第2話 緑の沼②
翌朝、カーテンの向こうから差し込む光で目が醒めた。時計を見ると、もう十時近くなっていた。専業になってからずっと遅い起床が続いていたが、何も考えなくていい起床とはやはり違う。いい加減起きるべきかとあくびをかみ殺し、下に降りることにした。
軽く朝食をとってから、昨日と同じく物置の扉を開けた。デッキブラシとバケツを手に、ウッドデッキに出る。こんなことは久しぶりだ。ちらりと見ると、緑色の苔が床の隅にもついているのがみえた。昨日は気がつかなかったのだろう。滑らなくて良かった。苔をそぎ落とすと、デッキに濡れた跡だけが残った。そこだけ色が濃くなっているが、乾けば問題ないだろう。久々に体を動かしたからか、それとも綺麗になったからか、清々しい気持ちになる。
掃除用具をあらかた片付けてしまうと、ブランドンは近くの町に出かけることにした。小さな町だが、散策するにはちょうどいいだろう。どうやら自分は生まれついての都市型人間らしいと少し笑ってしまう。こんなに自然に囲まれたところに居て、結局行く先が小さいとはいえ町とは。だがそれが自分という人間だ。仕方ない。
少し車を走らせてたどり着いた町は、意外にも悪くはなかった。ブランドンにいわせれば町というよりは村のようなものだったが、このあたりに来る客もそこそこいるらしく、酒場や店も充実していた。大きく歪曲した通りを囲むように木組みの民家が並び、なだらかに曲線を描く石畳は年季を感じさせる。窓にはプランターが置かれ、大通りを華やかに彩っていた。ひとつひとつの建物に特徴があり、それぞれ持ち主が勝手に作り上げたようなちぐはぐさが、この町を形作っているともいえた。
緩やかな坂道を登った先にはワイナリーもあるらしく、町の名産になっていた。町の看板には手書きの地図もあり、町を見下ろせる小高い丘の上にはぶどう畑が広がっているらしかった。コテージの方は湿地帯になっているのに、こんなところにぶどう畑とは珍しい。いずれにせよ後で一本買い込んでもいいかもしれないと思った。ワインは嫌いじゃなかった。どんな味でもきっといいアイデアの源泉になってくれると予想していた。しばらくぶらぶらと町を歩くと、一日ではこれは歩ききれないと悟った。そんなつもりはなかったが、意外に楽しめそうではある。
ワイナリーまで進んでみると、丘の上にある建物は町に比べて真新しい建物だった。この町の目玉となるべく建て替えられたかしたのだろう。石畳も、ワイナリーの門をくぐるとコンクリート作りになっていて、このあたりは整備されているようだ。二、三台ほど車も泊まっていて、観光客らしき人々が直売所の方に足を向けていた。入り口には見学の時間が書かれていたが、時計を見ると次の見学までにはあと二時間ほどある。諦めて、ぶどう畑の方にまわることにした。裏手のほうにぶどう畑を見渡せる、観光客用のルートも整備されていたのだ。奥の方までずらりと並んだぶどう畑の間を抜け、整備されたルートをぶらぶらと歩く。丘の上まで着くと、いましがた登ってきた小さな町が見渡せた。古くてこぢんまりとしていて、写真のようだ。
沼やコテージも見えやしないかとあたりを見渡すと、それらしい森が見えた。目を凝らそうとして、一瞬、びくりと冷たいものが走った気がした。コテージに住んで辺りを見ていたときはそれほど気にならなかったのに、妙に鬱蒼として見えたのだ。そこだけ妙に落ち込んでいて、ぞっとするような感覚に見舞われる。これはどういうことだ。
――……いや、気のせいだな。
前任者が事故で死んだなんていう話を聞かされたからだ。それにこれだけ明るいから、森が暗く見えたのだろう。それにコテージの中にいたときだって、変なものを感じたわけじゃない。目をこすってもう一度見てみたが、単なる森にしか見えなかった。
ブランドンは直売所でワインを二本ほど買い込み、町の方へと下りることにした。気に入ったらまた買いにくればいいし、町の方にも店はあったから別の銘柄を買うことだってできる。
適当な店に入って飲み物とサンドイッチを注文すると、バルコニーの席に座って通りを眺めた。心地良い日差しが降り注いでいる。住人とおぼしき中年の女が、買い物袋を抱えて坂を下っていく。向かい側の家から出てきた老婆は、魔女のように腰を曲げたまま通り沿いのプランターに水をかけていた。その前を、いかにも旅行者といった風体の若い男女が笑い合いながらワイナリーに向かって歩いていく。老婆はちらりとその様子を見たが、すぐに視線を戻していた。意外に旅行者も訪れるようだ。
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、ときおり賑やかになる通りを眺める。流れていく時間は同じはずなのに、妙にゆったりと時間が流れる。これほどに気が休まったことはこのところなかった。
二、三日ほどそんなゆったりとした生活を続けていたからだろうか。その日も店に入ってコーヒーを飲んでいると、不意に情景が浮かんできた。いくつかのアイデアが下りてきたのだ。本当に突然だった。誰かが横で自分の体験を語りだしたかのように鮮明だった。ブランドンはそいつを忘れないうちに、ポケットの中のメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。
――古い町に住む一人の老人、過去に犯した罪とは……。
――伝統的な町に都会からやってきた少年か少女かと、古くさい老人との、ひとつの季節の間の出来事……。
――古い町から飛び出した音楽家が、不祥事で地元に戻るところから……。
とにかく思いついたとりとめもないアイデアを書き出していく。
どこかで聞いたようなアイデアばかりだが、これでいい。いまはこれで充分だと思い込んだ。
コンラッドならここに怪物だの怪異だのひどい有様のものをぶちまけようとするだろうが、そうはいかない。ブランドンは今度こそ自分が望むままの小説を書き上げるつもりでいたし、そこにわけのわからない怪物のつけいる隙を作ってやるわけにはいかなかった。今度こそ、ホラー小説から離れて再起をかけるつもりでいた。
それからコテージにとって返したブランドンは、二階の部屋に目をつけた。ふと二階の部屋が目に入った。一番奥の、かつて書斎であったであろう場所。そういえばあそこを仕事スペースにしようと思ったことを思い出した。気になってはいたがすっかり手をつけるのを忘れていた場所だ。
翌日になってから、ブランドンはさっそく書斎に乗り込むことにした。
朝食を済ませてしまおうと、焼いたトーストの上に目玉焼きと塩こしょうをかけ、サラダ用の袋から手づかみくらいの量を皿にとり出し、ドレッシングをかける。コーヒーと一緒にリビングにまで持ってきて、優雅な朝食を済ませようとカーテンを開けた時だった。
「うっ……!?」
ウッドデッキを見た途端、思わず呻いた。
妙に濡れている、いや、ぬめった濃い緑色がウッドデッキを半分以上ほどしていた。思わず窓を開けてみると、このあいだ掃除した苔と同じものだった。
「なんだ、苔か……」
思わず口に出てしまった。
息を吐き出した瞬間に、鈍い水音がした。今度こそハッとして沼の方へと目をやったが、そこには小さな波紋が広がっているだけだった。沼を覆っている苔がゆらゆらと揺らめいている。おおかたカエルか、水音の大きさからして大きめの魚でもいるのだろう。
そういえばここ二、三日は町の方をぶらぶらしていたからか、ウッドデッキをあまり確認していなかった。この間掃除したときよりもずいぶんと浸食されてしまっている。自分ひとりだというのに、わざとらしいため息をついてしまった。どうやら書斎の前にウッドデッキの掃除が必要らしい。朝食のためにウッドデッキに出るのは諦めて、リビングで朝食を済ませることにした。
倉庫の中からデッキブラシとバケツを手にすると、コテージを浸食しようとする緑色の潰れた海藻にはご退場願うことにした。ゴシゴシとぬめり気のある苔を取り払ってしまうと、バケツの中身をみんな沼の方に流してしまった。
少し出鼻をくじかれたものの、気を取り直して書斎に乗り込んだ。
書斎は最初の日に見たときのまま保管されていた。
まずは窓に近づき、カーテンを開けた。最初から書斎として設計されたように、日差しはわずかばかりで眩しくない。振り返って机に手をやる。なかなか洒落たデザインで、真ん中に鍵穴のある抽斗がひとつ、両側には三つずつ抽斗があった。
――俺のデスクより高級そうだな……。
興味を惹かれて、次々と両側の抽斗を開けてみた。これといったものは入っておらず、肩透かしを食らった気分になる。最後に残った抽斗もろくなものは入っていないだろうと思ったが、そこに銀色に光る鍵がぽつんとおかれていた。これが真ん中の鍵だろう。拾い上げて、椅子をどかして鍵を開けた。難なくガチャリと音がしたところで、抽斗を開けようと手を伸ばす。開かなかった。というより、途中で抽斗が止まってしまう。
――何か入ってるな?
中の方に何か残っているようで、引っかかっているのだ。
――鍵はあったし、前の住人は鍵付きの抽斗だけを使ってたのか。
どうにか覗き込んでみる。引っかかっているものは見えないが、ノートのようなものが見えた。もしかすると何か書いてあるかもしれない。事故死した前の住人の残したもの。普通であれば少し気分が悪いような気がしただろう。けれどもブランドンは好奇心に突き動かされ、なんとか抽斗が開かないかと考えあぐねた。指先が入らないかどうか試したが、関節で引っかかってしまう。それならと工具箱を持ってきて、ドライバーを突っ込んでみたがダメだった。もっと薄いものでないとダメだ。
しばらく両手を腰に当てて考えた末、ふと思いついてあたりの本棚に目をやった。本棚のひとつに抽斗があり、次々開けてみるとわずかなペンと一緒に竹製の定規が入っていた。これだ、と思った。定規を突っ込んでみると、奥のほうで感触があった。いける。むりやりにねじ込み、物が触れているところを勢いよく押し上げた。
ガコンと音がして、真っ二つに折れた竹製定規が空中を舞って虚しく床に落ちた。バランスを失い尻餅をつく。
「いてて……」
手に残った竹製定規の半分を見て顔を顰めた。深いため息をつく。床に転がったものと一緒に拾い上げ、叩きつけるように机に載せた。ところが、少し苛立ち混じりに鍵付きの抽斗を開くと、あっけなく開いた。どうやら竹製定規の犠牲と引き換えに、中で引っかかっていたものも取れたらしい。中にはまだ物が入っていた。
本のようなものが一冊と、あとは乱雑な書類だった。
書類を無視して本を手に取る。中を軽く読んでみると、どうやら日記のようだった。前の住人の日記。これほど好奇心を刺激されるものはなかった。いまどき日記なんて、しかもこんな本の形になっているものを残す方もどうかしている。
――なるほど、コンラッドめ。
やっぱり腹に一物かかえていたじゃないか。ホラー小説のネタにちょうど良かろうという腹づもりで、ここを選んだに違いないのだ。以前の住人が何度も入れ替わり、ひとつ前の住人もまた奇妙な失踪を遂げたコテージ。ここで次の作品の構想を練ってくれということか。けっきょく、自分はお膳立てさせられたのだ。そして目論見どおり、見事に片鱗を見つけたというわけだ。
とはいえ、コンラッドの思い通りなのも癪に障る。
それでも、他人の――死んだ人間の日記という個人的な記録に対する強烈な好奇心を抑えることはできなかった。
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