6話
「……」
突如としてベッドからむくりと起き上がる影があった。
その部屋の主である治乃介だ。
衝撃的なことをみゆきから聞かされた翌日、彼はいつもの癖で早朝とも言うべき時間帯に目を覚ます。
窓から朝日が差し込んできていることから、少なくとも五時や六時ではないことを感覚的に理解した治乃介は、頭をガシガシとかき混ぜると、そのまま洗面台へと向かう。
洗面台で顔を洗って眠気を吹き飛ばすと、そのまま朝食の支度を始めようとした。しかし、台所のテーブルに昨日そこにはなかったものがあった。
「ん?」
そこには、昨日あれほど自分の部屋の押し入れで探し回った原稿用紙が置かれており、誰がそれを置いていったのかすぐに答えに辿り着いた治乃介だが、同じく置いてあった書置きを見て顔を歪ませる。
どうやら、すでに仕事に出掛けたみゆきが残したものらしく、その書置きにはこう記されていた。
“私の大大だーい好きなおーちゃんへ。
小説の続きを書くのなら、前回の話がどんなだったか必要だと思うので、これを置いておきます。
あと、執筆用に最新型のノートブックもあるので、これも活用してください。
追伸、その原稿用紙はもうコピーを取ってあるので、処分しても意味がないわよ?”
「くっ、読まれている」
さすが何年も一緒に生活をしているだけあって、治乃介の行動パターンはすべて読まれていた。
この原稿用紙をこの世から抹消すれば、これ以上被害を拡大せずに済むと思った治乃介だったが、そんなことはみゆきはお見通しだったようで、先手を打ってバックアップを取っていた。
テーブルには、原稿用紙の他にノート型パソコンが置かれており、どうやらこれで小説を書けということらしい。
用意周到な母に呆れながらも、とりあえず朝食の準備に取り掛かるため、一旦このことは頭の片隅へと追いやる。
手慣れた手つきで朝食の準備をする。
今日は、トーストの上に目玉焼きとベーコンを乗せた某アニメでもあった簡単ブレックファーストで、カリカリに焼けたベーコンと半熟の黄身が実にマッチした朝食だ。
「いただきます」
傍らにはコーヒーと牛乳で割ったミルクコーヒーもあり、朝食としてはスタンダードなものだ。
治乃介は手を合わせて律儀にも食前の挨拶を言ってから食事を始めた。
いつも食べているものだけに、特に美味しいなどという感想は抱かず、淡々と食事を行っている。
その最中、ふとテーブルに置いてある原稿用紙とノートブックに目が行くが、すぐに何もない虚空に視線を戻し、食事を続ける。
「ごちそうさまでした」
食事が終わると、すぐに使った食器を片付け、終わらせるべき家事をやり始める。
家事自体も、治乃介の役割でみゆき自身もできなくはないのだが、編集の仕事が忙しく、彼に頼ってしまっている部分が大きい。
といっても、彼自身は家事を趣味として行っているので、みゆきが押し付けてきたとしても嬉々としてそれをやることにはなっていたのだが、とにかく文豪寺家では家事のすべては治乃介に一任されていた。
そして、常日頃から家の掃除を行っているからか、その日やるべき家事もすぐに終わってしまい、手持ち無沙汰になる。
最近はいつもこうなってしまい、暇つぶしのため何か新しいことでも始めようかと思っているのが、最近の彼の悩みでもあった。
「小説か……小説ねぇ……」
一通り家事を終わらせ、再び台所のテーブルで一息ついたところで、思い出したように治乃介がぽつりと呟く。
思い返してみれば、家事以外にやりたいと思うような趣味がなく、ゲームや漫画なども嗜む程度には興味があるものの、どっぺりとのめり込むほどでもない。
そして、過去に治乃介が小説を書いてみた動機も、中学に入学する間の暇つぶしという現在と似通った状況だということもあって、考えれば考えるほど、小説を書かないという選択肢が徐々に狭められていることに気付かされた。
「そういえば、俺ってどんな小説を書いてたんだっけ?」
大まかな内容しか覚えていなかったため、改めて過去の自分の遺物を手に取ってみる。
これもすべてこの暇な状況が悪いのだと、誰にするともない言い訳を並べ奉りつつ、治乃介は自分の小説を読み始めた。
「なるほどな……つまらん!」
人という生き物は、自分が行っていることを過大評価することはせず、自分ができることは他人にも簡単にできてしまうと思い込む傾向にある。
過去に自分が書いた拙い――治乃介はそう思い込んでいる――文章を何か知られたくない黒歴史のように読みつつ、彼が出した結論は、つまらないという答えだった。
他の人間が今の彼の発言を聞けば「おまえ馬鹿じゃねぇのか!」と突っ込まれること必至なのだが、残念ながら今の彼に突っ込みを入れてくれる人間がその場にいなかった。
しかし、返ってそれが功を奏した。
「こんなつまらないものが、書籍になっているだと……? ふざけやがって!! ふんっ」
中途半端は性に合わない性格の治乃介は、過去に自身が書いた小説の拙さに憤慨した。
そして、今後そんな中途半端な状態のものが書籍になり、多くの人の目に触れるなど許されない。そう判断した治乃介は、テーブルに置いてあったノートブックを手に取ると、自分の部屋へと直行する。
窓から入ってくる春の風は、治乃介が初めて小説を書いた三年前と変わらず、温かな日差しと共に彼の部屋を照らしていた。
部屋の机にノートブックを置き、さっそく電源ボタンを入れ起動する。しばらくして、デスクトップ画面が表示され、そこに置いてあった小説を書くためのアプリを起動させ、すぐさま執筆活動を開始する。
「ええと、パソコンはあんまりいじってないからな。こればかりは、少しずつ慣れていくしかないな」
文豪寺家にはパソコンがないわけではなく、みゆきが仕事用に自身の部屋に設置しているデスクトップパソコン一台は辛うじてある。
だが、それはあくまでもみゆきの仕事用であり、家事を趣味としてきた治之介にとって、パソコンの操作は小学生や中学生の時代にパソコンを使った授業でいじったことがある程度の経験しかない。
そのため、ブラインドタッチや高速でのタイピング打ちなどのパソコン操作に関連する技術は皆無であり、ゆっくりとキーボード入力ができるくらいの能力しか持っていないかった。
「ふう……よしっ!」
治之介は目を瞑り、深呼吸を一つする。
その後、ノートブックの画面に意識を集中させ、キーボードをカタカタと打ち鳴らし始めた。
部屋にはそれ以外の音はなく、次第に治之介もかつて小説を書いた時の感覚を取り戻し始める。
三年間という期間何もしてこなかった彼だが、特にブランクのようなものはないらしく、まるで長年使っていなかった能力をようやく使う時が来たとばかりに頭の中に文字が浮かび上がる。
途中で止まっていた物語が再び動き始め、登場人物が生き生きとまるで再び動き出すことを喜んでいるかのように物語が進行していく。
「……」
治之介自身、不思議と悩んでいる様子はなく、おぼつかない手つきだがその手を止めることなくカタカタと文字を入力していく。
何時間経過しただろうか、そのあまりの集中力に時間が経つのも忘れていた治之介だったが、突如として自身の腹の虫が空腹を継げたことで、既に昼過ぎだったことに気付く。
「昼飯だな」
そう言いつつ、昼食のため席を立ち台所へと向かう。
昼食は手早く済ませるため、スーパーで数十円で販売されているお徳用うどんを使った素うどんと、彼自身の手で握ったお手製のおにぎり二個という炭水化物イン炭水化物というメニューだ。
ちなみに、おにぎりの具にはこれまたスタンダードに梅とおかかを使い、腹持ちがいいように普段よりも大きめに握っている。
「……ごちそうさま」
それを短時間で完食すると、素早く使った食器類を片付け、再び部屋へと戻って執筆を再開する。
その集中力は途切れることなく続き、次に彼が気付いた時には、夕食を準備する時間帯となっていた。
「ただいまー」
夕方に差し掛かった頃合いに、みゆきが帰宅する。
普段の彼女のルーティーンでは、日曜日は必ず家での在宅ワークを行っており、彼女が手掛けるイラストもこの日に制作されることがほとんどだ。
自分の一番落ち着く場所で作業をすることで、効率良く仕事ができるということをみゆきは語っており、現にそのイラストはイラストレーターとして活動していた頃と何ら遜色はない。
「おーちゃんどうだった? ノートブック使えた?」
それは、あたかも治之介が執筆を行うことをあらかじめ知っていたかのような口ぶりであり、そのことを信じて疑わない物言いであった。
事実、彼は今日執筆を行っており、家事、食事、トイレ以外では一日の大半をノートブックとの格闘に費やしていた。
「さあな」
「どんなものを書いたか、見せてちょうだい」
そう言いながら、治之介の部屋と向かっていくみゆき。
その動きも、今日一日どこで執筆を行っていたのかわかっている様子であり、母として息子の行動パターンをすべて熟知している。
治之介はそんなみゆきの様子に内心で苦笑しながらも、彼女を止めることなく、そのまま彼女の後ろを付いていく。
部屋に入ると、電源の入ったノートブックににやりと口の端を吊り上げたみゆきは、さっそく今日の成果を確認するかのように画面に表示された文章を目で追っていく。
その様子を後ろからボーっと眺めていた治之介だったが、すぐに夕食の支度の途中だったことを思い出し、しばらくして台所へと向かっていった。
それから、数十分の時が流れたが、みゆきは目の前の文章に釘付けとなっていた。
治之介の口からかつて小説を書いたのは三年前であり、今回久しぶりに執筆するということを知っていたみゆきは、その書かれた文章を見て驚愕した。
(これが、本当に久しぶりに小説を書く人間の文章だっていうの? この引き込まれる文章力と圧倒的に先が気になる発想力……こんな才能を眠らせていたなんて)
その時、みゆきは偶然押し入れに眠っていた彼の小説を発見できたことを心底良かったと思った。
下手をすれば、この才能を埋もれさせたままになっていたかもしれない。それは、業界にとっての大損失になりかねないと考えた。
それほどまでに、彼が久しぶりに執筆したという小説は凄まじい内容となっていたのである。
「……」
「ご飯できたよー。って、まだ読んでたの?」
「……いわ」
「え? 何?」
「凄いわ、凄すぎるわよおーちゃん!! やっぱり、私の判断は間違っていなかった!!」
「ぶふぉ!?」
感極まったみゆきが、治之介の頭部を抱きかかえる。
突如として視界が奪われた彼の顔面は、その柔らかな大いなる谷間に埋もれる事態となっていた。
これが、赤の他人であればどれほどに羨ましいシチュエーションであるかと、治之介に対して嫉妬と怨嗟の声を割れんばかりに叫んでいたことだろう。
しかしながら、彼にとっては子どもの頃からずっと一緒にいる母親にそういった邪な感情を向けるわけもなく、ただただ息苦しいとばかりに暴れるだけであった。
「ぷはぁー。ちょ、ちょっと母さん! 苦しいから離してよ!!」
「もう、おーちゃんたらいけずなんだから。私のおっぱいに顔を埋めたいっていう男の人は結構いるのよ? それなのに……」
「だったら、俺じゃなくてそいつにそうしてやればいいだろう!?」
「嫌よ。私のおっぱいを好きにできるのは、天国にいるあの人とおーちゃんだけなんだから!」
などと、自身の胸を両手で抱えながら、みゆきは治之介に力説をする。
だが、彼にとってその理屈は理解し難いものであったらしく、彼女に向けられたのは呆れを含んだジト目であった。
「とにかく、ご飯ができたから早く台所に来て」
「これは、続きが楽しみになってきたわね」
編集としてではなく、いち読者としても治之介が生み出す物語の続きが気になるみゆきは、今後の彼の作家としての活動に期待を寄せつつ、息子の作った夕食に舌鼓を打つのであった。
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