17話



「も、もしもし……」



 先ほどまでの大きい態度とは打って変わって、弱々しいまるで小動物のような小さな声でかかってきた電話に零は応える。



『すぅ~、はぁ~。すぅ~、はぁ~』



 それは、ただの吐息であった。まさに、某悪役を彷彿とさせるような息遣いであったが、それを指摘できるほど今の零に余裕などはない。

 しばしの沈黙が流れたのち、まるでタイミングを見計らっていたかのように、電話口から声が響いてくる。



『久しぶりね零。龍希さんから連絡があったんだけど、あんた人様に迷惑を掛けてるんですってねぇー?』


「ち、違うの姉さん。ただの行き違いで――」


『言い訳無用!! どうやら、私の教育が甘かったみたいね。あれほど口を酸っぱくして“人様には迷惑を掛けるな”と言っていたのに……。これは、再教育が必要かしら?』


「っ!?」



 美作静音……海外を拠点に【SHIZUNE】というペンネームで活動している小説家であり、その表現力の高さから【ノベルの魔術師】と称される日本人作家だ。



 若干二十二歳にして海外の小説コンテストを総なめにし、近々ノーベル文学賞にノミネートされるのではないかと業界では噂されている。



 その中でも、ピュリッツァー賞を受賞した際、海外のみならず日本でもテレビのニュースで取り上げられるほどの騒ぎとなったのは人々の記憶にも新しい。



 そして、そんな偉大な人物を姉に持つ零は、彼女を最も尊敬しており、それと同じくらい恐れてもいた。

 そんな人物から再教育をすると宣告され、途端に零の顔が青白くなる。



『とりあえず、龍希さんに替わってちょうだい』


「姉さんがあなたに替われと」



 本当なら、姉に今回の件について言い訳したいところだが、先ほど言い訳無用と言われてしまった手前、何を言っても聞き入れられないことを理解している零は、大人しく静音の指示に従って自分のスマートフォンを龍希に差し出す。



 そのままスマートフォンを受け取った龍希は、スピーカーのボタンにチェックを入れ、零にも静音との会話が聞こえるようにした。

 これは、彼女の優しさであり、自分と姉との間でどんな会話が為されたのかを零に聞かせるためだが、その内容如何によっては、ただ自分の処遇が決定する瞬間を直接聞かせるという拷問でしかないことを彼女は理解していなかったのだ。



「お電話替わりました。お久しぶりです静音先生」


『あなたから先生呼ばわりされるのはむず痒いですが、ご無沙汰しております龍希さん。今回は、うちの愚妹がご迷惑をお掛けしましたことをお詫び致します。誠に申し訳ございませんでした』


「いえ、こちらこそ貴女の手を煩わせることになってしまい、大変申し訳ない限りです」


『妹には、私の方からきつく言っておきますので、今回は何卒穏便に済ませてはもらえませんでしょうか?』



 といった具合に、丁寧な大人の会話が飛び交う話の内容を零は呆気に取られた様子で聞いていた。

 驚くべきは、あの姉が龍希に対して一歩引いたような態度を取っていたことだ。



 零から見て静音という人間は、誰かに媚を売ったりするような人間ではない。

 どちらかといえば、媚を売られる側であるという認識が彼女にはあり、こうして誰かに対してへりくだった態度を取るようなところを見たことがなかったのだ。



(あの姉さんが、ここまで丁寧な対応をするなんて……)



 その事実を突きつけられ、零改めて龍希という存在がどれだけ静音にとって重要な人物であるかを思い知らされると同時に、彼女の中で姉の上にいる存在など皆無だったところにいきなりその上位の存在が出現したことに戸惑いを禁じ得なかった。



「私としては、真面目に取り組んでくれれば問題ありません」


『ありがとうございます。必ずや、更生させてみせますので、今回のところはお目こぼしいただければ』


「わかりました。他でもない貴女の言葉を信じましょう」


『感謝致します。それでは、妹に替わっていただけますか』



 そして、静音の口から零にとって聞きたくなかった言葉が発せられる。それ即ち、再教育である。

 だが、冷静になって考えれば、姉は現在海外在住で実際に零の手の届くところにはいない。そのため、静音に直接的に何かされることはないと彼女は高を括っていた。



「そのままお話しください。言いそびれましたが、先ほどまでの会話はスピーカーの状態にしておりましたので、妹さんにも内容は聞こえております。このまま喋っていただいても問題ありません」


『……お心遣い痛み入ります。零? 一度しか言わないからよく聞きなさい』



 先ほどの会話の内容が伝わっていることを龍希が話し、手間が省けたとばかりに静音が礼の言葉を口にする。

 そして、電話口の彼女はそのまま零に向かってある話をし始めた。



『あなたが日本で小説家をやりたいって言った時、私はアクト社を推薦したわよね? なぜ、英雄社ではなく業界二番手と揶揄されているアクト社だったのか。それは、アクト社には龍希さんがいたからよ』


「え?」



 静音が小説家として日本を拠点に活動したい旨を零から聞いた時、静音は真っ先にアクト社との専属契約を勧めた。なぜなら、アクト社には林道龍希がいたからである。



 静音がまだ十代前半だった頃、彼女は零と同じくアクト社で小説家として活動していた。

 そして、彼女の担当だったのが、当時まだ平の社員でしかなかった龍希だったのだ。



 平とはいえ、彼女の手腕はすでに他の社員と比べて頭一つ抜きん出ており、いずれ編集長の座におさまる逸材であると誰しもが思っていた。



 そんな彼女に静音が全幅の信頼を寄せるのも至極当然であり、このままアクト社の看板作家としての道を歩むかに見えた。



 だが、突如として龍希は静音に対しこう助言したのだ。



“貴女は海外でこそ、その才能を開花させることができる。日本に収まる器ではないから、世界に目を向けてみてはどうだろうか?”と……。



 当時まだ十代だったこともあって、その言葉は静音を突き放すような酷い暴言だと彼女自身憤慨した記憶が残っている。

 だが、今となっては静音を慮っての言葉だったと、確信を持つことができる。



 アクト社を……龍希のもとを去るのは心苦しかったが、静音は彼女の助言に従い、海外に目を向けるべく日本を飛び出した。

 その結果、彼女の眠っていた才能は見事開花し、今は世界を代表する大小説家として世界有数の小説家たちと肩を並べるにまで成長を遂げたのである。



「そ、そんなことがあったなんて……」


『だから、私は自分をここまでの人間にしてくれた大恩人の龍希さんに妹を託した。だというのに……随分と私の顔に泥を塗ってくれるじゃないの? ええ、零?』


「ひぃ」



 先ほどまでとは空気が一変する。

 一定の才ある者に存在する独特の空気は、周囲を威圧する覇気となる。それを無意識に放出すれば、それ以外の凡夫など委縮し、身動きすら取れなくなってしまう。



 まさに蛇に睨まれた蛙状態の零にそれ以上抵抗する意志はなく、ただただ動けないでいた。

 零もまた非凡なる存在ではあるが、上には上がおり、彼女ですら圧倒してしまうほどの威圧感が静音にはあった。



 累計販売部数数十万部という実績を持つ零であっても、所詮は日本という一国で見た時の数字でしかない。

 だが、それが一国のみならず全世界で数百万、下手をすれば四桁万部に手が届き得る才能を前にすれば、たかが数十万部など話にならないだろう。



 膠着状態となっている二人の状況を見かねた龍希が、ここで助け舟を出す。



「静音先生、お互い忙しい身です。これ以上、下らないことに時間を費やすのは、建設的ではないと思うのですが?」


『……そうですね。今はこれくらいにしておきましょう』



 龍希の言葉を受け、静音の威圧を解く。

 姉の重圧から解放された零といえば、額に汗を流しながら息が乱れていた。



 対峙していない状態でこれだ。もし彼女が静音と対峙していた場合、どうなってしまうのだろう。



 だが、今零が心配すべきはそこではない。静音は、龍希に対し“今は”という言葉を使った。

 つまりは、今後零が姉の調きょ……もとい、教育的指導を受けるのは、彼女の中で決定事項であるということの裏返しなのだ。



『そうだ。ついでだから言っておこうかしら。零、近々新作の取材で日本を訪れることになったの』


「え?」


『今回の件についての詳しい話は、その時にじっくりと聞かせてもらうわ』


「……」



 美作零、完全終了のお知らせパート2である。



 零は、静音が海外に在住しているから直接的な被害は出ないと高を括っていた。

 だが、実際に静音が日本にやってくるとなれば、もはや零に逃げ場などはない。



『ああそうだ。言っておくけど、雲隠れしようとしても無駄だからね。私とかくれんぼをして、今まで一度たりとも勝てたことがあったかしら?』


「……」



 その答えは、否である。

 零は今までかくれんぼのみならず、ありとあらゆる分野において一度たりとも姉に勝ったことはない。



 静音は零の完全なる上位互換であり、彼女が唯一頭の上がらない人物でもあるのだ。静音の口癖“姉より優れた妹などこの世に存在しない”とはよく言ったものである。



『それでは、龍希さん。聞いていました通り、近々日本に帰国します。今回の件と帰国の挨拶はその時にでも改めて』


「承知しました。貴女と会えるのを楽しみにしております」


『それまで、妹のことよろしくお願いします。では、失礼します』



“ぷちっ、ツー、ツー、ツー、ツー……”



 静音が龍希に挨拶をしてから、電話を切った。

 スピーカーから流れる電話が切れた時のツーという音が虚しく響き渡る。



「そ、そんな。姉さんが、姉さんが来る……」



 姉がやってくるという事実を受け止められず、足元がおぼつかない状態でふらふらと零が歩く。

 そして、最終的に膝を付き両手を地面についた体勢となる。言わずもがな、ORZな状態だ。



 そして、奇しくも今まで空気と化していた武虎の隣でその状態となった零であったため、筋肉だるまのおっさんと少女がまったく同じ体勢になるというシュールな光景が広がっていた。



「やれやれ」



 龍希は、そんな二人を笑うでもなく、ただただ冷ややかな目を向けるだけであった。

 何度も言うが、彼女は決して意地悪で今回のようなことを行っているわけではなく、真面目に働かない人間をいかに効率良く働かせるかを突き詰めた結果、こういった行動を取っている。



 それを知らない人間には、些か酷なことをしているように見えるが、武虎の件についてはオリジナルの写真に手は付けておらず、あくまでもコピーしたものを使用したり、零の件についても、二回三回と注意した上で今回の静音の件に繋がっているということを追記しておく。



 それから、二人が復活するまで三十分掛かることになるのだが、その復活には龍希が“また同じことをしますよ?”という脅し……否、呼び掛けがあったのは言うまでもない。

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