第2話 ウォーターベイビー②

「どうしたの、2号。このところ少し調子が悪いわね?」

 女は牛の背中を撫でながら細かく体調を見ているようだった。いきり立っていた僕は一瞬躊躇ったが、結局は声をかけた。

「こんにちは」

「あら、こんにちは。お客さん?」

「どうも、近くに越してきた……」

「あら! もしかして、ジェシーさんの?」

 女はにこやかに笑った。まだ若く、三十代ほどに見えた。赤ん坊がいてもおかしくない年齢だ。この女がジェシーに赤ん坊を抱かせたのだろうか。

 僕はひとまず彼女と挨拶を交わしたあとに、ふと思い出したように言った。

「そういえばお子さんがいるとか……」

 僕がそう尋ねたとき、ちょうど向こうの方からサクサクと草をふみながら誰かが歩いてきた。

「お客さん? こんにちは!」

 七、八歳くらいの女の子だった。

 大人しそうな白い猫を抱えていて、その背をゆっくりと撫でている。

「ええ。この方ね、この間のジェシーさんの旦那様よ」

 僕は少し面食らってしまった。

 子供といえば子供だが、見るからに赤ん坊ではない。さすがに見間違えるはずのない年齢だ。それに、この年くらいの女の子を他人が勝手に抱くような真似もしないだろう。同僚の話では、小さい赤ん坊だと確かに言っていた。それならやはり彼の勘違いだったのだろうか。二人はなにごとか話していたが、僕はほとんど聞いていなかった。

 ハッとして女の子へともう一度視線を向ける。

「そういえばひとつ聞くけれど……弟か妹はいるかい?」

「ううん。お兄ちゃんがひとりだけよ。向こうで豚の世話をしてるはずよ。呼ぶ?」

「ああ、いや……、大丈夫。気になっただけでね」

 それなら、杞憂だったのか。

 むにゃむにゃとなんとか言って、農場から家路に向かう。ここまで敵対的になる必要はなかったと後で自分を恥じた。

 ――いや、でも待てよ。

 ジェシーは子供を抱いたのは否定しなかった。だが、ジェシーが嘘をついているとも考えがたい。たまたま同じ金髪で、赤ん坊を抱えた女性がいたのだろうか。家に戻る途中、ふと道端を見ると、僕の不安を現したかのように白い鳥の死体が転がっているのが見えた。妙にぞっとした。不吉だ。それも、白い鳥だなんて。意識してしまうと、湖の方からもなんだか生臭いにおいがしてくるような気がして、余計に僕の神経を逆撫でた。見なかったことにして、急いで家に帰った。においがまだ鼻の奥に残っているような気がした。

「ジェシー、ただいま」

 声をかけたが、返事はなかった。

「いないのか?」

 出かけてしまったのか。いや、町は人が多いから行く時は二人で行こうと決めたはずだった。それなら裏口から外へ出ているのか。リビングの窓からふと見ると、湖のほとりでジェシーがしゃがみこんでいるのが見えた。なんだ、湖の方に行っていたのか。僕が安堵しかけたとき、その手に持っているものに気がついた。本ではなさそうだった。なにか青緑色のものを抱え、愛おしいものを見るようなうっとりとした目で、あやすように揺れている。目を凝らす。魚かと思ったが、フォルムがはっきりとしない。見ているうちに、その形がなんなのかに気付いた。

 灰色がかった青緑色の肌の、魚めいた赤ん坊だった。

 人間には見えなかった。

「ジェシー……!?」

 僕は慌てて裏口から飛び出した。湖のほとりで振り返るジェシーの近くまで来ると、その手には何もいなかった。

「どうしたの、デミアン?」

 ジェシーは怪訝そうな表情で僕を見ていた。

「いまっ……、なにか……、抱えていなかったか?」

「いいえ? 本を読んでいただけよ」

「そうか? でも、僕には……」

 僕はジェシーの顔をしっかりと見た。

 彼女は感情の見えない顔で、僕を見返した。その目があまりに挑戦的にすら見えて、僕は少しだけ戸惑った。

「帰るわ」

 彼女は僕の横を通り過ぎて、家に向かっていった。その手に本はなく、少し濡れているような気がした。


 それからもジェシーの様子に変わったところはなかった。

 僕はといえば、それどころではなくなっていた。家の中では常に強い湿気があるらしく、黒いカビのようなものがあちこちに出現するようになっていたのだ。良い家だと思っていたのに、時期の問題なのか、それとも湖が近いからなのか、常にどこかから生臭いにおいがしている気がした。しかし、においのもとをたどってもすぐに消えてしまうのだ。それどころかカビは食糧保管庫にまで現れ、近くにおいてあった果物がみんなダメになっていることさえあった。やれる手立てがあるなら、乾燥剤を置いておくくらいしかできなかった。

 このカビ騒動と平行して、僕はあのとき見たジェシーを思い出すようになっていた。あのとき見た青緑色の赤ん坊はなんだったのだろう。そもそも黒や白ならともかく、あんな色の人間がいるとは到底思えない。でも、あれはまちがいなく赤ん坊だった。僕の幻覚などでは決してなく。

 憂鬱なことはこれに限らなかった。道端で鳥の死体を見ることも珍しくなくなった。どこかしらで白い鳥が死んでいる。それも僕の家の周辺でだけだ。何か変な病でも流行っているのではないかと同僚たちに聞いてみても、町ではそんなことはないと言われてしまった。 

 かといってジェシーにあれから何か変わったことはなかったか聞いても、彼女はにっこりと笑ってこう言うだけだった――「いいえ、何も」と。

「あなたの言う通りにしているだけよ」と彼女は言った。

「だれとも喋らず、何もせず、静かにね」

 ジェシーはそう付け加えた。

 確かにここに来てから、彼女が忙しく動き回る姿を見ていない。僕の望んだとおり、僕の処置通りに家にいて大人しくしている。湖で本を読むだけだ。それなのに、この奇妙な胸騒ぎはなんだ。あれ以来農場にも行っていないらしく、ハートリー夫妻に逆に気にかけられてしまったこともある。妻は病気で大人しくしている必要があると言ったが、ハートリー夫妻は互いに顔を見合わせるだけだった。それどころか、逆に「外へ出た方が」などと言われた。素人に何がわかるというんだ。そのことも僕を苛々とさせた。

 だが僕の苛立ちとは正反対に、不吉なことばかりが続いていた。知らないうちに革靴に傷がついているのは序の口で、家の前に置いていた植物がことごとく枯れてしまうようになった。

 そんなことに気を取られて呆然と歩いているからか、一度は車に轢かれそうになったことまである。同僚が慌ててスーツの首根っこを引っ張ってくれなければ危なかった。

「あ、ありがとう」

「気をつけろよ。なんだか最近変だぞ、きみ!」

「ああ、うん」

「この間だって、外科に置いてあったメスを落として指を切っていたじゃないか……気をつけてくれよ」

「そうだな。このところ少しぼうっとしていた気がする……」

「大丈夫か? 少し休んだ方がいいんじゃないか?」

 ぎくりとした。

 それは僕ではなくジェシーにかけられるべき言葉なのだ。僕ではない。

「いや、本当に大丈夫なんだ」

 同僚は少しだけ眉間に皺を寄せて、僕の肩を叩いた。

「わかった、ちょっと気分転換でもしよう」

 彼は早めに仕事を切り上げたあとに、僕をむりやりに連れ出した。いつ連絡が来てもいいように携帯電話はしっかりと持っておいた。彼に連れて行かれたのは酒場だった。西部開拓時代の雰囲気を残すサルーンのような作りで、外壁にもしっかりとそう書いてある。中に入ると、これまた映画でしか見たことのないような作りだった。カウンターの向こうに並ぶ酒はさすがに現代のものだが、いまにも荒くれ者たちが飛び込んできそうだった。細部までこだわって当時の雰囲気を再現しているらしい。

「ここの酒は美味いんだ」

「呼び出しがあるかもしれないんだから、飲まないぞ」

「真面目だなあ。そんなんだからぼうっとしてしまうんだ。でもここはノンアルコールも出しているからな」

 他のテーブルでは既に酒盛りが始まっていて、僕は少しため息をついた。一杯だけ頼んで、あとはジュースかノンアルコールにすることにした。カウンターでは客が酒を飲みながら、マスターになにやら話をせがんでいるようだった。

「サンダーバードの名前はイギリスで人形劇になっていたり、最近はほとんどUMAの名前として有名ですから……、名前だけ知っているという人もいましたね。サンダーバードは実は部族によって伝説や姿が違うんですが、たいていは雷を自在に操り、人を守ってくれる存在なんですよ。つまり、怪物と戦ったりね。食糧を運んで飢餓から救ってくれるという伝説もありますよ」

 どうも酒場のマスターはこのあたりにいたインディアンの血を引いているらしく、祖父から聞いたという伝承や精霊の話を聞かせていた。そういえば、片隅に古いインディアンの羽冠があった。あれもマスターの祖父のものらしい。開拓時代の雰囲気なのに、店主はインディアンなのかと思うと少しちぐはぐな気がした。

「へえ。単なるオカルトかと思ってたが、伝承にもあるのか」

「はい。水の精霊と戦ったり、水中に対する空という考えもありますよ」

「その水の精霊っていうのは、怪物かなにかなのかい?」

「水の精霊かはさておき、人類を滅亡させようとしていた大蛇と戦って助けてくれたという伝説はありますね。それで、サンダーバードは太陽の化身とされたそうです」

 初めて聞くような話だ。この移民の国にも伝承があると思うと、ずいぶんと古い国のように思えてくるから不思議だ。

「あんたはどうだい、マスター。なにか見たことは?」

「さすがに無いですね。……あ、でも」

「おっ、なにかあるのか?」

「近くに湖があるのを知っているでしょう? いまは住宅地になっていますが」

「おお、あれな」

「その湖の近くで、祖父の、更に祖父が、青緑色の肌をした赤ん坊のような怪物を見たと言っていたそうです。祖父の祖父いわく、鱗があって、半魚人のような姿をしていたそうです。そいつは――そいつは見つけて連れ帰ってしまうと、あたりに不幸をばらまき、様々な害を与えるから、たとえ珍しくても絶対に連れ帰ってはならないと言われていたそうですよ」

「へええ」

 自制していなければ、いますぐにマスターにつかみかかってしまうところだった!

 鱗のある、半魚人のような赤ん坊。聞き捨てならなかった。それはいったい何なんだと言いたかった。けれども僕はどうしてもできなかった。そんなものは幻覚やおとぎ話の類であって、現実ではないからだ。

 思えばそのとき、叫んででも話を続けさせるべきだったのだ。周囲に不幸をばらまいて、様々な害を与える半魚人のような赤ん坊……、そんなものが実在するというのか。いや違う。あれはただの偶然が重なっただけだ。精霊など存在しないし、怪物などもってのほかだ。それにジェシーがそんな奇妙なものを連れて帰っているはずがない。あのジェシーが。心の落ち着くところで何もせず大人しくさせているのが僕は最善だと思っていたのに、どうしてそんなものに触れてしまったのだろう。

 僕は首を振った。

 そんなものは現実に存在しない。あれは幻覚で、僕の周囲に起きていることはただの偶然なのだ……。


 はっと気がついたときには、家の前にまで帰ってきていた。同僚と別れる前までの記憶がおぼろげだった。家に戻ってくると、家の周囲はすっかり様変わりしていた。ここに来たときは素晴らしいと思っていた家は、黒ずみ、植物は枯れ、鳥だけでなくネズミや猫の死体さえもがあちこちに落ちていた。あそこで死んでいる白い猫は、農場の猫だろうか。地面は常に湿ったようで土はほとんど泥になっていた。

 玄関の鍵を開け、ゆっくりと扉を開ける。

 家の中は外よりもむっとした湿気に満ちていた。ウェルカムと書かれた玄関マットに足を乗せると、じんわりと腐ったような水分が出てきた。家のあちこちは湿気どころか濡れている。ぽたりと天井から水滴が落ちてきている。家ごと水をかぶったようだった。カビと湿気の混じったにおいが鼻をつく。

「……ジェシー」

 名前を呼ぶ。返事はない。奥へと進む。灯りはついておらず、どこも暗かった。いま電気をつけたら感電してしまいそうだった。仕方なく、棚の上に置いた懐中電灯を手探りで探しだした。棚の上はぬるりとした、魚臭いにおいがした。

 どうしてだ。どうして家で大人しくしてくれなかったんだ。そうすればきっと忘れられたはずなのに。ベニーのことを。それとも――。

 いや違う。僕は何も間違ってなどいない。ジェシーだって無事なはずだ。

 懐中電灯をつけて先へと進む。どこからか歌が聞こえてきた。ジェシーが子守歌を歌っているのだ。僕は声の方へと進んだ。二階からだ。ギシギシと音を立て、濡れてすっかり色の変わってしまった階段を上がっていく。ジェシーの部屋の扉は開いていた。思えば、ここへ来てから彼女の部屋に一度たりとて入っていないことを思い出した。

 もしも。

 もしもだ。

 彼女が既にあの赤ん坊を連れ帰り、どこかに隠していたとするのなら――。

 僕は彼女の名を呼びながら、微かに開いた扉の隙間に手を差し込んだ。

「ジェシー、入るよ」

 返事はなかった。その代わりのように、歌が聞こえている。

 彼女は生臭いにおいにまみれたまま、濡れたベッドの上で座り込んでいた。その手には何かが抱かれている。青緑色の、何かを。彼女ごしに見えたそれは、青緑色の肌をしていた。その肌がキラキラと、まるで打ち上げられた魚のようにきらめいている気がした。気のせいだと自分に言い聞かせる。首のところにはなにか線のようなものが見える。そんなものは幻だ。

「おかえりなさい」

 ジェシーが僕を見た。

 彼女はいつも通りだった。僕を見てうっすらと口元に笑いを浮かべた。

 その瞳は一度として瞬きをしなかった。

 腕に抱えられた青緑色の、鱗とエラのある赤ん坊と同じで。

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