3話
治之介が再び惰眠を貪ろうと思ったその時、無慈悲にも始業のベルが学校全体に響き渡る。
それに合わせて、談笑していた生徒たちも指定の席に戻り、担任の教師がやってくるのを待っている。
先ほどまでとは異なり、誰も一言もしゃべることのない空間が教室内を支配する。
そして、その沈黙を破るかのように教室のドアがガラガラと音を立てて開かれた。
「おう、いるな」
そこにやって来たのは、二十代後半と思しき若い男性で、上下お揃いのスウェットのような格好と下は動きやすそうなスニーカーという、教師の格好としては比較的よくありそうな組み合わせだ。
体格もがっちりとしており、何かのスポーツをやっていてもおかしくないほどに筋肉質な体つきをしている。
身長も百八十センチは優に超えており、スポーツマン然とした見た目をしている。
男が教室にやってくると、多少乱雑に教室のドアを閉める。
教壇に回覧板のようなものを置き、生徒たちに背中を見せて何やら黒板に文字を書き始めた。
黒板に書かれた文字は、【相賀一森】という四文字熟語のような文字の羅列だったが、すぐにそれが名前であるということに生徒たちは思い至る。
そして、それを書き終えた彼は、徐に生徒たちに振り返ると、胸を張って高らかに宣言する。
「ちゅうもーく! 今日からおまえらの担任になる相賀一森(おうがいもり)だ。俺からおまえらに言えることは三つ。一つ、校則を守ること。二つ、他人に迷惑を掛けないこと。そして、最後の三つ目は……」
そう言いながら、一森はある席に座っている生徒の机の前に立つ。
そして、未だ机に突っ伏して眠りこけているであろうその生徒のこめかみに、両手で作った拳骨を当てると、そのままぐりぐりとやり始めた。
「うわぁー!」
「登校初日から居眠りとは言いご身分だな? もうとっくのとうに始業のベルは鳴ってんぞ?」
あまりの痛みに席を立って叫び声を上げる生徒……治之介に向かってそう一森が注意する。
言っていることは正論だが、その間の過程が少々子供染みているため、治之介としては何とも複雑な心境だ。
治之介にとって不運だったのは、彼にあてがわれた席が窓際から一つ隣の一番前の席だったことだろう。
これが比較的後ろの席であれば、一森の目に止まることもなかったかもしれない。
もっとも、その時はこれからされるであろう説明を聞き逃していた可能性もあったため、そういった意味では幸運だったとも言えなくもない。
とりあえず、一森の一喝によって眠気が吹き飛んでしまった治之介は、そのままブスッとした表情のまま席に座る。
一森としても、治之介が起きたことで目的を達成したとばかりに、教壇に戻って話の続きを再開する。
「いいかぁー、もう一度言うぞ? 俺の名前は相賀一森。今日からおまえらの担任先生になる男だ。俺からおまえらに言うことは三つ。一つ、校則を守ること。二つ、他人に迷惑を掛けないこと。そして最後に三つ、真面目に授業を受けること……だ」
改めて、先ほど口にしたことを説明すると、最後に治之介に視線を向ける。
それは、あたかも“おまえのことだぞ?”と言っているようだ。
それを受け、治之介はバツの悪そうな顔をするも、すぐにその雰囲気ががらりと変わる出来事が起こる。
「先生。一つよろしいでしょうか?」
「おうなんだ? わからないことがあるなら遠慮なく言ってくれ」
「先生の名前を逆から読むと、森鴎外と読むことができるのですが、やはりそういった意味で付けられた名前なのでしょうか?」
そう質問したのは、治之介に絡んできた健一だった。
治之介の名前を聞いた時と同じように目をキラキラとさせながらいる彼に、一森は顔を顰めながら質問に答える。
「ああ、親からはその鴎外にちなんで付けたって聞いた。でもな、小学生の時は散々この名前でいじられまくったからな。名前に関しては、あまりいい思い出はないんだわ」
世の中、変わった名前の人物は一定数存在すれども、そのほとんどが自らの意志によって決めたものではない。
大抵が、親かその親類が名付けを行っており、世間とかけ離れた常識を持った親の元に生まれてきた場合、とんでもない名前を付けられることも珍しくはない。
子は親を選べないとは、まさにこのことである。
一森の親もまたその特殊な常識を持った親の部類だったらしく、物心ついた頃にはあまり自分の名前についておかしいとは感じなかった。
だが、学校の授業で森鴎外のことを学び出した時期から、自分の名前がおかしいことに気付かされたのだ。
「森鴎外の息子だの、生まれ変わりだのとからかわれるガキの気持ちがわかるか?」
「そんなことないです! 先生の名前は素晴らしい名前だと思います!!」
「そ、そうか。そう言ってくれんなら、いいけどよ……。まあ、とにかくだ。これから、三年間よろしくっつうことで、まずは顔と名前の確認をしたいから出席を取るぞー」
健一の力強い言葉に一瞬だけたじろいだ様子の一森だったが、すぐに取り繕う様に自分のやるべき仕事を思い出し、教壇に置いた回覧板を開きながら、出席を取り始めた。
出席確認は、座っている生徒の席順となっており、呼ばれる名前もあいうえお順ではなく順不同だ。
「檜山美空。中谷宏伸。次は、えっと文豪寺治之介」
「はい」
「おまえだったか、おまえはこれからなんかやらかしそうだからな。ちゃんと、名前は覚えたからな」
「……」
特に代わり映えのしないよくある出席確認だったが、治之介の名前が呼ばれ彼が返事をすると、一森はさっそく問題児認定とばかりに治之介をロックオンした様子だ。
そのことに複雑な心境ながらも、元は自分が始業のベルが鳴っても居眠りをしていたことが原因であるため、客観的に見ればただの自業自得である。
そんなことがありつつ、出席確認が終盤まで来た頃に一森がある名前を呼ぶ。
その名前が呼ばれたことで、それまでゆったりとした空気が流れていた教室が一変し、その名前の人物に視線が注目する。
「次、桜井美桃」
「はい」
「あー、なんだ。こういうのは生徒と教師の垣根を超えた言い方になっちまうが、おまえの出した新作読んだよ。面白かった」
「ありがとうございます」
一森の言葉を聞いてふと視線を横に向けると、そこには今朝登校途中に出会ったあの少女の姿があった。
どうやら、彼女と同じクラスになったらしく、しかも隣の席というシチュエーションとしては恋愛ものの物語のような状況だが、そんな中でも特に治之介は気にした様子もなく、すぐに彼女から興味を失って、背もたれに体を預けつつどこか宙を見つめたまま物思いに耽る。
「……」
そんな様子の彼に美桃がさりげなく視線を向けるも、何か考え事をしている治之介が彼女の視線に気づくはずもなく、状況的には授業中であるため会話などもなかった。
出席確認が終わった後、一森はこのあと全校集会があることを説明する。
だが、近年猛威を振るったとある病原体が原因により、人の密集を避けるため、以前行われていた体育館に生徒を集める形式の全校集会は行われず、教室に設置されたモニターから映像を配信するオンライン全校集会が主流になっている。
それに関連しているのか、いつしか入学式に保護者が出席するということはなくなっていき、仮にいたとしても学校近くで自分の子供が戻ってくるのを待っているというスタイルに変化している。
「いいかー、このモニターに校長先生が映るから、この学校の校長のありがたーいお話を聞くように。じゃあ、スイッチ入れんぞ」
一森がモニターのスイッチを入れると、そこには教室に設置されているものと同じタイプの教壇が映し出されている。
おそらくは、どこかの教室を撮影場所として利用しているようで、登校していない上級生の教室のどこかを利用しているのだろう。
「これより、入学式を始めます。まずは……」
そんな中、画面から女性の声が聞こえてくる。
それからは、市長やそれ関連のお偉いさんと呼ばれている方々の祝辞が読まれ、入学式によくあることがモニター内で流れていく。
そして、ようやく校長先生によるお言葉を頂戴するところまで進んだ。
「では、最後に文芸高等学校校長による新入生にお言葉を賜りたいと思います。校長、どうぞ」
「……」
女性の言葉を受けて、モニターの右側から老齢の男性が現れる。
見た目は、人柄の良さそうな好々爺然とした白髪の老人だ。
どこにでもいそうな老人が、ただ黙ってカメラを見つめている。
ただそれだけだが、どことなく日常からかけ離れているような錯覚をそこにいた誰もが感じたその時、ついに画面の中の老人が口を開く。
「みんなが静かになるまでに、五分掛かりました」
「校長、まだあなたが登場してから三分も経過しておりません。それに、これはオンラインですので、これを見ている生徒たちが騒いでいるかどうかもわかりません」
「ぐっ」
「そもそも、そのネタは去年もやってらっしゃたじゃないですか。個人的には、一回見たらもう十分なんですが」
「むぅー、相変わらず歯に衣着せぬ物言いじゃの、早乙女先生は」
「申し訳ありませんが、これが私の性分ですので」
などという漫才染みたやり取りがあったものの、ややあって校長の挨拶が始まった。
「コホン、新入生の諸君。入学おめでとう。このわしが、文芸高等学校校長、東京極院圭吾郎(ひがしきょうごくいんけいごろう)その人である!」
そう高らかに言い放つ校長は、その役職でいることに誇りを持っているらしく、自信に満ちた表情を浮かべている。
先ほどまでのおふざけが嘘だったかのような厳格な雰囲気は、まさに組織の長としての風格を持ち合わせていた。
「知ってるか? ここの校長は、かなり名の知れた作家なんだぜ」
「まあ、有名な話だからな。作家、極院門達筆斎(ごくいんもんたっぴつさい)といえば、本を読む人間であれば、一度は聞いたことがある名前だしな」
「さっきの早乙女って呼ばれてた人も名のある詩人で、その道ではかなりの有名人だそうよ」
「マジかよ。ってか学校の先生からして、もうすでに実力者揃いってことか? やっぱ文芸高校を選んだのは正解だったかもな」
「おまえらうるさいぞ。静かにしろ」
校長の登場に色めき立つ教室内だったが、すぐに一森が注意する。
再び静かになった教室に、校長の言葉が響き渡る。
「今日から新たな生活を送ることになる生徒諸君には、これだけは言っておきたい。人は必ず何かしらの取り柄を持っておる。今はそれに気づいておらぬやもしれぬが、いつかきっとその才能が諸君らの助けになるとわしは信じておる。いまだ開花しておらぬその蕾が、新しい高校生活で花開くことを、切に願う。簡単じゃが、これでわしからの入学祝いの言葉とする。以上である」
そう締めくくった校長の顔は、満足気であった。
生徒の中には、その言葉に期待の籠った顔を浮かべる者もおり、新たな門出の祝福を素直に喜んでいた。
「詳しいことは、担当の先生方に任せてあるので、何かわからぬことがあれば質問するように。では、わしはこれにて失礼する。ドロン」
そう言って、校長は二本の立てた指をもう片方の手で握り、その片手の指も同じように二本立てたポーズを取ってから画面からいなくなった。
生徒たちはそれが何なのか理解していなかったが、そのポーズが昔からある忍者が忍術を使用するときに取る仕草であるということは、学校内の先生たちは理解していたため、各教室にいた先生たちは「またあのポーズやってるよ」という感想を抱いていた。
「それでは、以上を持ちまして都立文芸高等学校入学式を閉会したします。新入生の皆さんを心より、歓迎いたします」
校長と入れ替わるように現れたのは、ピシッとしたスーツに身を包んだ黒髪セミロングの緑の瞳を持った美女であった。
すべてを見透かしたようなやや不満気のありそうな顔は、見る者が見れば何か特殊な癖に目覚めてしまいそうなほどの魅惑的な何かを持っており、彼女の端正な顔立ちと相まって異常なほど異質な印象を与えている。
異質なれど、それは目の前の女性が言葉では体現しがたい何か人を惹きつける魅力を持っているという証拠であり、現にその姿を見た生徒たちは、男女問わず彼女の綺麗なお辞儀に見惚れていた。
そして、彼女が頭を上げる時に胸元から見えた魅惑の谷間に鼻の下を伸ばした男子が続出し、それを見た女子が嫌なものを見るような嫌悪の表情を顔に張り付けるまでが一連の流れとしてあったのは仕方のないことであった。
それから、画面内の美女がいなくなるとすぐに文芸高校のロゴマークが表示された待機画面へと切り替わり、それを確認した一森がもう用は済んだとばかりに画面のスイッチをオフにする。
「よーし、これからの予定を説明すんぞ」
そう言って、次の登校日やその時に何を行うのかの簡単な説明が終わったところでチャイムが鳴り、その日はそれで解散となった。
その間にも、ずっと家に蔓延る悪魔という名のカビをどうしてくれようと考えていた治乃介は、今日の予定が終わったため、すぐに家へと帰っていった。
その時、誰かに声を掛けられた気がしたが、家事のことで頭が一杯だった治乃介は気のせいだと思い込み、そのまま学校を後にした。
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