2話



 都立文芸高等学校――治乃介が今年から通うことになる高校の名前だ。



 学校名の文字面から、この学校が力を入れていこうというコンセプトで作られた分野が文芸であるため、この名前が付いた……わけではない。

 だが、その名前故なのか、毎年文芸において何かしらの功績を残すことで名の知れた高校である。



 それが理由なのかはわからないが、数ある部活の中でも【文芸部】の地位が異常に高く、この学校で最も部費が宛がわれている部活でもある。



 文芸といっても、具体的にどんなことが文芸に入るのかと問われれば、世間一般的には言語によって表現される芸術の総称とされており、詩歌、小説、戯曲などが例として挙げられる。



 特に毎年開かれている文芸高校の祭典【文芸祭】において、生徒たちの中で作品を募り、最も支持を受けた作品に対し、最優秀文芸大賞などという名誉が与えられている。



 そんな校風であるからして、出版業界でも才能溢れる作家の卵が眠っているということで、各出版社が定期的にこの学校に出入りしていたりするのだ。



 そして、毎年この学校から作家がデビューを果たしており、世間では【小説家養成学校】と揶揄されているほどに、文芸と切っても切れない関係を築いている。



 学校側としても、野球やサッカーなどといった人気のある他分野での活躍も期待しているのだが、すでに世間には文化系の学校として知れ渡っているため、スポーツ推薦が取れるような屈強な生徒が入学してくることはほとんどない。



「ふぁ~」



 治乃介が相変わらず欠伸を噛み殺しながら、下駄箱で上履きに履き替える。

 少し早めに家を出ていたこともあって、なんとか遅刻だけは免れたが、始業の時間までもう十分とない。



 ちなみに、治乃介自身がこの学校を選んだ理由としては、自分には文の才能があると自覚し、その才能を活かした活動を行っていきたいと考えた結果、この学校に入った……わけではない。

 その理由は物凄く単純で“一番家から近い高校だったから”という、聞く人が聞けば何とも言えない理由での学校選択を行っていた。



 しかし、今思えばそれが結果として功を奏した形となったため、今後彼に関わってくる人物からすれば、ガッツポーズもののファインプレーだった。



 遠くない未来、そんな波乱の出来事が起こってしまうとは、この時の治乃介は露知らず、気怠さ全開で教室を目指す。



 文芸高校の規模は、全校生徒合わせて五百人から六百人で、毎年百五十人から二百人程度の新入生が入学してくる。そのため、一学年当たり五から七クラスという中規模程度の分類となっている。



 今年はその歴代の中でも新入生が二百人以上入学してきており、例年と比べて些か多い。

 いつもであれば、五か六クラスだが、今年は七クラスと一クラス分多くクラス分けがされている。



 さらに詳細な情報として、クラスはアルファベット表記で、今年は七クラスあるため、A組からG組まで存在している。



 そして、そのクラス分けだが、生徒の間で事前に今後の学校生活で重点的に学びたいことを記載した書類を提出させられるのだが、それによって分けられるクラスが異なっているのも文芸高校の特色だ。



 例えば、A組からD組までは【普通科】で特に変わったところはなく、一般的な高校で学ぶべき内容のカリキュラムとなっている。



 それ以降のE組は【文芸科】と呼ばれる科に分類されており、この組こそが毎年多くの作家を生み出している科でもあるのだ。



 では、それを踏まえた上で、治之介がどの科に属することになったのかと言えば……。



「ふぁー……えっと、F組はどこだ?」



 そう、彼が目指していたのは、F組……つまりは、分類上で言う所の【文芸科】だった。



 だが、先ほども言った通り、治之介がこの学校に入学することを決めた理由は、今住んでいる場所から一番近い学校だったからという理由だ。



 そんな理由で通う学校を決めてしまった人間が、積極的に文芸科を選択するのかといえば、その可能性は低く、真っ当な高校生活を送りたいと望んでいるのならば、普通科を選択するのが自然な流れである。



 だというのに、彼が向かっているのは普通科ではなく文芸科のF組である。

 これは、どういったからくりなのかというと、その犯人は彼の母親だった。



 普段の言動から、自らの意志で文芸科を選択することはないと予想していた治之介の母親は、文芸高校から送られてきた書類を彼の知らぬ間に勝手に提出してしまっていたのである。



 すべては、治之介の母親の策略であり、彼の母親としてこれからの行く末を思ってのことでもあったが、その比率は自分の思惑が八割、息子への思いやりが二割というあまりにあまりなものであった。



 自分の母親がいろいろと裏で動いているとは思ってもみない治之介は、未だはっきりとしない意識で教室へと向かって歩いていく。



 しばらく歩いていくと、一年の教室が並ぶ建物へとたどり着く。

 そこから、一年F組というプレートが掲げられた教室を発見し、ようやく自身が振り分けられた教室へと入ることに成功する。



 教室には、数十個の学校机とそれに合わせた椅子が設置されており、小学校、中学校と学んできた人間からすれば、代わり映えのしない見慣れた光景だ。



 前方に注目してみると、これまたよくある大きな黒板と教師が授業を行う際に使用するシンプルな造りの教壇が設置されており、これも特筆するようなものではない。



 教室内は、既に登校してきていた生徒たちがいくつかのグループを作って談笑する姿も見受けられたが、それ以上に目立っている生徒の存在がいた。



 そこには、机に着席しそれぞれが持ってきていた本を読んでいる生徒の姿があった。

 それだけであれば、特に問題はないのだが、その特異点があるとすれば、教室内の生徒の約七割がそういった行為を行っていたのだ。



 学校に本を持ち込み、休み時間や手の空いている時間などに読むことは、学校生活を送っていく中でよくある光景だったかもしれない。

 だが、そういったことをする生徒も、精々がクラス内に一人か二人いれば多い方で、大概の場合クラスメイトと談笑したりなどといったそれ以外の方法で過ごすことが多いだろう。



 しかしながら、今教室内にいる生徒の八割がそのような行為を取っているというのは、やはり文芸科という科の特殊なところであると言わざるを得ない。



 そんな状況の中、治之介はたどり着いた教室内で起こっている異常さについてどう受け止めたのかといえば、特に思う所はなく、あらかじめ学校側から指定されていた席まで歩いていき、背負っていたリュックを椅子の背もたれに引っ掛けると、着席してそのまま机に顔を埋めるようにして突っ伏した。



 昨日の睡眠時間が確保できなかったことと、本人自体の性格上の性質も相まって、教室内の異常さに気付かなかったのだ。

 気付かなかったというよりも、教室内にいた人間のやっていることに興味がなかったというのが正しい所であるが、とにかく治之介はそのまま始業の時間まで寝て過ごす選択をしたようだ。



 だが、そういう時に限って邪魔が入るもので、治之介が机に突っ伏して一分と経たずして彼の肩を叩く者がいた。

 前日の疲れもあって、そのまま無視を決め込もうとしていた治之介だったが、続けて叩かれた肩を叩く強さがあまりに強いため、彼としてもそのまま無視できなくなってしまったのだ。



「あぁ?」



 やや不満気に顔を上げてみると、そこには眼鏡を掛けた一見すると爽やかな印象のある男子生徒だった。

 水色の髪に緑の目をした男子生徒は、治之介が反応を示したことで、朝にしてはややハイテンションな声で喋り始めた。



「おお、眠っているところ申し訳ないのだが、自己紹介をさせてほしい。俺は山田健一。見ての通り高校一年生だ。おまえは?」


「文豪寺治之介」


「なんと、文豪寺とな!? なんという甘美な響きのある名前ではないか? しかも治之介というのは、まさかとは思うが、太宰治の治と芥川龍之介の之介で治之介ではないのか?」


「あ、ああそうだけど……」


「なんと……なんという運命の出逢い! これは、まさに運命である!!  あっはっはっはっはっ、あーはっはっはっはっはっはっ――って痛い!!」



 山田健一(やまだけんいち)と名乗った少年は、治之介に自己紹介がしたかっただけのようで、簡単な自己紹介をした。

 面倒だと思ったが、この手のタイプの人間は自分が納得しないと、いつまでも絡んでくる人間であることを理解していた治之介は、彼に倣う形で名乗った。



 ところが、健一が治之介の名前を聞いた途端、まるで子供のようにはしゃいだかと思ったら、治之介の名前の由来について問い詰めてきた。



 元々治之介の名前というのは、彼の母親が出版社に勤めているという縁から付けられた名で、健一の予想した通り太宰治と芥川龍之介という二人の著名な作家の名前を組み合わせて付けられた名前だ。



 それを言い当てられたことに若干引きつつも、そうだと肯定すると、健一はますますそのただ無駄に高かったテンションをさらに爆上げする勢いで叫び始めた。



 そのあまりの叫び声に、迷惑そうな顔で見つめる同級生の視線も気にすることなく、高笑いを決め込んでいると、突如として健一の後頭部に衝撃が走った。



 そこにいたのは、赤い髪を後ろでまとめた俗に言うところのポニーテールの少女で、その目つきはまるで鷹の様に鋭い。

 髪色と同じ色をした目を持つ少女は、先ほどまで高笑いしていた健一に呆れた視線を向けて話し始めた。



「なに朝っぱらから騒いでんのよ。ただでさえ存在がうるさいのに、声までうるさくならないで欲しいわね」


「だからといって、無防備な後頭部を殴りつけるとは感心しないぞ咲。俺の頭がハゲたらどうするんだ!?」


「その時はその時だし、ハゲたんなら潔くスキンヘッドにすれば?」


「な、なんだとぅー! このデカ尻女!!」


「誰がデカ尻だ。この小説オタクがぁー!!」



 まさに売り言葉に買い言葉とはこのことで、健一が放った彼女の地雷であろう言葉がきっかけとなり、バトルが勃発した。

 といっても、その力関係は明らかに彼女に向いており、一方的に健一がボコボコにやられているように見受けられる。



 寝ぼけ眼ながらも、健一と喧嘩を繰り広げる彼女の姿をボーっと見つめる。

 スラッとした体型に、平均よりも少しだけ大きな胸を持った俗に言う男が好みそうな体をしている。



 確かに、スラッとした体にしては意外というのは失礼かもしれないが、その臀部は豊かな膨らみをしている。

 デカ尻と呼ぶには不自然ではないが、敢えて言うことではないため、治之介は健一の彼女の臀部に対する感想を言ったことについては理解はできるが、それを肯定することはなかった。



「何か私に言うことは?」


「ず、ずびばぜんでじだ。ざぎざんは、ぜかいいぢのおんだのごでず(す、すみませんでした。咲さんは、世界一の女の子です)」


「よろしい。急に驚いたでしょ? ごめんなさい」


「あ、いや……」



 その決着はあっさりとしてもので、グロッキーになった健一が、彼女に許しを請うことでその場は何とかおさまった様子だ。

 さっきまで健一に向けられていた態度は軟化し、治之介に向きり先ほどの行動を彼女が詫びる。



 それを見た治之介もどういった態度を示せばいいのか分からず、曖昧な返事をしてしまう。

 治之介の返答に彼の心情を察した彼女が、健一のように簡単な自己紹介をすることで、その場をなかったことにしようと試みた。



「自己紹介がまだだったわね。私は小鈴木咲(おりんぎさき)。漢字で“こすずき”って書いて小鈴木だから間違えないでね」


「あ、ああ。俺は文豪寺治之介だ。文豪に寺で文豪寺で、名前は太宰治の治に芥川龍之介の之介で治之介だ」


「……なるほど、どうりでこのアンポンタンが騒ぎだすわけだわ」



 治之介の自己紹介でなんとなくだが、健一が騒いでいた理由に思い至った咲は、さらに彼を追求しようとしたが、F組の教室にやって来た彼の中学時代の友人のところへ行ってしまったため、逃げられる形となった。



 後に残されたのは、当然であるが治之介と咲の二人きりとなってしまい、途端に気まずくなったが、そこへ救世主のように彼女の友人が彼女を呼んだため、そのまま軽く「これからよろしくね文豪寺君」と挨拶をして離れて行った。



 ようやく一人になった治之介は、そのまま机に突っ伏して再び惰眠を貪ろうとしたが、時すでに遅く、彼が眠っていられたのは先生が教室にやってくるほんの数分間だけであった。

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