ウォーターベイビー

第1話 ウォーターベイビー①

 素晴らしい家だった。湖畔にほど近い家は二階建てで、白い壁紙は染みひとつ無い。前の住人の家に対する心配りを考えると幸運なほどだ。妻のジェシーを伴ってここにやってきたとき、本当に来て良かったと思った。ジェシーは普段より少しだけ大人しかったが、それで充分だ。彼女には気分転換と療養が必要だと僕は確信していた。

 時が哀しみを癒してくれるなどという言葉は、戯言にすぎないのだ。

 最近のジェシーを見ていると殊更にそう思う。僕だってこの哀しみをどう癒せばいいのか、そもそも癒えるものではないのかもしれないと思い始めてきた。


 一人息子のベニーが亡くなったのは半年前のことだ。本当ならもうすぐ一歳になるはずだった。リンゴのように赤いほっぺたの、可愛らしい天使のような子だった。僕たちのはじめての子供で、宝物。彼はたちの悪いインフルエンザにかかって、高熱が下がらず病院に向かっている途中で死んだという。僕がちょうど自分の病院で医者として勤務しているときだった。ちょうど混雑した渋滞にはまってしまい、車の中で咳や小さな声が聞こえなくなっていったという。妻のジェシーは必死になって小さな命をつなぎ止めようとしたが、病院に着いたときには、医者たちの懸命な処置にもかかわらずもう灯火は消えていた。慌てて運ばれた病院に着いたときには、ジェシーのひきつった泣き声がロビーにこだましていた。悲壮な空気が漂っていた。いまでもその声は脳裏に焼き付いている。

 ジェシーはそのことをずっと気に病んでいた。最初のうちは泣きはらし、自分を責め立てた。責めるのをやめると、今度はなにかを忘れるように仕事に打ち込んでいった。まるで失ったものを埋めるように、ありとあらゆる時間を動き回ることに専念した。体力がついていかず、心身ともに疲弊しているのが見てとれた。まだ哀しみも癒えていないというのに、今度は体を壊してしまうのではないかと思った。三ヶ月経ってもその状態が続き、僕は彼女に転地療養を勧めることにした。医者としてでもあるが、僕個人の考えとして。自分が内科医であるくせに、子供を救えなかったのは僕の責任でもあるからだ。どこか空気の良い、ここではない場所で過ごした方がいいと思った。僕は僕自身の言葉に従うことにした。

 この町を選んだ理由は二つだ。ここではないどこかにあり、のどかで空気の良い場所であること。

 町は比較的新しい作りだったが、西部開拓時代の面影を残していた。以前に大火が起きて昔の建物が無くなってしまったらしいが、当時の雰囲気を復活させようとしたらしい。新しい建物であっても開拓時代風の建物にすることを決めたせいか、大通りの銀行もレンガ造りにされていた。町に複数ある酒場も当時のサルーンの雰囲気を残していて、町全体がゴールドラッシュさながらの活気に溢れている。近くには大きな平原があり、その昔はインディアンの居留地になっていたという。インディアンとひとことで言ってもいろいろな部族がいるが、そのなかでも主流な部族が住んでいた場所だ。つまりは僕たちがインディアンと言われて想像するそのままの姿の人達だ。原住民の血を引く人々も、最近ではさすがに当時のような暮らしはしておらず、現在では町で酒場や牧場を営んでいるという。少し騒がしかったかとも思ったが、どことなく朴訥とした空気もあり、結果的には良い環境であるといえた。


「いい家ね」

 ジェシーはそれだけ言った。

 既に大きな荷物は運び込まれていて、あとは車で持ってきたものを入れるだけになっていた。前の家にあったものも少し整理したので、リビングも必要最低限でシンプルな作りになっていた。このシンプルさが良い。ジェシーは少し不満があったようだが、結局は納得したようだった。それに、あまり子供を違式させるようなものも無い方がいいと思ったのだ。これはジェシーのためでもある。

「すぐ近くに湖があるのね」

「ああ。いいところだろう?」

「ベンチがあるのが見えるわ。少しは整備されてるみたい。人はいないけど……」

「うん。町のほうは少し騒がしいかもしれないけど、このあたりは静かでいいね」

 僕の言葉に、ジェシーはなにも言わなかった。

「町までは歩きでも行けそうね」

「そうだね。古いけれど新しい、いい町だ」

「ここなら仕事もありそうね」

 僕は途端に暗澹たる気持ちに包まれた。ここに来たのは療養のためであって、新たな拠点にするつもりはないからだ。

「それはきみの気持ちが癒えたらにしよう、ジェシー」

「デミアン、私は……」

「僕たちはきみの休養のためにここに来たんだよ。きみの新しい仕事を探すためじゃないんだ。まずはしっかりと休んで家にいなきゃ」

「デミアン」

「きみのためなんだよ、わかってくれ。まだ悲しいのはわかる。だけどあのままではきみの体がもたないよ」

「……」

 彼女はなんとも言えない表情で笑った。

「幸い、ここではきっとゆっくりできるさ」

 僕は彼女の肩を叩いた。

「……そうね。こんなところでは、湖のほとりで本を読むくらいしかできないかも」

「それがいいよ」

 軽く彼女の髪の毛にキスをする。

「でも今日のところは、荷物の整理をしないとね」

「そうだな。きみのも僕が二階に持って行くから、きみはキッチンを。仕事が欲しいなら、ついでにコーヒーをいれておいてくれると嬉しいな」

「わかったわ」

 僕はジェシーがキッチンに入っていくのを見ながら、二階に向かった。

 時が悲しみを癒してくれるなどと無責任に言えるのは、結局当事者ではないのだ。

 ベッドはこの家に残されたものをそのまま使えそうだった。僕の仕事が不規則になりそうなことkもあり、部屋は別々にしていた。本当は一緒にしたかったのだが、こればかりは仕方ない。前の家でも同じ理由で別々にしていたし、これについては僕も異論はなかった。彼女の眠りを邪魔したくないのもあった。僕は衣服や荷物をタンスの中に入れてしまうと、一階に下りた。そのときにはジェシーがコーヒーをいれてくれていたので、二人で休憩にした。

「さっそくだけど、僕は明日から仕事に行くよ。きみは大丈夫かい? 急だったからね」

「ええ。大丈夫」

 この町に来たもうひとつの理由。

 それが、ちょうどこの地区にある病院から、僕の勤める病院にとある依頼が舞い込んできたことだ。この小さな町にも意外なことに病院がある。そこで長いこと働いていた内科医のひとりが病魔に冒され、治療に専念することになったという話だった。だが、欠員の代わりがなかなか見つからない。それで数ヶ月でいいから、誰かひとり寄越してくれないかという話だった。僕はそれを聞くと、これ幸いとばかりに役目を引き受けた。町は療養に申し分なく、僕もしばらくの間の仕事先がある。これほど偶然に感謝したことはない。そういうわけで、僕は急いで引っ越しを決めたのだ。急な引っ越しにもかかわらず、これほど素晴らしい家を手に入れることになるとは夢にも思わなかったが。本来ならジェシーを置いていくのは気が引けたが、ジェシーは大丈夫だからと気丈に笑った。本当に大丈夫だろうかと思ったが、こればかりは仕方ない。すぐ隣に湖があることも少し気になったが、僕はあの大きな水たまりについてはほとんど考慮していなかった。

「休みになったら、一緒にご近所さんに挨拶に行こうか」

「ええ。そうしましょ」

 彼女は頷いて、僕を送り出してくれた。

 もしも彼女がこの町を気に入れば、正式にここで勤めるのも良いと思った。


 翌日になって病院に着いて挨拶をすると、みな歓迎してくれた。小さな町と聞いていたが、患者はそれなりにいた。忙しいが充実した日々が始まった。田舎ではあったが、みな良い人たちばかりだった。ここにいる人はほとんどが入植者――他の地域からやってきた人々ばかりで、ほとんど仲間のようなものだった。何日かして仕事に慣れてくると、食堂で一緒になった同僚が尋ねてきた。

「やあ。どうだい、調子は」

「悪くないよ。なかなかいいところだね。借りた家も申し分ないし」

「へえ。このあたりはみんなフロンティア風だからびっくりしたろう?」

「いや、僕が借りた家は違うよ。近くに湖があるだろう。あのあたりの家を借りたんだ」

「ああ、あそこか! それなら、時代がかってないな」

 彼は笑って続けた。

「この町自体が観光地でもあるからな……、俺みたいなのは逆に湖の方が新鮮に映るよ。うるさい観光客もいないし。昨日も帰り際に寄ったんだが、あそこは農場もあるだろう?」

「あるみたいだな。でもまだ散策できてなくてね」

「それはもったいない! そういえば昨日、普段見かけない金髪の綺麗な女性がいたけど、もしかしてあれがきみの奥さんだったりしてな」

「金髪か。それならジェシーかもしれないな……」

「ええ? ジョークのつもりだったんだけど。ああ、それと小さな子供を抱いてたな。赤ちゃんくらいの」

 赤ちゃん、と聞いて思わずぎくりとした。

 僕たちが子供を亡くしたことは言っていない。

「それじゃあ、たぶん……違うよ」

「ふうん。残念だな」

 彼はそれ以上聞いてこなかった。

 僕もなにも言わなかったし、言うようなことじゃなかった。説明して変な空気になるのも避けたかった。ただその日の僕は少しだけいやな気分になって家に帰った。人違いであっても、ジェシーが小さな子供を抱いていたかもしれないと考えると胸がざわついた。そのせいかどうか、家の中が少しだけ湿気ているような気さえした。

「お帰りなさい、デミアン」

 ジェシーはすぐに出迎えてくれた。

「あ、ああ。ただいま」

「どうしたの?」

「いや、なんでもないよ」

 ジェシーの様子は普段とあまり変わらなかった。ただいつものように――前の家でのように――夕飯ができてるわ、とだけ言った。僕は頷いてジャケットを脱いでハンガーにかけたが、小さな子供を抱いていた、という言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。きっと人違いだ。そうに違いない。夕飯の用意されたリビングへと赴く。だが気になって、夕飯の味はしなかった。いっそハッキリさせた方がいいかもしれない。それに子供、しかも赤ちゃんを抱いていたなんて事実があったら、それは彼女のためにも良くないことだ。

「そういえば、変な話があるんだよ。君が、その……小さな子供を抱いているのを見たという人がいるんだけれど」

「小さな子供を?」

 ジェシーはしばらく考えるように視線を彷徨わせていた。

「ああ。見かけない人だったから奥さんだったのかと聞かれてね」

 僕は少し言い訳がましく言った。彼女はまだ考えるような仕草を見せていたが、やがてしっかりと僕を見た。

「それ、たぶんハートリーさんのお子さんだわ」

 ジェシーは頷いた。

「ハートリーさん?」

「この近くに農場があるでしょう、そこのお子さんよ。女の子なんですって。たまたま奥さんと出会ったから挨拶をしたの。仕事も募集しているらしくて、いま少し考えているの。今度あなたと一緒に改めて挨拶に伺うって言っておいたわ。たぶん、それを見ていたんじゃないかしら」

 僕は言葉に詰まった。

 だれの子供であれ、子供と一緒にいたのは事実だと認めたようなものだからだ。

「ジェシー」

 できるだけ自分を落ち着かせるように名前を呼んだ。

「君に必要なのは休養なんだ。だれかの手伝いであっても働いたり、ましてや子供の世話なんてもっての他だ……、そんなことをすればむやみに思い出すだけだ」

「別にお世話を任されたわけじゃないわよ。挨拶しただけだもの」

「それでもだよ。ジェシー、わかってくれよ」

 ジェシーは少しだけ目を丸くしたあと、大きく深呼吸をするように息を吐いた。

「ええ、そうね」

「うん。僕は医者として言ってるんだよ」

「わかってるわ」

 ジェシーは本当に理解しているのだろうか。

「ハートリー氏のところには僕が行くよ」

「どうして? 二人で行けばいいじゃない。ハートリーさんはいい人たちよ。ご近所さんとは仲良くしておくべきだわ」

「きみ一人じゃ心配なんだ。何度も言ってるだろう、きみに必要なのは休養なんだよ。僕が一人で行くよ」

「……そう」

 そのハートリーとかいう農場の奥方に、ひとこと言ってやらねば気が済まなかった。子供を亡くした傷心の妻をいたずらに傷つけるようなことはしてほしくなかった。最初こそこの町は良い町だと思ったが、もっと静かなところに行くべきだったか。人がいるということは、子供がいるという可能性を完全に失念していた。ジェシーがその子供と出会ってしまうことも。近くとはいえ町があると便利だし、僕だってそこで仕事を見つけたからこそ近くへやってきたというのに。ジェシーをあまり外へ出すべきではないのか。僕はどうすべきかを考えはじめていた。

 僕はしばらくジェシーの様子を観察していたが、特にこれといって変わった様子はなかった。湖にあるベンチで本を読んでいることが多くなった。湖畔周辺はまだ完全に観光地化されておらず、小さなベンチがいくつか置いてあるだけだった。こういう場所にありがちなボートやそれらしい橋のようなものもない。いまだ自然の中にある。ジェシーはほんのわずかな家事を終えると、そこへ行って本を読むというサイクルになっていた。一、二時間ほど時間を潰してから家に戻り、昼食を食べてから暇があればまたそこへ行って続きを読むというものだった。仕事をしながら彼女を観察するのは少し骨が折れた。日によっては僕も一日仕事にかり出される日があり、そういうときが二、三日続くこともあったからだ。

 そんなことを続けていたせいか、ハートリー氏の農場へ行くのが遅れてしまった。ようやくハートリー氏の農場に行くことができたときは、最初にここに来てから十日ほどが経過していた。ハートリー氏の農場は、豚とニワトリも飼育していた。子供の件さえなければジェシーの療養にはちょうど良かっただろう。僕が農場に向かうと、ちょうどジーンズを履いた女が牛の世話をしているところだった。四、五匹ほど外に出ている牛は、元気に草を食んでいた。

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