第10話
第五章 龍の涙
13
司は美しかった。まるで陶器人形のように透き通っていて、そのまま風に溶けてしまうのではないかと錯覚できるほどに。
アーモンド形の瞳、ピンクベージュ色の薄い唇、艶めく黒髪……その全てが龍一の心を惹き付けていた。
「もう、体の方は平気なのか?」
「うん。先生にはまだ海には入っちゃいけないって言われてるけどね」
「……そうだな」
司は龍一の様子の異変に気付いたのか、首を傾げ、
「どうかしたの?」と尋ねた。
しばし二人は沈黙する。それを破ったのは龍一だった。
「どうして弟がいることを黙ってた?」
司は目を丸くして驚いていた。
「知ってたの? ……聞かれなかったから言わなかっただけだよ。もし聞かれてたら教えてた。中学の時は、訳があって一緒には暮らしてなかったんだ」
「お前には波多悟っていう一つ年下の弟がいる……」
「どうして……もしかして俺のこと調べたの?」
司の表情が一変した。龍一は目を逸らして黙った。そして司も。
「もしかして」
龍一が顔を上げて司を見ると、ひどく傷ついた顔をしていた。
「俺のこと、悟だと思ってるのか?」
その顔は今、泣きそうに歪んだ。
「違う」
司の悲しい顔はこれ以上見たくない。見れば見るほど龍一の心が締め付けられた。
「違うんだ。俺が言いたいのは、お前がたとえどこの誰であっても俺はお前の味方だ。俺の気持ちは変わらない。ただ……俺には本当のことを話してほしい」
司は今にも泣きそうだった。
「屋敷を見て回ってたのは、母さんのことを調べてたのか?」
司は鼻をすすると、体を反転させて龍一に背を向けた。
「そこまで調べてるんだね」
司は振り返らずに話を続ける。
「去年の暮れに、父さんの遺品を整理してたんだ。そしたら一枚の便せんが見つかって、それは母さんの最後の手紙だった。いわゆる遺言ってやつだよ。今までそんなものが存在してるとは知らなかったから、びっくりして中を開けた。それを読んだら、母さんの自殺の真相が書いてあったんだ。母さんにはこの町に何人か仲の良い友人がいたけれど、特に親しかったのは君の母親、邦子さんだった。母さんは自分がオス化してしまったことにひどくショックを受けて混乱していた。そのことをただ一人、親友だった邦子さんに話したんだ。そしたら、邦子さんは手のひらを返したように母さんのことを拒絶して、ひどい言葉を吐いた」
龍一は自分の胸をジャケットの上から握った。
「男になった母さんに、気味が悪い、自分をレイプするつもりなのか? って言い放ったらしい。実際にその場面を誰か他に見ていた人はいないし、母さんの誤解だったのかもしれないけど、それがきっかけで自殺したのは確かだ。それを知って俺はすごく……君を恨んだ。そんなときに、君の噂を耳にしたんだ。君がいとこと婚約したって。俺は自分の心が汚く染まっていくのを自覚した。どうしようもなく君が憎くなって、君の人生をむちゃくちゃにしてやりたくなったんだ。俺はずっと……龍一の事が好きだったから」
龍一の目に、司が頬を拭ったのが見て取れた。
「男になっても、他の誰に抱かれても、ずっと君との約束を覚えてて、いつか叶うと信じてた。でももう、それが叶わないと分かったから、君の人生を壊すために君の前に現れたんだ。宝泉家の跡取り息子が、よりにもよって男に手を出して婚約を台無しにしたって……そういうバカげた計画を持ってね……でも実際に君に会ったら、やっぱりまだ君のことが好きで……本当に好きで……」
また司は頬を拭った。
「元旦の日に母さんのお墓に行ったんだ。そしたらそこには綺麗な花が供えられていて、お線香をあげた跡もあった。いつもずっと母さんが亡くなってから月命日の日に必ず来る人がいることは気付いていたけど、それが誰なのかは分からなかった。けど、君の屋敷を見て回っていたときに気付いたんだ。今までずっと母さんのためにお墓に来てくれていたのは、邦子さんだったって。だからやめた……君も、邦子さんも、そして霧子ちゃんもみんないい人だった。だから復讐をやめたんだ」
司は振り返ってようやく龍一の方を見ると、
「騙すつもりはなかった……本当にごめん」と謝った。
龍一は彼の体を引き寄せると、きつく抱きしめた。
(復讐するには、この男は優しすぎる)
黒いコートはひどく冷え切っていた。その時、電子音が鳴った。司が龍一から体を離し、コートのポケットからスマートフォンを取り出す。
「ごめん、二時までに先生に頼まれてた用事があるんだ」
「あ、あぁ」
司が去って行こうとする。
「司」
呼びかけると、司はいつもの表情で振り返った。
「夕方にまた会いに行く。都先生の所にいるんだろ?」
「うん」
司はそう言って微笑むと、足早にその場を去って行った。
龍一は海の方を見つめた。そして思う。
たとえ彼が司だろうと誰であろうと、自分はそれを受け入れてこの腕で温めてやるのだと。
日が暮れる前に、龍一は都医院を訪ねていた。土曜という事で診療は午前までとなっており、中はとても静かで落ち着いていた。
「今司は出かけてるんだ。良かったらお茶でも飲んでゆっくり待ってて」
都はオフホワイトのセーター姿で、リビングのソファに腰掛ける龍一にコーヒーを淹れた。セーターの襟の所に茶色い染みが付いているのはきっとコーヒーを零した跡だろうと思うと、少しおかしかった。
遠慮なく龍一はコーヒーに口を付ける。
「あ、そうだ」
と何かを思いついて都が席を離れた隙に、どぼどぼとミルクを継ぎ足した。
「明日は司のお母さんの命日なんだよ。知ってたかい?」
「あぁ、まぁ……今月とは聞いてましたけど」
そう言ってほぼクリーム色になったコーヒーを口にする。都は棚の上のファイルの中から一枚のエアメールを手に席に戻って来た。
「君は司の弟君を見たことはあるかい?」
「え?」
龍一は思わず手にしていたカップを落としそうになった。
「とても賢い子でね、ずっとアメリカで勉強をしてるんだ。去年、院を卒業したって話だったかな。明日の命日には間に合わないけど、来週辺り日本に帰ってくるって言ってたよ」
都は楽し気に話しながら、手にした封筒の中から便箋と一枚の写真を取り出した。
「これが司と弟の悟だよ。去年カリフォルニアで会ったときに撮ったものらしい」
そう言って彼が見せたのは、肩を並べて写る二人の兄弟……紛れもなく兄と弟の姿だった。目の下に二本のしわを作っていつもの笑い顔を見せる司と、似ても似つかない隣のひげを生やした眼鏡姿の青年。
「あんまり似てないよね、まあ司が中性的っぽいから余計にだけどさ。どっちかっていうと悟はお父さん似なんだよね、ごついし」
ハハハと笑う都の隣で、龍一は口元を引きつらせて頷くことしか出来なかった。
司は本当のことを言っていた。いつだって、彼は真実を話していたんだ。
「あの、先生……司は、何時になったら戻ってきますか?」
「さぁ、どうだろうねぇ。どこに行ってるのかも僕には分からないし」
「え?」
都が用事を頼んだのではないのか? 龍一の問いに都は、
「僕は司に用事なんて頼んでないよ。病み上がりの人間にそんなことさせられないよ」
と何も知らずにコーヒーを口にしていた。
(俺のせいだ……俺の……)
龍一は震える手でカップをソーサーの上に置くと、
「ちょっと……俺探してきます」
「え?」
すぐさま立ち上がるとダウンジャケットを羽織ってその場から走り去った。
「どうする? どこだ?」
頭がごちゃごちゃする。パニックになりそうだ。
病院の駐輪場に止めてあった鍵のかかっていない自転車にまたがると、猛スピードで山の方へ向かって走っていく。自転車に乗るのなんて一体何年ぶりだろうか。S市内に移り住んでからはほとんど乗っていなかったのだから六年以上は経っているだろう。
明日は母親の命日。
信じてもらえなかった孤独な血を継ぐ一族。
龍一の脳裏に司の笑った顔が思い浮かぶ。凍てつく風にさらされながら、目尻に濡れたものが零れ落ちていくのが分かった。
坂道を上り、時には車にクラクションを鳴らされながら走り続ける。
そして墓地に到着すると、自転車を投げ捨てる様に駐輪場へ放り、司の母親の墓の元へ走った。
「……いない」
息を切らしながら辺りを見渡してみるが、この時期に墓参りに来ている者など誰一人いなかった。
(どこだ……どこに行ったんだ、司……)
「やっぱり……海か?」
自分で言っておきながら愕然とした。
彼が海に入るとしたらそれはもう……
龍一は再び自転車にまたがり、一気に丘の上から坂道を下った。まるであの十五歳の時のように。
魚になりたいと、冷え切った心で呟いた司の声が忘れられない。
どんなに見た目が変わっても、どんなに声が変わっても、性別すら変わっていたとしても、あの黒い瞳は司のものだと分かっていたはずなのに。
(俺のせいだ……俺が司を疑ったから……)
誰よりも信じてあげなければいけなかったのに。他の誰が司を疑っていたとしても、自分だけは傍で寄り添って信じるべきだったのに。
龍一はもはや頬の感覚が無くなりかけていた。針のように刺さる浜風に向かって、必死でペダルを漕いだ。そして砂浜に繋がる土手の上まで来た時に、波打ち際に倒れる人の姿が視界に入った。
(まさか……)
ハンドルを握る手が震える。薄手のシャツにジーンズ姿の人間はピクリともせずに仰向けに横たわったままだ。彼の顔の上に何度も何度も白く泡立つ波が覆い被さっている。
「司!」
土手の上から一直線に自転車で滑降すると、砂浜に差し掛かったところで砂に前輪を取られる。つんのめるように龍一の体は放り投げだされ、空中で前転しながら砂の上に落下した。頭から砂をかぶり、それが体にこびり付くのも構わずに倒れる司の元へ崩れ落ちる様に走り寄る。
「おい司!」
その横たわった冷たい体を抱き起すと、驚いたようにその瞳が開いた。全身がびしょびしょで凍えるほど冷たくなってしまっている。その肌は真っ青で血の気を失くしていた。
「司!」
龍一は自分が濡れるのも気にせずに司を抱きしめると、その冷たい頬を自らの顔に寄せる。すると司は間の抜けたような声で、
「え? なに?」と呟いた。
しかし当の龍一には全く聞こえていない。
「バカやろうっ、死ぬんじゃねえ! こんなに冷たくなって……」
「いや……冷たいのは平気だし……」
「バカっ、お前は人間だ! 死ぬな!」
龍一はぎゅっと司の体を抱きしめたまま、その肩を震わせた。それに気付いた司はそっと龍一の背中に腕を回して強く抱きしめ返した。
「心配かけてごめんね」
龍一は何度か首を横に振ると、
「頼むからもうこれ以上死のうとしないでくれ」と小さな声で懇願した。
「別に死のうとしたわけじゃあないよ。ただ、一人になって心を落ち着けたかっただけだ」
龍一は鼻をすすると、うずめていた顔を上げて司の瞳を見つめた。その瞳は紛れもなくあの瞳、十五の時から知っている司の瞳だった。
「俺の方こそ悪かった。お前のことを疑ったりして」
「いいんだ」
司は龍一の髪に付いた砂を払った。そして額を合わせる……あの頃の、十五の時のように。
「龍一、俺のこと信じてくれるか?」
司の口から放たれた同じ質問に、龍一は涙をこぼしながら笑って見せた。
「信じるよ……当たり前だろ」
そして二人はキスを交わした。銀浜の夕日が海に落ちようとしていた。
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