1話



 春の並木道を、学生服に身を包んだ若者たちが通学している。

 今日から彼ら彼女らも新たな門出をスタートさせ、高校生として勉学に励むことになる。



 そんな清々しい気持ちでいる若者たちに混じって、寝ぼけ眼のゆったりとした足取りで歩いている少年がいる。

 彼の名は文豪寺治乃介(ぶんごうじおさのすけ)。今年十五歳となった高校一年生である。



 そんな治乃介だが、どうやら前日に夜更かしをしてしまったらしく、十分な睡眠が取れていないようだ。

 欠伸を噛み殺しながら、時々危なっかしい歩みでふらつきつつ、何とか学校へ向かっているといった状態だ。



「くそう、こんなことならもっと早く寝ときゃよかった……ふぁ~」



 小学生の時よりも、さらに成長した治乃介は、あることにのめり込むようになる。

 それは、炊事、洗濯、掃除などといった家事全般を指す作業行為すべてであり、今ではプロのハウスキーパーも顔負けの腕前を持っている。



 家庭の事情により一人で家にいることの多かった彼にとって、母親の帰りを待って家事をやってもらうより、自分の手でできるようになった方が早いという結論に至ったようで、この数年でメキメキと家事の腕前が上達したのだ。



「あの風呂に蔓延る悪魔め、帰ったら駆逐してやるからな。“何の成果も得られませんでした”などということがあってはならんのだ!」



 風呂に湧くカビのことを“悪魔”と呼称する辺り、彼の家事に対する執着が窺える。

 彼の口ぶりから察するに、その悪魔との格闘が長引いてしまったことで、それを帰ってきた母親に見つかってしまい、途中だったが作業を中断せざるを得なかったのだ。

 要するに、強制的に眠らされたのである。



 そんな経緯もあって、高校の入学式前日に風呂掃除で夜更かしをしてしまうという、年頃の少年としては何とも言えない理由での寝不足となってしまった。



「ねぇ、あの子……」


「うわぁ、凄く綺麗……」


「んー?」



 治乃介が入学式が終わった後の予定を考えていると、すれ違った女子学生の騒いでいる声が耳に届いた。

 何かと思い眠い目を擦りながら後ろを振り返ると、そこには一人の少女の姿があった。



 透き通るような白い肌と桃色の艶やかな髪にサファイアのような瞳を持った少女は、何かの本を片手に読みながら歩いていた。

 しかしながら、その姿は見た目の清楚さと相まってとても洗練されており、まるでそうすることが正しいことであるかのように錯覚するほどだ。



 治乃介が通う予定の制服を着ていることから、彼と同じ今年入学する女子生徒であることは間違いないのだが、治乃介と同じ十五歳にしては、服の上から押し上げる二つの膨らみは歳不相応にも思えた。



「な、なんて可愛い子なんだ!」


「同じクラスになりたいな」



 近くにいた男子学生からも、そんな声が聞こえてくる。

 それほどまでに、突如現れた女の子は美少女であったのだ。



 そんな彼女を見て、治乃介もさぞ鼻の下を伸ばしているのだろうとそのご尊顔を拝見してみれば、特に何の変化もなく、相変わらず眠そうな表情を顔に張り付けている。



(確かに、他の女の子よりも美人さんだけど。母さんほどじゃあないな)



 ここにきて治乃介の生まれ育った特殊な環境が、彼の一般常識を捻じ曲げてしまった。

 彼にとって身近な異性とは、言わずもがな母親であり、思春期において最も接触する機会のある異性といっても過言ではない。

 そして、男は無意識のうちに、あらゆる面において初対面に近い異性を最も身近な異性であろう母親と比べてしまう生き物なのだ。



 だが、ここで治乃介にとって残念なお知らせがある。

 容姿という一点において、治乃介は他の異性の見た目を母親を基準に考えてしまっている。それ故に、女性の見た目に関して彼はかなり厳しい一面を持っている。



 それは決して治乃介が面食いという極端な嗜好を持った人間だからではない。

 彼の母親の容姿が他の一般的な女性と比べて、かなり……というか圧倒的にずば抜けて良すぎたのだ。



 まさに、絶世の美女という安直な言葉だが、これほどこの言葉が似合う女性も近年珍しほどに、治乃介の母親は美しすぎた。

 そのあまりの美貌から、今年で四十路という年齢にもかかわらず、未だに彼女に声を掛けてくる男性も少なくない。



 そういった理由から、治之介が目の前の美少女を見ても、普通の女の子よりもちょっと可愛いくらい程度の見た目の良さという、あまりに過小な評価しか付けなかったのである。



「あの子は一体誰なんだ?」


「お前知らねぇのか? 桜井美桃っていう今を時めく美少女小説家だ。美桃桜子っていうペンネームで小説を書いてるんだけど、その小説がかなり評判が良くて、若手小説家の中じゃあホープって言われてる有望株らしいぜ」


(さくらいみもも? みとうさくらこ? いかにもっぽい名前だな。でも、小説家ねぇ……)



 治之介は彼女が小説家と聞いた瞬間、含みのある感情を抱いた。

 彼の母親は、日本随一と言ってもいい大手出版社である【英雄社】に勤めるやり手の編集マンであり、その仕事ぶりから【編集の鬼】という通り名を冠するほどに業界から恐れられている存在だ。



 そんな母親の仕事ぶりを小さな頃から間近で見ていた治之介は、そういった経緯から小説家という存在についてあまりいいイメージを持っていはいなかった。



 仕事の忙しい母親と一緒に食事をする機会が幾度かあったが、その度に治之介がよく聞かされていたのは、やれ編集長の判断が甘いだの、あの作家がどうのこうのだのという仕事に対する愚痴であった。



 大切な家族との時間を仕事の愚痴に費やしてしまう彼の母親も大概だが、それだけ彼女が自分の仕事に誇りを持ってやっていることを治之介は理解していたため、そんな母親でも関係は良好だ。



 そんな母親に愚痴を言わせてしまう存在がいることは、治之介にとってあまり快く思っていないことは確かであり、彼自身そういったことを仕事にして何が面白いのだろうかとすら考える始末だ。



「きゃあ」



 そんな、ある程度名の知れた有名人である桜井美桃が本を読みながら歩いていると、突如として突風が巻き起こる。この季節によくある強い風で、いわゆる春一番だ。



 こういった状況で強い風が吹いた場合、漫画やアニメでは女の子のスカートが強い風でめくれ上がり、意図せずして公衆の場で自分の下着を晒してしまうという描写がよくある定番シーンだったりする。



 だが、残念ながら今回は漫画やアニメではなく現実の世界で起こった話であるからして、その場にいた女子のほとんどが両手でスカートをがっちりと押さえ、スカートがめくれ上がらないよう迅速かつ的確な対応を取った。



 そして、それは本を読んでいた美桃も同様であった。

 普段のおっとりとしたおとなしい性格からは想像がつかないほどの俊敏な動きを見せ、他の女子生徒と同じく彼女の聖なる衣をその白日のもとへと晒すことは防がれてしまった。

 そう、残念なことに防がれてしまったのである。



 だが、スカートと押さえるに際し、美桃は片手に本を持っていた。

 では、その本は一体どうしたのかといえば、そのままではスカートを押さえることができないため、宙へと放り出していた。



 そして、それは偶然治之介の足元へと転がってきた。

 その一部始終を見ていた彼は、自分のもとへと転がってきた美桃の本を拾い上げると、徐に彼女へと歩み寄る。



「これ、落としたぞ」


「あ、えと……」


「おまえのだろ? この本」



 そう言って、治之介は彼女が持っていた本を差し出そうとしたが、何の気なしに表紙を見た。

 そこには、軽鎧を見にまとった若い男が、剣を構えている姿が描かれている。

 作者の名は【無名玄人】という記載があり、この本の作者の名もこれまた小説家にいそうな感じの名前だった。



 先ほど彼女が有名な小説家であると聞いた治之介は、本の表紙をぼんやりと眺めながら、何の気なしに呟いた。



「小説ね。こんなものの何がいいのか、俺には理解できないな」


「そんな……そんな読んでもいないのに、そんなこと言わないでっ」


「別に、あんたが好きなものを否定したいわけじゃない。本当に、そう思っているだけだ。俺がな」


「……」



 治乃介の小説に対する価値観に一瞬憤慨する美桃だったが、彼が自分自身のことを卑下する意味で言ったことではないとすぐに理解する。

 しかしながら、彼女にとって小説とは、自分を表現できる数少ない場所であると考えており、治乃介の言葉に些か残念な気分になった。



「あ、あの」


「これ返すよ。じゃあ、俺は行くから」


「え、あっ」



 もう用は済んだとばかりに、力ない手をふらふらと肩口から振りながら、治乃介は美桃のもとを離れていった。

 後に残された美桃といえば、そんな彼の背中をただただ呆然と見送るしかなかった。



 これが、文豪寺治乃介と桜井美桃の初めての出会いであった。

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