を向けてきた人間に一般的な意見を返しただけであり、無反応については彼が純粋に流聖のことを知らなかっただけであった。



 そのまま動かなくなってしまった流聖にどうしたものかと、治乃介は佑丞の傍まで歩み寄ると、怪訝に問い掛けた。



「環さん、なんなんですこの人?」


「治乃介くん、本当に知らないのかい? 帝先生を?」


「知らないです」


「はあー」



 仮にも書籍化している作家であれば、国内の売れっ子作家の名前くらいは把握しておくべきではないかと佑丞はため息を吐く。

 だが、そんな情報を知っておかなくとも作家活動に何ら支障が出ないと突っ込まれれば、反論できないのもまた事実である。



 佑丞は、治乃介にできるだけわかりやすく説明をした。



「いいかい、今出版業界において出版社のトップに君臨しているのがうちの会社、英雄社だ。けどね。それはあくまでも出版社という括りであって、作家個人で見た時は必ずしもトップかと言われればそうじゃない。ここまではわかるかい?」


「まあ、なんとなくは」


「それでね。その作家個人という観点から見た時にトップの座に君臨していると言われるラノベ作家が日本国内には四人いるんだ。彼、帝流聖はその四人いる日本ラノベ界のトップに君臨するラノベ作家の一人なんだよ」


「なんか、四天王みたいですね」


「その認識で間違いないと思ってもらっていいよ。そんな四天王の一人を君は知らないと言ったんだ。この意味がわかるかい?」


「いいえ」



 佑丞の問い掛けに治乃介は首を横に振る。知らないもの知っているなどと嘘を吐く意味がないからだ。



 しかし、それはあくまでも治乃介の視点から見た価値観であり、当然相手側の視点から見た価値観では、その意味が異なってくる。



 そんな中、先ほどまでORZになっていた流聖がふらふらとしながらも立ち上がり、治乃介に視線を向ける。対する治乃介も、そんな流聖の姿を眺めていた。



「少年……否、無名玄人!! 俺と勝負しろ!!」


「宣戦布告だよ」



 流聖の勝負の申し出と佑丞の口から出た言葉は、まさにそれが真実であることを物語っていた。

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