30話
「おはよう治乃介君」
「……ども」
とある朝、いつものように学校へ登校してきた治乃介は、1年F組の教室に入ろうとしたが、入り口付近に陣取っていたある人物とかち合ってしまった。
待ち伏せされていたと言った方が正しいであろうその人物とは、言わずもがな早乙女乱菊である。
今日は夏休み唯一の登校日であり、生徒たちの生存確認をするという名目の日だ。
この日は、毎日出勤している職員が生徒の相手をしなければならない日であり、生徒にとっては連日の休みの中この日だけ登校しなければならないという、教職員側にとっても生徒側にとっても憂鬱な日である。
あれから、事あるごとに何かと治乃介と接触を図ろうとしてくる乱菊は、半ば質の悪いストーカーと化していた。
だが、そのことについて約一名を除いては、誰も彼女の奇行を諫めることができないでいたのだ。
その理由としては、彼女が学校の中でも人気の職員であること、女性として途轍もなく顔立ちの整った絶世の美女であること、詩人としてかなりの影響力を持っているということなど様々な理由が挙げられるが、そんな人間が間違ったことをするはずがないという先入観も相まって、彼女が特定の生徒に付きまとっているなどいう奇行に走っていると思わなかったのだ。
「治乃介君、うちの部に入りなさい。あなたなら、きっとその才能を開花させられるわ」
「家のことが忙しいので、遠慮します」
「遠慮しなくていいのよ。これはあなたのためでもあるのだから」
「……」
これである。
今まで、間違ったことを行ってもそれを諫めてくれる相手がいなかった人間は、自分が奇行を犯していることに気付きにくい。
治乃介の遠回しな断りも察することができず、自分の行っていることは正しいことであるとばかりに執拗に彼を文芸部への勧誘を行っていた。
乱菊ほどの美女に付きまとわれるのであれば、男冥利に尽きるところではあるが、残念ながら治乃介にはそういった下心はなく、ただ鬱陶しいだけであった。
これが邪な考えを持った人間であれば、それこそ薄い本に出てくるような展開となるのだろうが、現実にそのようなことが起きるはずもなく、また乱菊は乱菊で、治乃介に付きまとっているのはただ文芸部に勧誘したいという実直な気持ちであり、異性として彼に魅力があるというわけではないため、やはりそういった展開にはなり得ない。
「治乃介君、是非我が文芸部に――」
「何をしておるのじゃ? 早乙女先生?」
ここで治乃介にとって救いの神となあるであろう存在、乱菊を唯一諫めることができる人間が姿を現す。文芸高校の校長、東京極院圭吾朗である。
その表情は、またかといった様子で乱菊にジト目を向けており、圭吾朗が彼女に心底呆れ果てていることが窺える。
それを遠巻きに見ている生徒たちは、まさか乱菊が私情で治乃介に言い寄っていることに気付かず、ちらちらとこちらの様子を凝視していた。
まさか、あの品行方正で真面目な乱菊がたった一人の生徒に対し、このように乱れるとは予想だにしておらず、圭吾朗は内心でため息を吐く。
それと同時に、彼女にも人間臭い部分があったことに喜んでもおり、年齢的に孫に向けるような感情を抱いていた。
「治乃介君を勧誘していたところです」
「以前、彼に断られていたのではないかね?」
「ですが」
「早乙女先生、熱心なのは結構なことじゃが、何事も相手の気持ちを慮ってこそだということを覚えておきなさい。治乃介君、行って良いぞ」
「ありがとうございます」
圭吾朗の言葉に、治乃介は心の底からの感謝を述べる。
今、こうして彼が平穏な学校生活を送っていけるのも、何かと校長が気に掛けてくれるからであり、執拗に誘ってくる乱菊を諫めてくれるただ唯一の存在であるため、校長の気遣いいたく感激していた。
「ああ、まだ話は終わっていません」
「そうじゃな。そこのところをきっちりと説明せねばなるまい。早乙女先生、校長室に来なさい」
まだ諦めの悪い乱菊の腕を取って、校長が彼女を強制退場させる。
だが、乱菊の目にまだ欲望の光が宿っているところを見れば、まだ彼女が治乃介を諦めていないのは明白だ。
(くっ、次こそは必ずあなたをものにしてみせる!)
その射殺さんばかりの視線に、治乃介は頬を引きつらせながら、二人を見送った。
(そういえば、いつの間にか二人ともに下の名前で呼ばれるようになったな……)
治乃介が文芸高校に入学して早四か月が経とうとしていた。
その間に乱菊にはなぜか懐かれてしまい、どういった経緯で好感度が上昇したのか知らないが、気付いた時には下の名前で呼ばれるようになっていたのだ。
そして、校長も同じくよく治乃介に突撃する乱菊を連行していく関係で、他の生徒よりも話す機会が多くなっており、自然と親密度は上がっていくことになる。
彼が意図しないところで二人の親密度が上がってしまい、ふと気付けば今の状況が作り上げられていたのだ。
一体どうしてこうなったと内心で頭を抱える治乃介だったが、いち生徒でしかない自分の力では、現状をどうにかできるかというと難しい。
その気になれば、みゆきにこのことを相談して動いてもらうという選択肢もなくはないのだが、そうなるとみゆきと乱菊という我が強い者同士のぶつかり合いとなってしまい、下手をすればマスメディアを巻き込んだ大戦争に発展しかねない。
彼としても、まさかたった一人の生徒のためにそこまでの事態になるわけがないという現実的な考えと、あの二人であればそうなる可能性は十分にあるという謎めいた確信があり、みゆきへの相談はしないと彼は結論付けている。
「よぉ、大先生。なんか早乙女先生とあったみたいだが、どうかしたのか?」
「なんでもない」
「おはよう、文豪寺君。あなたも相変わらずみたいね」
「小鈴木さんもね」
教室に入ると、健一と咲の幼馴染コンビが声を掛けてきた。
あれ以来二人とは何かと話すようになり、一応ただのクラスメイトからよく話すクラスメイトという位置付けにいる二人なのだが、友人と言える間柄にはまだほど遠い。
というのは、治乃介本人の感想であり、二人にはがっつり友人認定されている。
どこの世界に、休み時間ごとに話し掛けてくるクラスメイトがいるというのか。見方を変えれば嫌がらせに見えなくもない。
もちろん、二人にそんな感情はなく、ただ友人と話をしたいという純粋な思いだけなのだが、どうやらその思いは彼には届いていないらしい。
「あ、おはようございます」
「おはよう」
そして、この人も忘れてはいけない。
治乃介の隣の席の住人、桜井美桃だ。
美桃と会うのは、あの三つ巴の戦い宣言があって以来であり、治乃介的には特に気にした様子はない。
だが、彼に対して特別な感情を抱き始めていることに気付いている彼女としては、その感情の正体が未だに掴み切れていないため、彼のことを意識してしまうのも無理からぬことであった。
当然、そんな思いを持っていることを本人に伝えるなどという愚行を犯さず、自身の胸の内に秘めている美桃としては、この感情の正体がなんなのかと突き止めるべく、できるだけ彼の行動をそれとなく注視していくと心に決めていた。
「三位でした」
「ん? なにが?」
「【あのライトノベルがやべぇ】の結果です」
「ああ、そういえば二人の作家と勝負してたんだっけ?」
「美作さんには勝ちましたが、無名さんには負けてしまいました」
「そっか」
その負けた本人にそれを伝えていることなど露とも知らず、美桃はあの場に居合わせた人間の一人として治乃介に報告していた。
それを聞かされたところで、労いの言葉や慰めの言葉を言うのはどことなく違うような気がして、治乃介は結果についてのリアクションは避けた。
「うーい、おまえら生きてたか―?」
何か言った方がいいのかと治乃介が口を開きかけたその時、絶妙なタイミングでチャイムが鳴る。
健一と咲の二人も、治乃介と美桃の意味深な会話に問い詰めたかったが、ホームルームが始まってしまうため、そのまま自分たちの席に戻って行った。
「とりあえず、全員生存が確認された。おまえたちよくぞ生きていた。その調子で残りの夏休みも乗り切ってくれ。ああ、あと現時点で宿題ができてない奴は今から頑張って励むように。では、このあと校長からのありがたーいお言葉を頂戴するからそのつもりで」
そう一森が言い終わり、モニターの電源をオンにする。
文芸高校のロゴが、ゆっくりとくるくる回転する様子の待機画面がしばらく映し出されたのち、画面が切り替わって先ほど会ったばかりの校長の姿が映し出される。
その顔には、治乃介が会った時にはなかったひっかき傷のようなものが付いており、あのあと乱菊と何かあったことは明白であった。
だが、その事実に気付いているのは治乃介一人であり、そんな目に遭わせてしまったという罪悪感が彼の中で芽生えた。
「こほん、文芸高校生徒諸君おはよう。わしが文芸高校校長、東京極院圭吾朗である。もう一度言う。わしが東京極院圭吾朗である!!」
「校長。くどいです。そんなことは生徒たちも理解しておりますので、さっさと話を進めてください」
「……最近わしに対する態度が辛辣過ぎんかの?」
「気のせいです。私の邪魔をしてきたり、あの子の勧誘を諦めろと言ってきたり、説教染みたパワハラまがいの言動の数々を受けておりますが、私は気にしておりません」
「がっつり気にしておるじゃろうが!!」
相変わらずの漫才を繰り広げる二人であったが、すぐに本題に入る。
本題といっても、一森が言っていたように残りの夏休みを有意義に過ごせということだけであり、校長のありがたい(?)お言葉はすぐに終了した。
これで無事に終了するかと思いきや、事件が起こった。
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