4話



「こいつめ、こいつめ。駆逐してやる、駆逐してやる、駆逐してやるー!!」



 風呂場という狭い空間で、治乃介の声が反響する。

 学校の入学式を終えた彼がまず行ったことといえば、やはりというべきか前日やり残した家事……風呂掃除であった。



 どこかで聞いたことのなるような耳に残る台詞を連呼する治乃介だが、決してそれを意識して言っているわけではない。

 ただ、確固たる決意を持って、今目の前に存在しているカビをどうにかするという彼の決意表明のようなものである。



 入学式から帰ってきてまずやることがそれなのかと思うほど、治乃介の行動は奇妙に映ってしまう。

 だが、そういった異常性は、客観的視点から見て初めて理解できるものであって、主観的視点の場合だと、どうしても自分の異常性に気が付きにくいという欠点を持ち合わせている。



「ふう、こんなところか。まったく、この俺をここまで手こずらせるとは……ふっ、愚かな」



 まるでどこぞの中二病をこじらせた若者のような言動だが、本人は至って正常であると認識している。

 こういった多感な時期の少年少女たちは、自分のやっていることに何かしらの意味を求め、大人になった時にそれがいかに恥ずかしい愚かな行為であったことを自覚するのだ。



 それが、いわゆる【黒歴史】というやつである。



 治乃介も何年かすればそのことを嫌というほど理解するだろうが、今の彼ではそのことに気付く客観的視点という視野を持ち合わせていないため、自分がいかに恥ずかしい言動を取っているか自覚することができないのだ。



「ただいまー。おーちゃーん、ちょっと来てぇー」



 そんなことをやっているうちに、彼の母親が帰宅してくる。

 今日は珍しく午前中という時間帯に家に戻った彼女だが、前日に会社に泊まり込んでの徹夜作業だったため、労働基準法的に問題になるということで、一旦家に強制帰宅させられただけなのだ。



 その時に上司である編集長と揉めたが、彼が泣いて土下座したことで、彼女が折れる形で帰宅することになったという経緯があった。

 そのやり取りだけで、彼女と編集長の上下関係がどうなっているのかが理解できるが、今は別の話を優先することにする。



 そんな珍しい出来事に加えて、さらに治乃介の母親が彼を呼んでいる。

 いつもであれば、仕事に疲れ死に体の如く寝室に直行するはずの彼女だが、何故か今日は機嫌が良い。



 ちなみに、治乃介の母親は彼のことを「おーちゃん」と呼んでいるようだ。

 そのことに、嫌な予感を感じながらも、治乃介が風呂場から返事をする。



「行けなーい」


「何してるの?」


「風呂掃除」


「ふんっ」


「あ、ちょっと母さん!?」



 未だ駆逐が完了していない悪魔と戦いつつ生返事をしていると、突如として首根っこを引っ掴まれ、まるで親猫が子猫を運搬するが如くテーブルのある台所へと連行されていく。



 そんな彼女の行動に抗議の声を上げるも、残念ながら物理的な力関係は未だ母親に軍配が上がっているため、抵抗虚しく治乃介は掃除の途中退場を余儀なくされた。



「そこに座りなさい」


「なに? また口説かれた話?」


「違うわ」


「じゃあ、編集長と揉めた話?」


「確かに、彼とは揉めたけど、それも違う」


「じゃあ、作家が言うことを聞いてくれないとか?」


「それは肉体裁判でどうとでも……おーちゃん? 一体私のことを何だと思っているのかしら? とにかくそこに座りなさい。真面目な話よ」



 治乃介と母親が普段話す内容というものは大抵決まっているため、彼はどういった内容かをあらかじめ言ってみたが、どうやらそのすべてがはずれだったようだ。



 彼女の口から真面目な話だということで、もしかすると大きな病気でも見つかったのではないだろうかという悪いニュースが頭を過ったが、それにしては母親がニコニコとした顔を張り付けているため、そういった類のニュースではなく、何か良いことがあったというのは間違いないと判断する。



 一体どんな話があるのかと思いつつ、治乃介は椅子に座ると、再度彼女に問い掛ける。



「で、真面目な話って何? 実は俺以外に父さんとの子供がいたとか?」


「もうこの子ったら。あの人が亡くなった時に、お腹の中にいた赤ちゃんがおーちゃんよ。もしそうなら、双子ってことになるじゃないの。話っていうのは、これよこれ」


「これは」



 話の本題に入った彼女は、テーブルに一冊の書籍を置いた。

 それは俗に言う【ライトノベル】というもので、端的に言えば手軽に読むことができる小説だ。



 そもそも、ライトノベルというものの明確な定義づけはされておらず、大抵がライトノベルを出している出版社がそういう趣旨の作品であると宣言していたり、主に若年層に向けた小説作品の総称だったり、挿絵やイラストを用いて登場人物のイメージや世界観を固定化させたものだったりとその内容は諸説存在する。



 英単語のlightとnovelが組み合わさった和製英語であり、一般的には青少年などの若年層向けの娯楽小説として認知されている。



「ん? この本見たことがあるな。ああ、そういえば同じクラスのやつが読んでたやつか」


「あら、もうそこまで広がってるのね。嬉しいわ」


「で、これがどうかしたのか? この作品を書いてる……無名、玄人ってやつがお気に入りとかか?」


「むめいくろとって読むのよ。この作品がデビュー作なんだけど……そうねぇ、ここ十年で一番の逸材だと思うわ」



 どんな話かと身構えてみれば、ただのお気に入りの作家を自慢したかっただけという話のネタにもならないオチに、治乃介は内心で呆れた。



 だが、ただそれだけで彼女が治乃介をわざわざ呼び止めたりするはずもなく、本当の話はここからである。



 文豪寺みゆき……今治乃介が対峙している彼の母親であり、あの天下の【英雄社】に勤めるエリート編集マンである。



 その編集の仕事ぶりは大胆かつ繊細であり、業界の人間からは【編集の鬼】という通り名がつくほどに、有名な人物でもある。



 各出版社が欲しい人材であり、彼女を英雄社から引き抜こうとヘッドハンティングの話もちらほらと出ているが、本人はそういった話に興味はなく、断り続けている。



 彼女が手掛けた作品は、軒並みベストセラーとして店頭に並び、英雄社と取引する作家はこぞって彼女に担当してもらいたいと指名が入るほどの敏腕ぶりだ。



「大層な入れ込み具合ですなー。で、話はそれだけ?」


「そんなわけないじゃない。この作品なんだけど、初版部数が五万部刷ってあるの」


「なぁっ、ご、五万部ぅ!? 母さん、何考えてるんだよ!」



 幼い頃から出版業界に勤める母親から話を聞いていた治乃介にとって、みゆきの口から告げられた初版部数は、デビューしたばかりの作家のものとしては、あまりに異常な数であった。



 通常書籍などを出版社を通じて販売する際、最初に本として印刷される部数があらかじめ決まっている。

 それが、初版部数であり小さな出版社だと大体二千から三千、大手の出版社でも五千から一万といった程度でしかない。



 だというのに、みゆきが口にした数は大手出版社の初版部数の五倍に相当する部数であり、あきらかに常識の範疇を超えていた。



 そもそも、紙媒体である書籍自体の需要が落ち込んでいる昨今において、ヒット作となる基準は、大体だが二万部と言われていた。



 そして、十万部を超えた辺りでベストセラーと位置付けられている。

 もっとも、その基準は出版社自身が決めていることであり、場合によっては三十万や五十万でないとベストセラーとなり得ないと判断することもある。

 そのため、書籍を出版した際にこの二万部という数字を超えるか超えないかによって、ヒット作になるかならないかの判断基準として見られることが多い。



 だが、今回はいきなり五万部というヒット作どころかベストセラーになりうる半分の部数を印刷してしまっていた。治乃介が驚くのも当然である。



「あら、私はこの作品がそれくらい売れると判断したつもりよ?」


「編集長とかに反対されなかったの?」


「もちろん反対されたわ。でも、ちゃんと抵抗したわよ。……(ゴツンッ)拳で!!」


「はは、また肉体裁判をやったのか……環さん、不憫な」



 英雄社に環佑丞(たまきゆうすけ)という人物がいる。

 編集長という肩書を持ち、編集マンとしてもその確かな実力を秘めた彼だが、実態は“編集の鬼のストッパー”や“副編集長を止める人”などあまりにあまりな言われようだが、本人も自分しかその役ができないことを自覚しているため、英雄社でも苦労人として知られている。



 そして、彼を最も困らせる人間というのは、説明するまでもなく治之介の母であるみゆきだ。

 その敏腕ぶりから副編集長という肩書まで上り詰めたエリートである彼女だが、時に無茶ぶりを発揮し作家の先生や同僚の編集社員を困らせている。



 特にその中でも編集長の佑丞は、何度みゆきの強引な振る舞いを止めてきたかわからないくらいに苦労をしていた。

 彼自身もみゆきの編集マンとしての腕は認めており、その扱い難い言動さえ直してくれればと日々願っているが、それをあざ笑うかのように彼女が大人しくなる様子はない。



「初版部数五万部なんて馬鹿げた部数、いきなり売れるわけがない」


「そんなことないわよ。私の見立てでは、そろそろ……」



 治之介の真っ当な意見に反論しようとするみゆきの言葉を遮るように、突如としてけたたましく「タンタンタカタン」という音が響き渡る。

 それは彼女の携帯電話の着信音だったらしく、上着の内ポケットから取り出した携帯電話を操作して彼女は電話に出た。



「はい、文豪寺です。あら、編集長、なにかありましたか? ……そうですか。私の思った通りの展開ですね。だから言ったでしょ? こうなるって。私の言うことは、いつも正しいんです。事情はわかりました。私の方からも先方様に連絡は入れておきますので、詳しいことは明日出社してから話しましょう。それでは」



 そう言って、電話を切るとその電話を片手に嬉しそうな顔を浮かべて、治之介に語り掛けてきた。



「聞いておーちゃん! さっき話してた書籍なんだけど、五万部すべて売り切れたそうよ」


「はぁ!?」


「それどころか、重版が決まったそうよ。十万部ですって」


「な、なん……だと……。ば、馬鹿な……あり……えない」



 治之介が驚愕するのも無理はなく、初版部数五万部すべてが完売するという偉業どころか、さらに十万部というこれも数字としては異常とも言うべき重版が決定したと、みゆきの口から伝えられる。



 重版とは、初版で印刷した本の売れ行きが良く、さらに増やしても問題ないと出版社が判断した時に行われるものであり、基本的に重版するかどうかの判断は出版社が行っており、その基準としては書籍が発売されてから十日で三割が消化されるといったものが存在する。



 今回の一連の流れにおいて、仮にこれがシリーズ累計数百万部を売り上げた超人気作家であれば、今回の数字にも納得ができる。

 だが、治之介の中で無名玄人などというデビューしたばかりの無名の作家が、ここまでの数字を生み出すなどあり得ないことだと考えていた。



 無名玄人という作家がその名前の通り無名であるならば、なぜここまでの販売部数を売り上げることができたのかという疑問が浮かぶことだろう。その答えは、目の前にいる彼女……文豪寺みゆきが持っていた。



 いくら腕のいい編集マンであっても、いきなり五万部などという常識外れな部数が完売するなどという事態にはならない。だが、それは彼女が持つ特異性に理由があった。



 今では、編集マンとしてその名が知れ渡っているみゆきだが、実は若かりし頃は【みゆっきー】というペンネームで活動していた超々人気神絵師……所謂イラストレーターだったのだ。



 彼女の編集としての仕事内容は、少々特殊なところがあり、自分が担当した作品のイラストをすべて彼女自身が手掛けてしまうというところにある。



 通常挿絵の入っている小説や表紙となるイラストについては、その道のプロであるイラストレーターに仕事を発注するのだが、みゆきの場合そんなことをしなくとも、自分自身でイラストが描けてしまうため「そうだ、わざわざイラストを発注しなくても、自分で描けばいいんだ」という結論になり、それ以降自身が担当した作品のイラストはすべて彼女が手掛けているのだ。



 その事実については業界内では有名な話であり、彼女がイラストを担当しただけでかなりの売れ行きになるほどに、彼女の描くイラストは神がかっている。



 イラストレーターとしての仕事も時々依頼されるのだが、それはすべて断っており、みゆきがイラストを描くのは、彼女が担当した作品のみとなっているため、そのイラストが欲しいという理由で、書籍を買っていく人間も少なくはない。



 つまりは、五万部という部数が売れた大きな要因としては、神絵師としてのみゆきの功績が大きいのだが、今回は少し毛色が異なっていた。



 確かに、彼女のイラストレーターとしての力を使えば、初版部数五万部でも楽々完売にまで持っていくことは難しくはない。だが、それ以降の重版についてはそうもいかない。

 特にこれだという明確には決まってはいないことなのだが、重版される大体の部数は初版部数と同程度か少し多いくらいというのが通例で、精々が三千から一万部程度でしかないのだ。



 では、なぜ今回は十万部という破格ともいうべき部数となったのか、それは書籍を扱っている書店に原因があった。

 この書籍を読んだ書店の仕入れ担当者が、是非とも追加で注文したいという電話が英雄社に殺到したことにより、十万部という通常ではあり得ない数字となったのだ。



 つまりは、イラストだけではなく執筆されている小説の内容自体が認められ、書店の店員が「これは面白い売れるぞ」と判断した結果によるものであった。



「驚いている所悪いんだけど、この書籍に関しておーちゃんにお願いがあるの」


「なんだよ?」


「実はこの書籍ね。次の二巻も発行が決まってるんだけど、そのためのストックがないのよね。だから、その続きをおーちゃんに書いて欲しいの」


「は?」



 そう言いながら微笑むみゆきに、治之介は再び素っ頓狂な声を上げて固まってしまった。

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