第3話

 私の怪我は、半端な治療で放置されたままだったせいで、治りが遅かった。


 手当をしながら、ハンナは何度も謝ってくれる。


「すみません。馬車でご一緒するまでどうにもできずにいたので、その分傷が大きく残るかもしれません。化膿しなかったのが幸いです」


 たしかに、私の二の腕には切り裂かれた痕が残っていた。

 幸いと言っていいのか。


 あの神教騎士の剣は鋭く研がれていたようで、一本のみみずばれのような痕で済んだけれど。そうでなければ、ひきつれた醜い傷跡になっていたかもしれない。普通の剣で斬られた時の傷跡はみんなそんな感じだったから。

 これなら、何かで間違って怪我をしたと言い訳がしやすい。


「いいのよ。そんなに長く放置したわけじゃないから、痛みも少しずつ減っているし」


 大きく動かさなければ痛くない程度に傷がふさがったし、ハリエットが持ってきてくれていた薬のおかげで、微熱を出したけれども大事には至らなかった。

 ただ、ここからが勝負だ。


 そうして私は一週間、馬車の旅を続けた。


 警戒すべきは御者だけで、それもハンナがうまくごまかしてくれたので、私は怪我のこと以外は苦労せずに過ごせた。


 怪我の方も、回復してきた。

 一時、傷のせいで熱が出てしまったけど、ハンナが薬を調達してくれたので、揺れる馬車に乗り続けていても、なんとかやり過ごせたのだ。


 その時にハンナは、万が一のため私と一緒に隠していた貴金属類をいくらかお金に換えてくれていた。ガルシア皇国へ行った時に、これが役に立つのだ。

 通貨はあちらも同じものを使っているはずだから。

 そうして私たちは予定通り、白の領域へ入った。


「計画通りに行きましょう」


「わかった」


 うなずく私を、ハンナはきつく抱きしめた。

 それから斜め掛けの鞄を肩にかけさせる。

 革でできた茶色の鞄は、中にたくさん物を詰めてくれたのか、ずっしりと重い。


「この中に、お金と、お金に換えられそうなお嬢様が持っていた宝石なども入っています。でも、昨日服の内側に縫い込んだ物もありますから、命が危うい時には、鞄を捨ててでも逃げてください」


 私はうなずく。

 昨日までに、ハンナが服に銀貨をいくつも縫い隠してくれていた。

 軽い宝飾品もあったので、お金に変えられればしばらくは暮らせる。

 少し服が重くなったけど、この重みが私の命綱なのだ。


「食料と水は少ないですが、節約したら四日分にはなると思います。足りなくなったら、鞄の中の植物の本を見て、なんとか水分になりそうな植物を口にしてください。そうして向こうまで行くのです」


「うん。あちらの国に入ってから、買い物をするのね?」


「ロイダール王国側で姿を見られてはいけません。子供が国境付近でうろついていたら、怪しまれます。そのまま黒魔女だと疑われる可能性も高いのです」


 私はうなずいた。


「ハンナも、無事でいて」


 ハンナはにかっと笑ってくれる。


「もちろんですよ。下準備はしていますから、ご安心ください。それよりお嬢様の方が大変ですよ。私と違って働いたご経験も、一人で暮らしたご経験もないのです。それでも……」


 ハンナが瞳に涙を浮かべ、すぐに袖口で拭った。


「亡き奥様がおっしゃっていました。お嬢様らしく、そして何にもおびえることのない暮らしを送れる場所が見つけられたら、と」


「お母様が……」


 考えてみれば、黒魔女の素質があるとわかってから、私は引っ込み思案になった。お母様はそれを心配していたのかもしれない。


「どうか、かの国がお嬢様にとって、安心して暮らせる場所でありますように」


「うん。がんばる」


 私はうなずくと、一呼吸後、ハンナから離れて座る。

 そしてハンナは馬車の窓を開けて騒いだ。


「うわっひどい霧だね! もう白の領域なんだろう? 早く馬車を止めておくれよ!」


 荒々しい態度に、御者が嫌そうな声で応じた。


「こんな場所にいたくないのは同じだってばよ、ばーさん。でも白の領域に入ったばかりだと、すぐには魔物が出てこないんだって聞いたぞ?」


 ぞんざいながらも慣れた態度は、ハンナがこの一週間、ずっと『白の領域なんて行きたくなかった』とか『奥様の信頼を勝ち取るためだけにがんばっただけ』とさんざん御者二人に刷り込みつつ、イライラして見せたからだ。

 御者の様子を見る限り、ハンナの作戦はうまくいっているようだ。


「村の人間の話なんて完全に信じられるもんかね!」


「面倒だなぁ」


 嫌そうな顔になる御者。

 話している間も、馬車はさらに速度を落した。

 霧が満ちて来て見通しが悪いから、慎重に馬車を動かさないと、道を外れてしまいそうだったのだと思う。


 ――私にとっては有利だ。


「じゃあそろそろこの辺で止めるからさ」


 馬車がゆっくりと止まっていく。

 ――今だ。


「お元気で」


「ハンナも」


 小声で言葉を交わし、私はハンナが顔を出しているのとは反対側の扉から外へ出た。

 飛び出してすぐ、地面に着地し、走り出す。

 どこでもいい。真っ白な霧の中へ隠れる。


「ちょっ、逃げたんだけど!?」


「おい、どうする?」


 御者は追いかけるか戸惑っている。魔物がいつ出てくるかわからない場所で、人を探し回りたくないはず。

 ハンナはそれを見越して、白の領域へ入って間もない場所で逃がしたのだから。


「とにかく探すよ!」


 そう言ってハンナは、私とは違う方へ走って行く。

 さも、そちらに私の姿が見えたかのように。

 私は道を外れないように走った後、霧が薄らいだ場所で脇道の低木の茂みの陰にひそんだ。


「はあっ、はあっ」


 切れ切れの息を無理やり押し込めた。でもすぐには苦しくて呼吸が止まらなくて、口を手で覆って音が響かないように祈る。


「どこ行った!? くそ、ばーさんも見つからない!」


 御者は混乱しているようだ。


「ここにいると魔物になっちまうっていうし、もうこれでいいか……?」


 一人きりで不安だったのか、独り言を口にして自分を奮い立たせているみたいだ。


「白の領域へ行った証拠に、何か変な草を一つ持って帰れば、任務を果たした証拠になるって言ってたな……」


 そのまま御者は、がさごそと近くの草むらに入ったようだ。


「白の領域から出たら光らなくなるらしいが、変な形の草だからいいだろ。うん、そうだ。これでいい」


 自分を納得させるように言うと、御者は馬車に乗り、去っていく。

 ガラガラと馬車が走る音と馬が疾走する足音が響き、遠ざかり……やがて周囲が静まり返った。


 茂みの陰で私は深く息を吐いた。

 うまくいったみたいだ。

 ハンナも、きちんと御者の目を逃れたので、目的地を目指すだろう。


 私は自分の心を落ち着けるため、深呼吸する。

 これから、一人きりだ。

 ハンナの助けも今後はない。


「大丈夫、何度も考えてきたんだから」


 私はまず、三百年前からあるはずの石畳の道を探した。

 自分がいたのは馬車が通れる道の側だったこともあり、そこに沿って探すと、少しだけ白の領域の近くへ行った先で見つけることができた。

 踏み固められた道の一部が石畳で、横を見ると灰色の石畳の道が伸びていたのだ。


 この道ができたのは、遠い遠い昔、白の領域ができた三百年前より前のこと。

 遥か過去に、魔王の迷宮があり、迷宮の周囲に魔王が作ったのがこの石畳の道らしい。


「草木や枯草に埋もれたりしないのは……人が頻繁に通っているからかしら?」


 白の領域には、採取に入る人もいるんだとか。

 不思議な植物が生えていて、ぼぉっと光る草は、摘むと光らなくなるけれど、形が不思議だったり、普通の薬草よりも強い薬効があるらしい。

 高値で売れるため、採取に入るのだとハンナが人から聞いてきていた。

 だから村人と遭遇しないよう、気を付けてとハンナに注意されている。


「それにしても、ここが……白の領域」

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