第11話
14
龍一は司を屋敷へ連れ帰ると、霧子が帰ってきた二人の姿を見て目を丸くした。リビングには勝蔵や邦子らがいるため、二人は使われていない応接室に入り、ブランケットで身を覆い、冷えた体を温めた。
「まったくもう、一人はびしょ濡れ、もう一人は砂まみれ、一体どうなってるの?」
言い返す言葉もなく二人は顔を見合わせバツが悪そうに黙った。
霧子はそんな二人に熱々の紅茶を淹れる。最初にカップを龍一に渡そうとすると、
「司が先だ。一時間以上も海に浸かってたんだから」と顎で司にカップを渡すように指示した。
「だから俺は平気だって言ってるのに……」
不満げに霧子からカップを受け取る司。
「龍一の方が風邪引きそうじゃないか」
その時タイミングよく龍一から盛大なくしゃみが飛び出た。
「何だかよくわからないけどお似合いの二人ね」
霧子がカップを龍一に渡そうとすると、
「ミルク」と龍一が睨みつける。
顔をしかめて霧子は仕方なく紅茶の中にミルクを多めに投入した。
「お風呂も沸かしてあるし、何なら寝室も温めておいてあげたわよ」
その言葉に、紅茶を飲んでいた二人の動きが同時に止まる。
「男同士だし一緒に入ってくれば? その方が時間短縮できるし」
龍一は霧子の顔を見上げてみたが、いたって真顔だった。
「ただし、夕食が終わるまでは必ず二階に上がるように。お爺ちゃま達と鉢合わせしたら大事件よ。それまでは私が皆を引き留めておくから、いいわね?」
霧子のお言葉に甘えて、龍一は司をバスルームへと連れ込むと、びしょ濡れになった司の衣服を全て脱がし、自らも砂がついた服を脱ぎ去った。もうその時点で二人はエンジン全開になり、どちらからともなくむさぼるように互いの唇に吸い付いた。
シャワーで汚れた体を流しつつ、龍一は冷えた司の裸体を腕の中に抱き留めて何度もキスを落とす。もはや体を洗っているのか司を抱いているのかどっちがメインなのかわからなくなっていた。互いに反応を見せているものに手を伸ばすと、司は堪え切れなくなったように龍一の肩にしがみ付き甘えるような泣き声をあげた。そんな司の唇に吸い付きながら、扱く手の動きを強くすると二人はほぼ同時に絶頂に達した。
余韻に浸りながらキスをしていると、途中で龍一が顔を離し、またしてもくしゃみを飛ばした。
「あったまった方がいいんじゃない?」
司の言葉に頷き、二人はともに大理石で囲われた円形の湯船に身を沈める。温泉とまではいかないが一般家庭のバスタブと比べると五倍は広いだろう。龍一は司を抱きかかえる体勢で熱めのお湯に浸かると、思わず快感の声を漏らした。
「司、熱くないか?」
「熱いけど、まだ大丈夫だよ」
司が龍一の腕を掴みながら自分の手と絡ませて遊んでいる。ようやく司の冷えた体がまともな体温を取り戻してきたと龍一は一安心する。
「爪の中にまで砂が入ってる」
そう言って司は龍一の爪を洗う。
「まあ、頭から砂に突っ込んだからな」
まるで初めて司に会った時に田んぼの中に墜落したように。思い出して苦笑いを浮かべた。
「また?」
司が振り返って龍一の顔を見る。
「あぁ。あの時もこうして一緒に風呂に入ってお前に洗ってもらえば良かったな」
いたずらな顔で笑って見せると、司は照れたように龍一の顔にお湯をかけてきた。
「あの時にこんなことしてたら大変なことになってただろ」
急に司が龍一の股間を握った。
「おいっ」
今度は司がいたずらな笑みを浮かべて、龍一の方に体を反転させると、胸に寄り添ってきた。そして龍一の肩に顔をうずめながら静かに話し出した。
「ずっと処女だったんだ。処女のまま十六で男になった。でも今思うと、あの時……卒業式の前日に、龍一に抱いてもらえば良かった。そしたら、龍一は永遠に俺にとってのたった一人の男になってたのに」
「バカやろう……」
龍一はその背中に腕を回す。
(今だって、永遠にたった一人の男だろ)
二人はまた口づけを交わすと、龍一は司の後ろに指を這わせた。
「んっ……」
指でほぐすと、司は龍一にしがみ付きながら
「ここじゃ……やだ」と訴える。
「熱いか?」
こくりと司が頷く。
湯船を出て、龍一は司を壁に手を突かせて立たせると、背後から白い体に手を回して立ち上がったものに手を回した。
「あぁんっ……」
「もっと足開けよ、腰突き出して」
ぐっと腰を手前に引かせると、その蕾に自身の高まりを擦り付ける。まだ中に入れてもいないのに、司の腰は淫らに蠢きだした。
「焦るなよ」
「だって……一週間も我慢してたんだよ」
猫なで声で甘えるように司が言うと、龍一の下半身にいっそう熱が集まっていくのを感じた。そして司の熱望に応えるように龍一は自らを狭い蕾から挿入させる。
「んあっ、あぁ……あついっ」
掴まる場所のない壁の上を司の白い手が滑り落ちていく。ふわりと発する司の匂いに引き込まれるように龍一は彼の首筋に吸い付いた。締まった腹筋に手を侍らせながら腰を打ち付けると、司から高い嬌声があがる。
「も、もう……あっ、りゅう……」
触れてもいないのに、司は喘ぎながら壁に白い液体を放っていた。
「もういったのか?」
龍一が司の耳を噛む。
「あ……だって」
まだ龍一に突かれながら甘えた声で司が答えた。
「だって……生まれて初めて、生でしたんだもん……」
その言葉に、龍一はよくわからない唸りをあげながら腰の動きを速めた。
「いやぁあっ……あぁっ……」
そして龍一は刻み付けるように司の中に精液を放った。
息を切らしながら司を抱きしめてキスをすると、そのまま二人は足元から崩れるように座り込む。バスタブの淵に寄りかからせるように司を座らせると、龍一はその白い足を大きく開かせた。龍一に足首を掴まれて惜しげもなく股間をあけっぴろげにしている己の状況に少しずつ気が付くと、司は焦ったような声をあげる。
「な、何してるの?」
龍一は無表情でじっと司の蕾から流れ出る自らが吐き出した白い液を見つめた。
「あまりよく見たことがなかったからな……なるほど、こうなってるのか……」
真顔で呟くその様子に、司の顔がみるみる紅潮していく。
「や、やだ……」
足を閉じようとすると、龍一はその抵抗を許さず、少し赤くなっている蕾へ指を差し入れた。
「いやっ……ああっ」
中に入った液を掻き出すように龍一は無表情で指を動かす。
「りゅういちっ……りゅういちっ」
龍一の腕にしがみ付いて喘ぐ司に、ようやく龍一は目を合わせると
「もう一回だな」と再び自身の立ち上がったものを挿入した。
脱衣所で力なくぐったりと座り込む司の身体を龍一が子供にするようにバスタオルで拭ってやる。幼い頃に弟にしてやったことを少し思い出していた。司は長湯でのぼせたのと下半身の疲労とで立ち上がることすら辛い様子だった。龍一は下着を身に着けてから、自分と司の衣服を手にして考えた。
このびしょ濡れの服をもう一度着るわけにはいかないし、司に至っては下着までびしょびしょだ。替えの服を持ってきてはいないし、このままとりあえず龍一の寝室に行くしかないかと思案していた。
ふと壁に掛けられた時計に目をやる。
(やばい、そろそろ爺様たちがダイニングから出てくる時間だな)
というかどれだけ風呂の中で時間を費やしていたのかと思わず苦笑いを浮かべる。
「おい司、早く二階に上がらないとやばいぞ」
振り返って司に目をやるも、力なく首を横に振るだけだ。
「ダメじゃなくて、マジでやばいから。ほら、立てるか?」
手を貸してみるが、司はふらふらと立ち上がることは出来ても生まれたての小鹿のような状態だ。これで無事に階段を上がって二階までたどり着けるとは考えづらい。
仕方ない、おぶっていくか。
司の腰にバスタオルを巻ききっちりと結んでやる。そして司に背を向けて
「ほら」と腰を低くすると、むぎゅっと尻が揉まれる感触がした。
「おいっ」
思わず振り返って司を睨むと、いたずらな顔で笑っていた。
ふざけてる場合じゃないと思いながら、司の温まった体を背負った。
「誰かにおんぶしてもらうなんて何年ぶりだろう」
後ろの司は楽しそうに呟くと、優しく龍一に腕を回す。背後から包まれる司の匂いに早くもキスをしたい衝動に駆られたが、ここはグッと堪えた。
戸を開けて廊下に誰もいないことを確認すると、龍一は素早く廊下を歩き進める。パン一の長男とタオル一枚の裸の男がこんな状況でいるのを家の誰かに見られたら一巻の終わりだ。階段までの廊下をあと半分ほどの所まで進んだとき、二人の背後から「にゃあ」と鳴き声がする。驚いて振り返ると、そこにはジロウが二人の方を見て立っていた。
「ひっ」
司が体を強張らせ、龍一の首にしがみ付いた。嫌な予感が龍一の脳裏をよぎる。
次の瞬間、ジロウは二人の方へ走ってくると、ジャンプして司の背中の上に乗った。
「はぁっ……」
「おいやめろっ、叫ぶなよっ」
「んぎゃあああ」
司の悲鳴は途中で龍一の手に遮られたが、ジロウは司の声に驚いて飛び退くと、横の応接室へと姿を消していく。二人がホッとしたのも束の間、応接室の向こうから一人の古株家政婦が顔を出した。
思わず三人の視線が交錯する。
(やばい)
龍一が硬直しながらなんと言い訳しようと考えを巡らせていると、ゆっくりとその家政婦は無表情のまま二人の方へ近づいてきた。
「いや……ジロウの奴が……はは」
引き攣った笑みを浮かべて誤魔化そうとすると、家政婦は外れかかった司のタオルをぎっちりと結び直し、バシッとタオルの上から司を叩いて何も言わずにその場を去って行った。
(助かった……)
龍一は全速力で廊下を駆け抜けると、勢いよく階段を駆け上がって行った。
それからしばらくして、霧子が夕食を終えてダイニングルームから出ると階段の上にいるジロウを見つけた。半分まで昇って「ジロウ?」と呼びかけると、ちらりと彼は霧子の方に視線を送る。龍一の寝室のドアをカリカリと前足で掻いては「にゃあ」と何かを訴えるような鳴き声を上げる。
「ジロウ、そこはしばらく開かないわよ。ねえ、私ひとりじゃこれ以上引き留めるの限界。助けて」
するとジロウは霧子の方へ階段を駆け下りてその腕の中に大人しくおさまった。
人肌ほど温まったベッドの上に上がると、龍一は掛布団を一気に剥がして端に寄せる。横たわる龍一の上から司が覆いかぶさるようにして何度もキスを交わした。そして司の愛撫はだんだん下へと落ちていき、龍一のペニスを口に含んだ。
「んっ」
その刺激に反射的に寄りかかっていた枕を掴んだ。今まで経験がなかったわけではないが、それまでのものとは比べ物にならない感覚だった。司の指、唇、そして舌の動きに自制のコントロールを失いかけた。その薄い唇の中の粘膜すべてが龍一を快楽の渦へ引き込んでいく。思わず司の髪を両手で掴んで、行き過ぎる快感に耐えた。
こんなことされたことない……初めての感覚だ……
そして何よりも煽るのが視覚からもたらされる刺激だ。龍一のものを大きく開けた口の中に咥えこむ司の姿は、この世の中の何ものよりも煽情的だった。
司がぐぐっとその喉の奥まで龍一を飲み込んだとき、「ふあっ」と弱い声をあげて龍一は達した。司は顔を離すと、ごくりと何度も嚥下してタオルで口元を拭う。じっと龍一の顔を見ると、
「意外とはや……」
「言うな」
言いかけた言葉は龍一によって遮られる。
そのことは出した本人が一番よく分かっている。以前はこんなことなかったのに、想像以上のものがそこにはあった。
「それよりも……」
司は龍一に近づき、その腹部に手を添えた。
「ちょっと痩せた? お腹のお肉が……」
「あぁ、この何日かはラボに缶詰だったからな。ろくな飯も食べてねえし」
それにこっそり筋トレを始めたのは秘密だ。
目の前の美しい裸体を見て何も感じないでいられる方がおかしい。同じ男として、しかも元空手をやっていた身としては、ここは無様に負けを認めるわけにはいかないのだ。
「ちゃんとご飯は食べないとダメだよ」
「じゃあ毎日お前が作ってくれるか?」
朝も夜も、昼の弁当の分も。
「俺で良ければいつでも作るよ。料理は昔から得意だしね」
龍一は司を引き寄せて押し倒すと、何度も顔にキスを落とす。そしてまた互いに手足を絡ませて愛撫を交わすと、
「おい、他のやり方教えろ。あるだろなんか」
乱暴な物言いで龍一が司に言い放つ。要は男同士でやるのにはどんなスタイルがありますか? という質問だったのだが、龍一の口から発せられるとこういう言葉になる。
「そんなこと言われても……大体は同じでしょ」
司は困ったようにつむじの髪の毛をつまんだ。
「じゃあ、やり易いなら……」
司は仰向けになる龍一の上に背を向けてまたがると、少しずつ重心を下げて自分で体を繋げた。その自身のものが司の中に入っていく様子に龍一は確かに興奮を覚えたが、司の背が遠くにあるのが気に食わない。それに顔も見えない。龍一は上体を起こすと、司の身体に腕を回す。
「いまいちだな。体が引っ付いてないとお前の体があったまらないじゃねえか」
それに司の匂いが嗅げないのもマイナスだ。
そのまま司を抱いて横になり、結局は司の上から覆いかぶさる体勢に落ち着く。
「いつもと同じじゃん」
「うるせえ」
そして首筋に顔をうずめながら、全身で司の体温を感じながら身を繋げるのだ。互いの体温が同じ温度になるまで。
「そんなの無理だよ……だって龍一の体温も上がってるんだから永遠に無理だ」
「じゃあ、永遠に続ければいいだろ」
司の文句も聞かずに、龍一はゆっくりと腰を動かした。この感触をじっくりと味わうように。そして司の体に熱が伝われば伝わるほどに、放たれていく甘く柔らかい香り。初めて体を合わせた時から、龍一の心を引き付けてやまない魅力的な香り。
司の顔を上げさせ、何度も口づけを送る。何度も何度でも。
そして龍一はこのいとおしい男を抱きながら、ふと自分の机の方に視線を送った。
そう、この匂いはあの石と同じ。熱を持てば持つほどに甘く柔らかい香りを放つあの琥珀……龍涎香という意味を持つアンバーと。
俺だけのアンバー……もう二度と離さない。
早朝、まだ屋敷の中が眠りについている時刻、司はそっとベッドから起き上がる。乾かしてあった自分の衣服を身に着けると、黒いコートを羽織って静かにベッドで眠りこける龍一の顔を見下ろした。
音をたてないようにベッドへ腰を下ろすと、何も言わずに微笑んだ。そして立ち上がりかけたときに急に強い力で腕を引かれてベッドに倒れこむ。
「どこに行くつもりだよ」
「龍一?」
まさか龍一が目覚めていたとは思わずに、司は目を見開いた。
「ちょっと、トイレに……」
「コートまで羽織ってか?」
龍一の顔は不機嫌そうに目の前の男を睨んでいた。何も言い訳が効かない状況だと察すると、司は困った笑みを浮かべてつむじの髪の毛をつまんだ。
「君のことは好きだけど……君は宝泉家の跡取りだし……その……」
言ってる間にもみるみるうちに龍一の機嫌が悪くなっていくのがわかる。
「屋敷に来たらやっぱり急にその……」
「あのなあ」
ようやく龍一は司の腕を引き寄せて白い頬に手を添えた。
「跡取り跡取りってみんなうるさいけど、何だここは? 江戸時代か? 第一まだ俺の親父は死んでもいないし、あと数十年は元気にやってるだろうよ。それに俺が社長になってもし仮に子供がいなくたって、俺には弟がいる。叔父は三人、いとこは四人、霧子も含めたら五人だ。俺に子供がいなくても次の跡取りは腐るほどいるよ。いい加減その古臭い習慣も廃止にすべきだ。俺がトップになったらまず男尊女卑のこの時代遅れのシステムを改正させるね。女でも仕事が出来る奴は山ほどいる。性別じゃなくて、能力のある人間に会社を任せるべきだ。だからお前が今からそんな心配をするんじゃねえよ、まったく」
司は一気にまくし立てる龍一に困ったように笑みを浮かべる。
「おい、いいか」
龍一は両手で司の頬を掴んだ。
「よく聞けよ。お前が男だろうが女だろうが、俺はお前を選ぶ。だから絶対に俺から逃げようなんて考えるな。逃げても無駄だぞ、俺は海の底まででもお前を探して追いかける。自家用の潜水艦でも使ってな」
「……龍一が言うと洒落にならな……」
言葉の途中で龍一は司の口を塞いだ。
「ちょっとまだ喋って……」
口づけながら司が喋ろうとするが、
「うるせえ」と顔を押し付けられ、それ以上言葉を発することは不可能になった。
15
八月、一週間の夏季休暇が取れた龍一は、司と共にカリフォルニアのとあるリゾートホテルに来ていた。海沿いにあるそのホテルからは太平洋ビーチが一望でき、ホテルのプールからは隣接しているプライベートビーチに足を運ぶことも出来る。
太陽がぎらぎらと照り付ける昼下がりに、プールサイドのパラソルの下、ビーチチェアに横になっていた龍一は、目の前のコバルトブルーのプールをただ静かに眺めている。そこはホテルに滞在している欧米人らが数名いたが、龍一の視線の先にはしなやかな筋肉に包まれた美しい青年がいた。
数分間水の中に潜っていただろうか。ようやく水上に顔を出すと、前髪から滴る水をかき上げてプールサイドへと上がってくる。太陽光に反射した水滴が彼の肉体の上で光を放つ。その様子に息をのんだのは龍一だけではない。同じくプールサイドにいた若いブロンドの女子たちも羨望のまなざしを送っていた。
(くそ、ずっと水の底に沈んでればいいのに)
司は隣のビーチチェアに腰掛けると、タオルで軽く体を拭いてからテーブルに置かれていたミネラルウォーターを飲んだ。
「体冷えてないか?」
「まだ全然平気だよ」
思う存分好きなように泳げて楽しいのだろう。いつもよりもだいぶ生き生きとしている。
「あんまりいると日に焼けるぞ」
「日焼け止めは塗ってるよ」
「もうとっくに落ちてるだろ。こっちに来い」
司は龍一のビーチチェアにちょこんと腰掛けると、大人しく背を向けた。龍一はバッグの中から日焼け止めクリームを取り、司のむき出しになった皮膚に丁寧に塗りつけた。
ふと、腰の鱗のタトゥーが入った部分に触れる。そこは未だに火傷の跡が赤く残っていた。
「ちょっとくすぐったいよ」
無意識になぞってしまっていたようだ。司が体をくねらせる。
あれから司は龍一と共にS市内のマンションで暮らしている。司が東京で世話になっていたという相手は化粧品会社の女社長で、龍一はそれを聞いただけで頭に血が上りそうだったが、直接龍一と司が彼女のもとへ話を付けに行くと、彼女はあっさりと司を手放した。司はどうやら龍一が彼女に暴力を振るうのではないかと恐れていたらしいが、龍一だってバカじゃあない、丁重に頭を下げてお願いしたのだ。帰って来てからマンションでキレて暴れたが。
その後は司をただ家政婦代わりに家に置いておくわけにもいかないので、何か仕事をさせようと霧子の手を借りたが、そこでもひと悶着あった。霧子はキャンパス内のカフェでアルバイトを募集しているからそこで働いたらどうかと言ってきた。そこには彼女の知り合いも働いているし、何かあれば霧子も駆けつけられる。店も午後九時には閉店するのでそこまできつくないと。
しかし龍一の答えはノーだった。
「カフェだと? そんなの絶対にダメだ。火傷でもしたらどうするんだ」
霧子は「そんな難しい業務内容じゃないって、相手は学生だし」と食い下がったが、龍一は絶対に許さなかった。
「じゃあ、どういうバイトならいいわけ?」
霧子の問いに、
「夜遅いのはダメだ。あと飲み屋、パチンコ等の水商売もダメ」
「……正気なの? 高校生じゃないのよ」
龍一は頑なだった。そこへ司が、
「居酒屋ならバイトしたことあるよ」と柔らかく言うと、
「居酒屋なんて絶対ダメだっ」と言い放った。
飲み屋なんかで働いたら絶対に司のような男は酔っぱらった怪しい輩に声をかけられる。いや、輩だけじゃない、女もだ。しかも危ないのは客だけじゃない、あんなチャラい店員たちの中に司を放ったら、一体どうなることか。
「くそっ、気が気じゃあないぜ。俺以外の人類全員がライバルだ」
「……それ本気で言ってる?」
霧子が呆れ顔で呟いた。
結局、司は霧子のコネでキャンパス内にある購買部でバイトすることになった。夜も遅くならないし、客はほとんど学生だからその辺は安心できる。
が、後々聞いたところによると、女子たちの間でイケメンのアルバイトがいると噂になってしまい、一時購買部に女子学生が殺到するという現象まで起きたらしい。
龍一としては非常に面白くない。
そして司にはもう一つ仕事があった。それは霧子の空いてる時間にパソコンを習い出したのだ。龍一からの命令に近いお願いをされた霧子は、忙しい授業の合間を見て司にWordとExcelの使い方を教えている。どうやら司に聞くところによると、司も龍一に習うように言われたのだとか。司は何かを覚えることや学ぶことが嬉しいようで、本人も楽しんでいるからとりあえずは霧子も文句を言わずに教育係を受け入れてはいたが。龍一の魂胆はよく理解できる。将来的にあの暴君は司を自分の秘書にでもするつもりなのだろう。
「苦労するわよ、あの男」
パソコンに向かう司にそう言うと、司は嬉しそうに目の下に二本しわを作って笑った。
「ねぇ、龍一も一緒に泳ごうよ」
カルフォルニアの太陽を背に司が龍一の着ているTシャツを引っ張る。
「あ? いいよ俺は」
「ねぇ、あれやりたい」
そう言う司の視線の先には、プールの中で彼女をお姫様抱っこしながらいちゃついている欧米人のカップルがいた。
「あんなん出来るわけねえだろ」
「大丈夫だよ、ここなら誰も気にしないよ」
司は十六年間女だっただけあって、やたら乙女チックな願望を持っていたりする。しかしいくらアメリカだと言っても白昼堂々と男同士でいちゃつく勇気は龍一にはまだ無い。
「んああ……じゃ、夜にな」
しかし司の願いを無下に断れないのもまた事実だった。
司は「もう一回泳いでくる」と言って嬉しそうな顔で再びプールへと姿を消した。テーブルの上にあるココナッツジュースを飲んでいると、反対側のビーチチェアに一人の青年が座った。黒い海パンを履いた大柄な男は、波多悟。司の弟だ。
今回龍一と司がカリフォルニアを訪れたのはもちろんバケーションの意味合いもあったが、一番の目的はこの悟に会いに来ることだった。悟は今カリフォルニアにある弁護士事務所で新人弁護士として働いているらしい。ここには日系三世の彼女と宿泊している。
「兄貴が楽しそうで何よりですよ」
悟は日に焼けた肌に鍛え上げた体、ひげを生やしレイバンのサングラスをかけている姿からは、日本人とは少しイメージが離れているような男だった。
「まあな」
「俺は今まで家族として一緒に暮らすこともできなかった」
悟は、司の言った通り司やその両親とは一緒には暮らしていなかったらしい。二人の母親、薫は元々心の弱い人だったと司は言った。その言葉通り、薫は司と同じようには、息子である悟に母親としての愛情を注いでやる事が出来なかったという。そのせいで悟は中学入学と共に全寮制の他県の学校へと追いやられていたというのだ。しかしその甲斐あってか、勉学の面での才能が花開き、高校時にアメリカへ留学、そのまま飛び級で大学をあっという間に卒業し、今や弁護士の卵だ。
「兄貴が日本でうまくいっていないことは何となくわかってた。本人は絶対に俺には言わなかったけど。こっちで一緒に暮らすことも考えたけど、学生時分には家族を養うには荷が重すぎた。だから、自分の力で給料を稼げるようになったら、いずれ兄貴を迎えに行こうって……そう思ってました」
悟はプールで泳ぐ司をじっと見つめる。
「日本の海は兄貴には冷たすぎる。このカリフォルニアの海の方が、きっと良い」
龍一は不機嫌そうに悟の顔を見た。
「今でも本気で思ってますよ。兄貴がアメリカに来たいって言うなら、俺にはいつだって兄貴を受け入れる用意は出来てる。でも……今のところは幸せそうなんで、このままにさせますけどね」
そう言って悟は微笑んだ。
「司はそうしたいとは言わないさ」
俺がそうさせない。
龍一には強い自信がある。悟もそれを感じてか、ふっと力を抜くように笑った。
そこへ、悟の彼女が英語で彼を呼ぶ声がした。悟は「ハニーが呼んでるんで」と断ってその場を去って行った。
「ハニーねぇ……」
龍一はプールを見つめる。司の姿が見えなくなった。おそらく水中に潜っているのだろう。どちらかというと、彼は泳ぐよりも潜って漂っている方が好きなのだ。
身に着けていたTシャツを脱ぐと、コバルトブルーのプールへと足を進める。今は先ほどよりも人数が減ってほんの数人しか中にはいなかった。龍一は軽くストレッチをすると、そのまま勢いよく頭からプールの中へ飛び込んだ。
水中深くまで浸水し前へ進んでいると、ふと魚のような速さで龍一の上を通過していくものがあった。上体を起こして振り返ると、三メートル先の水中でくるりと回転し、こちらに向かってくる司の姿があった。
相変わらずヒトとは思えない素早さだ。そしてまるで陸の上にいるかというような表情。瞬きだって普通だし、息苦しい様子は微塵もない。こっちは必死で目を開けて息を堪えているというのに。
水中には太陽のまぶしい日差しが差し込んできて、所々反射してきらきらと光って見える。
水の中に浮かぶ司の姿を見て、龍一は一人想っていた。
もう自分には宝泉家の琥珀など必要ないかもしれない。何故ならここには、宝石よりももっと赤橙色に光輝く美しいものがある。
長い年月をかけた愛が花咲くという意味を持ち、持つ者に安らぎを与える神秘の石、琥珀。そして何よりも愛おしい……
俺だけのアンバー。
龍一は水の底で司と腕を取り合うと、その顔を引き寄せてキスを交わした。
水底のアンバー 上念ブン子 @jjbbun_ko
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