緑の沼

第1話 緑の沼①

 五月も終わりに近づき、夏のはじまりが訪れる季節に、ブランドン・ホーニングはやむにやまれぬ事情から住み慣れた都会を離れる決意をした。ブランドンはもうすぐ三十歳になるかという男で、作家としてペンの代わりにキーボードを叩いて日銭を稼いでいた。長年の夢を叶え、六年ほど前に一冊目を出版して以来、原稿に向き合ってきた。だが最近ではもっぱら退屈と怠惰の中に沈み、原稿に向かう手も遅々として進まなかったのである。

 ブランドンはもともと文学を志していた。ヘミングウェイやドストエフスキーにひととおり傾倒し、自分も長く読み継がれる文学を出版するのを夢見ていた。そんな彼が手慰みに書いたホラー小説が、運良く編集者の目にとまった。彼はホラーだのファンタジーだのミステリーといったものをひとまとめにして、文学よりもずいぶん下に見ていたが、このチャンスを逃すはずもない。渾身の文学小説ではなく、ホラーでデビューを飾ることになったが、彼はむしろこんな程度の作品でも編集者の目に留まったのだと自分の才能を過大に評価する原因になった。せっかくの第一作を三流ジャンルなんかに捧げてしまったのは悔しいが、この先の踏み台と考えて高をくくっていたのだ。

 ところが編集者やわずかな読者がブランドンに望んだのは当然そうした怪奇と幻想とに溢れた、彼いわく子供じみて胡散臭いものばかり。彼が思うところの「上等で高尚な文学作品」はどれも鳴かず飛ばずで、プロットを送ってもやんわりと断られてしまう。説得に次ぐ説得の末、観念した編集者に雑誌連載させてもらえたが、これも評価は芳しくなかった。雑誌の売り上げにまで影響したどころか、少なくない読者にまで苦言を呈されたのだ。SNSには「新進気鋭のホラー作家による、はじめての文学小説というので期待していましたが、思ったほどではありませんでした。話が動かないままむしろ退屈で冗長に仕上がっていて、やはり先生の作品には悍ましく恐ろしい怪異が必要だと改めて感じ入った次第で、云々」――などと書き込まれる始末。これには憤慨し、すぐさま反論を書き込んだ。これまで見下してきたものにこそ自分の価値があると突きつけられてしまっては、たまったものではない。だがそれがますますブランドンの評判を落とした。おまけに他のホラー作家から苦言を呈され、ますますブランドンは追い詰められる羽目になった。

 自分が蒔いた種とはいえ、現状は頭を悩ませるものだった。そうして今度はひどいスランプに陥ってしまったのである。

 こういうときに悪いことは重なるもので、ブランドンは執筆業に専念するべくそれまでの仕事をとっくに辞めてしまっていた。仕事と執筆業との両立は無理と判断した結果だったが、仕事での僅かな苛立ちや喜びといった刺激が創作の糧となっていることにこのときになって気がついたのである。再び仕事に戻ろうにもすっかり怠惰が染みついてしまい、生半可なやり方では仕事に戻れなくなっていた。

 その現状は彼の精神にことさら影響を与え、すっかり気落ちしてしまった。酷評した読者に感じていた怒りも落ち着いたどころかもはや遠い日のできごとのようで、日がな一日ぼんやりとして過ごしているうちに、担当編集者であるコンラッドから休養を薦められた。精神状態が悪くなっているわけじゃないと訴えたが、このままでも埒があかないと思い始めた。

 とにかくブランドンはまず自分を慰め、心を癒し、気持ちを切り替えるために、環境からむりやり変えることを決意したのである。


 走らせた車が大小の丘を越え、アーウェル地方独特のまっすぐに伸びた細い木々の間を進むと、目指すベリサウェンの湿地が見えてきた。療養の地に良いとコンラッドに薦められて選んだのは、静かな湿地のコテージだった。湿地といってもそれ自体はそれほど大きくなく、むしろ森に囲まれていると言ったほうがいい。肝心の森も、ほとんどが苔に覆われた緑の森だ。そのほとりにあるのが目指すコテージである。車で行ける距離に小さな町もあり、買い物に不便はない。後になってよくよく調べていたところ、コテージ自体は何人かの手を渡った末に、前の住人が沼で事故死した後には売りに出されてそのままだったという。この経緯を考えると、コンラッドに何か仕向けられたような気さえする。だが、いまはそんなことはどうでもいい。編集者の考えがどうあれ、いまのブランドンは休暇を必要としていた。


 目的地であるコテージの前に車をとめる。おもむろに車を降りると、むせかえるような土のにおいが鼻をついた。

 遠くに微かに鳥の声が聞こえ、けして静謐とは言いがたい沼のほとりに二階建てのコテージは建っていた。高床式になっていて、外観はログハウス風だった。入り口はいかにも風格のある黒い扉が取り付けられ、その隣には真鍮のランタンがあった。本物かと思ったが、壁に貼り付けられているのを見ると電気式の飾りのようだ。ブランドンは懐から預かってきた鍵を取り出すと、早速鍵穴に差し込んだ。錆びてやいないかとは思ったが、鍵穴は楽に回った。

 玄関を開けると、広々としたリビングエリアが広がっていた。中は外と違ってログハウス風ではなく、壁は白い壁紙が貼られていた。窓からはカーテンの向こうから柔らかな日差しがさしこんでいる。暖炉のあるリビングには以前の住人が置いてあった家具がそのまま置いてあり、少し色あせてはいるがまだ使えそうだった。ソファは以前の住人の体重に負けなかったらしく、まだ弾力を備えていた。ソファの間にある木製のテーブルも、造りはそっけない上にひっかき傷があったが許容範囲内だ。脚もしっかりしているし、少し揺らしてみたが問題ない。敷かれたクリーム色の絨毯もふわふわとして、足音も吸収してくれる。

 すぐ隣にはキッチンがあり、タイルで装飾されたキッチンは美しく、目地の汚れひとつ無かった。軽く水道を捻って水を出してみる。これも問題無さそうだった。


 奥に向かうと浴室とトイレが別々にあった。本来は複数人で住むことを想定しているらしく、トイレも独立していた。浴室の方も綺麗なタイル張りで、シャワースペースに加えて浴槽まで完備されていた。その横にある階段から上にあがると、吹き抜けを臨む廊下には談話スペースのようなテーブルと一人掛けのソファが両側に置かれた空間があった。どちらもまだじゅうぶん使えそうだ。事故死とはいうが、前の住人は意外にも優雅な暮らしをしていたのかもしれない。

 部屋は三つあり、手前の二つは寝室になっていて、それぞれベッドが置いてある。一番奥の部屋は前の住人が仕事かなにかで使っていたものらしく、書斎になっていた。壁を埋め尽くすような本棚と、窓を背にして置かれた机には興味がそそられた。

 ――これも前任者が置いていったのか?

 ――仕事をする気になったら、ここでやるのもいいかもしれないな。

 むしろ自分の部屋よりはかどりそうだ。机の近くにはコンセントもある。一応のつもりで持ってきたパソコンはここに置いておくことにした。

 ひとまず真ん中の部屋を寝室に選ぶと、荷物を一通り取り出して棚にしまいこんだ。やることをすべてやってしまうと、ブランドンはキッチンでコーヒーを淹れることにした。湯を沸かしている間に、リビングの暖炉を覗き込んだ。玄関で作り物のランタンを見たときからなんとなく想像はついていたが、本物の暖炉ではなく暖炉型のファンヒーターだった。少し肩透かしを食らった気分だったが、電源をつけてみると、炎の映像はなかなか雰囲気があった。これはこれでアリだと思った。


 コーヒーを淹れて改めてソファに座り込むと、ようやく気が休まった。

 同じぼんやりと何もしない時間でも、そこに流れているものが違うと感じられた。喧噪から離れたことは大きな意味があったに違いない。窓に視線をやると、そこからウッドデッキに行けるようになっていた。ブランドンはカップを持って窓を開け、そこからウッドデッキに降り立った。向こう側には緑の沼が見えている。沼のふちには苔が覆った箇所があり、苔はそこから林の方まで続いていた。目線をやると、その向こうの森の奥まで続いている。柵に腕を置き、大きく深呼吸をした。

 ふうっと息を吐いたそのとき、ズボンのポケットで震えるものがあった。ポケットからスマートフォンを取り出す。画面には担当編集者であるコンラッドの名前が表示されていた。そのまま通話ボタンを押し、ハンズフリーにしておく。

『やあ、先生! もう着いた頃ですか?』

 コンラッドの明るい声がした。

 ふてぶてしいな、とブランドンは思ったが、少し笑うだけにした。

「ああ。少し前にね」

『そりゃ良かった。そっちはどうです? いいところでしょう』

「まあね。悪くないよ。前の住人が事故死した物件なんてね」

 チクリと言ってやったが、コンラッドは笑っていた。

『ははは。わかっちゃいましたか』

「そりゃ自分がこれから住むところくらい調べるだろう」

 ちらりと周囲を見る。少しだけ音量を上げてから、ウッドデッキの片隅に置かれた小さなテーブルにスマートフォンを置く。

「事故死といっても沼地での事故死なんだろう? 特に問題ないさ。きみの思惑にも乗らないよ」

『なんのことです?』

「不気味な沼に、前の住人が怪死した物件。後は殺人鬼か、それとも沼から出てくる化け物か?」

 詰めるように言ってやったが、コンラッドはまだ笑うだけだった。

『先生はお休みに行ったんでしょう。それともなんですか、とうとう観念しましたか』

「何を言ってるんだ。おれはまだ諦めていないからな」

 電話口からため息のような声がするのが聞こえた。

『自分の書きたいものと世間からの評価が違うなんて、よくあることですよ。ほら、コナン・ドイルだって歴史小説を書きたかったのに、シャーロック・ホームズが有名になりすぎて滝で殺したって、その筋じゃ有名な話ですからね』

「俺がそうだって言いたいのか?」

『そうじゃありませんよ。まだ先生には時期尚早だったって話です。チャンスはあるんですから、仕事のために割り切るのもアリですよ』

「その仕事から逃れる為に来たんだけどな、こっちは」

『そうでしたね。じゃあ、この話はここまでです』

 思いのほかあっさり引き下がったことに、ブランドンは少し肩透かしを食らった気になる。

『でも、本当に気をつけてくださいよ。こっちだって休養に出したつもりだったのに、それで事故死なんてしたら敵いませんからね』

 カップの中身を少し飲んでから、また柵に手をやろうとする。

「そうだな。それはじゅうぶんに……うわ」

 指先にぬるりとした感触がして、思わず指を離した。自分の指先を見ると、濃い緑色の、ぬめぬめとした海藻のようなものがついている。柵の隅の方に苔がついていたらしい。軽くシャツで拭きとった。

 ――なんだ、苔か?

 このあたりは苔が多い。それがここまでこびりついていたのだろう。

『先生? どうしました?』

 さすがにコンラッドの声にも真面目な色が混じった。

「ああ、気にしないでくれ。デッキにいたんだが、柵に苔がついていてな。うっかり触ってしまったんだ。ぬるぬるしていたから、びっくりしたんだ」

『ちょっと。本当に気をつけてくださいよ、言ったそばから。僕だってそんなつもりで行かせたわけじゃないんですから』

「わかってるよ、来たばかりでちょっと浮かれてるんだ。明日になったら掃除したほうがいいかもしれない」

 それから少しばかり他愛もないことを話すと、ブランドンは通話を切った。

 ふうっと息を吐く。突然静かになったことに、少しだけ物足りなさのようなものを感じた。少しだけあたりを見回してから、柵の片隅にある苔を見た。ぬるぬるとしていて、改めて見ると深い緑色をしている。普通の苔というより海藻のような種類だ。さっき触れた指を見て、もう一度シャツで拭った。さっそく洗濯物ができてしまったが、浴室には洗濯機もあったはずだ。後で突っ込んでおくことにして、ブランドンはスマートフォンとカップを持ってコテージの中に戻った。

 カップを片付けてから、ブランドンはコテージの奥にある物置の扉を開けた。青色のバケツにモップやデッキブラシが突っ込んであり、旧型の掃除機も置いてある。これなら掃除も捗りそうだ。それでもさすがに今日やる気にはなれなかった。それに、放っておいても特に問題はないぐらいの汚れだ。それにコンラッドにも明日になったらと言ったばかりで、有言実行の範疇だろう。それより、今日の寝床を整える方向に尽力することにした。

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