第9話

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 さすがにそろそろラボに行かないと今後の研究が大変なことになると、龍一は司に「土曜にまた会いに来る」と約束し、S市への自宅へと戻った。司は「来週の母さんの命日まではこっちにいるよ」と優しく微笑み、龍一を送り出した。S市へ向かう電車の中で既にホームシックいや、司シックに陥っていた龍一は、今更彼の連絡先も何も知らないと気が付いた。今度銀浜に戻ったらアドレス交換しようなどと呑気に考えていた。

 そして予想通りラボに戻ると年末年始のしわ寄せとここ数日分のしわ寄せが重なって伸し掛かり、龍一はほぼラボで寝泊まりをせざるを得ない生活に追い込まれていた。そんな一週間があっという間に過ぎると、同じくS市内に戻ってきている霧子から連絡が入る。

 そして龍一は貴重な金曜の午後の数時間を拘置所でつぶす羽目になる。

 S市内にある拘置所を訪れたのはもちろん、栄太郎と面会するためだ。

「栄太郎が俺に会いたがってる?」

「こないだ面会に行った家政婦がそう言ってたって。しかも……」

 霧子は声を潜めて

「司さんに関することで大事な話があるって」

「そんな事言って……わざと俺をおびき寄せる作戦じゃねえの?」

「そうかもね」と肩をすくめた。

 拘置所で面会の準備ができるまでの間、二人は緑色の硬い長椅子に腰掛けてその時を待っていた。

「でもお前も怖かっただろ。まさか栄太郎に命を狙われてたなんて」

 隣の霧子に声をかけると、霧子は何故? と言った顔で龍一の方を見た。

「むしろすっきりしたわよ。私、ずっとあの男は怪しいと思ってたし」

「え?」

 それは驚きだった。龍一の目には仲睦まじいお似合いの二人のように映っていたから。

「お屋敷の中でいつもウロウロして何か金目の物を物色してるみたいだったし、私に対する目つきなんて憎たらしいったらなかったわよ。龍一との婚約の話が出てからは特にね」

「全然気づかなかった……」

「だから私、注意深くあいつのことは観察してたつもりだったんだけど。まさか自分が命まで狙われてたとは思いもよらなかったわ」

 龍一は呆然としながらも、心のどこかではこの頭の切れたいとこを尊敬のまなざしで見つめていた。

「でもお前、そんな素振り全く見せなかったじゃないか」

「女は簡単に顔には出さないものなの。龍一とは違ってね」

「それどういう意味だよ?」

 霧子は天を仰ぐ。

「大好きオーラ出過ぎだもの、どっかの誰かさんは。司さんに会った瞬間に分かったわよ」

「……嘘だろ?」

 その呟きは小さすぎて霧子には届いていなかった。

 そして二人は係員に呼ばれ、面会室へと足を踏み入れた。よくテレビドラマで見るようなアクリル板で仕切られたあれだ。正面に龍一が腰掛け、その隣の椅子に霧子が座った。そして間もなくすると、白いシャツ姿の栄太郎が係員に連れられて現れた。霧子は一瞬怯えたようにハッとしたが、龍一はじっと椅子に腰かける彼を睨みつけていた。

「おつかれちゃん」

 そう言って栄太郎はいつもの笑みを見せた。その顔に、龍一はこの男の狂気を感じた。

「てめえ、人の事呼びつけておいて礼の一つも言えねえのかよ」

 睨みつける龍一を見てもどこ吹く風の表情の栄太郎は、二人の顔を交互に見ると楽しそうに微笑んだ。

「会えて嬉しいよ、霧子、龍一」

 どこか名前を呼ばれることに気持ち悪さを感じて、龍一と霧子は顔を見合わせた。

「あまり時間がないからいきなり本題に行っちゃうよ」

 栄太郎が続ける。

「龍一、あの波多司って男には気を付けた方が良い」

「てめえ、まだそんなこと言ってるのか」

 あのゲームの際に、この男の言ったことに司はイエスの答えでシャンパンに口を付けた。けれどそれは龍一と霧子を守るためで、本当の答えがイエスだったわけではない。

「じゃあ聞くけど、どうして彼には俺が毒を入れたと分かったんだ?」

「それは、屋敷を見て回っているうちにお前がキッチンでメタノールを隠してるところを偶然見かけて……」

「じゃあ何故彼は屋敷の中を見て回ってたんだ?」

 栄太郎の表情はあの時のような冷たいものに豹変した。

「龍一、お前はあの男に骨抜きにされて現実を見失ってる」

「な、どうしてお前が俺と司の事を……」

「どうしてだって? 間の抜けたことを言わすなよ。俺の隣の部屋でパコパコ言わしてたくせに」

 栄太郎はあえて汚い言葉を使って下卑た視線を投げつける。

「まさかお前が……」

 あの夜、司の客室で抱き合っていたときに聞いた物音は……まさかこの男だったのか?

「お熱い二人だったねぇ、そりゃあもう」

 今度はおどけた顔で霧子の方に話を振る。彼女は何も反応を示さなかった。

「だってさ、この俺が部屋の中にいるのに気づいてないんだもの」

 そう言うと、栄太郎はハハハハと引きつった笑い声をあげた。龍一は背筋に冷たいものを感じていた。

「すごい良かったよ。龍ちゃんが彼の上で動くたびに綺麗な背中の筋肉が蠢いてねぇ。さすが空手やってただけあるね。もうどんだけ好きなのっていうくらい彼にちゅっちゅちゅっちゅ吸い付いてさぁ、ホント骨抜き状態だよね。俺しばらくあの光景目に焼き付いちゃって忘れられないよぉ」

「……やめろ」

 龍一は込み上げる怒りを必死で押さえていた。

「龍一、挑発に乗っちゃダメ」

 霧子が龍一の太ももに手を置いた。

「おっと、話が逸れたね。メンゴメンゴ。要するにだ、俺と同じようなことをしていない限り、俺の行動には気が付かないって言ってんのよ」

「な……司が財産狙いだとでも言いたいのか?」

「狙いは財産ではないだろうねぇ」

 龍一は目の前の獣を睨みつける。

「俺も波多司については少し調べたんだ。あの子、母親を自殺で亡くしてるよね」

 自身の爪を弄りながら栄太郎は続けた。

「あの子、屋敷で何を探っていたと思う? 波多司は、宝泉邦子について調べてたんだよ」

 龍一は思わず目を見開いた。

「母さんの?」

「あぁ。それでおばさんについてだけど、ここで二人に打ち明けてない真実がある」

「何なのよ」

 霧子が尋ねた。

「俺は屋敷で暮らす様になってからおばさんの行動に興味を持ってねぇ、例のあれだよ」

「おばさまの、浮気の噂?」

「そうだよ霧ちゃん。俺はこの一年間ずっとおばさんの外出時に尾行をしてたんだ」

 またしても龍一と霧子が顔を見合わせた。

「おばさんは浮気なんてしていない。おばさんが出かけていたのは、お墓だ」

「お墓?」

「……波多薫、波多司の母親の墓参りに行ってたんだよ」

「何だって?」

「おばさんは毎月波多薫の月命日の日に墓参りをしてる。そりゃあ丁寧に掃除までして、何かをぶつぶつ唱えながら手を合わせてたよ」

「唱えながら?」

「あぁ……ごめんなさいってね」

 霧子がショックのあまり龍一の腕を握った。そして龍一は口を開けたまましばらく動くことが出来なかった。

「これで謎が解けた。つまり、十五年経った今でもおばさんは波多薫の墓参りに毎月出向いている。家族でもない赤の他人の墓にだ。そして極めつけの『ごめんなさい』だよ。おそらく波多薫の自殺の原因はおばさんにある。直接殺したかどうかまでは定かじゃあないが、何か原因を作ったのは状況から見て明らかだ。つまりこういうことだよ龍一。あの男は十年経った今でもお前が好きだから近づいてきたわけじゃない。母親の復讐のために近づいてきたんだ」

 まさか……そんなことあり得ない。

 龍一の脳裏に司の顔が思い浮かぶ。あの司に、復讐なんて言葉は似つかわない。何かの間違いだ。この男の方便だ。

「そんなに疑うなら、今月の月命日の日にでも墓に行ってみればいい。必ずおばさんは現れるぞ」

 龍一は何も言い返せなかった。ぐるぐると頭の中が混乱している。

 今までの逢瀬が全て、復讐のための偽りのものだったとは到底考えたくない。

 けれど……どこか冷静に分析している自分もいる。たしかに司は屋敷で意味もなくうろついていたし、何を見ていたかも龍一には伏せていた。栄太郎の行動が怪しいと感じたならば、毒を盛られる前に龍一に打ち明ければよかったものを、それをしなかった。自分が何かを探っていることを知られたくなかったからなのか?

「龍一、俺はお前の事を大事に大事に思ってるからこそ伝えたんだぞ」

「それが殺そうとした相手へのセリフかよ」

 龍一が再度栄太郎を睨みつけた。

「愛してるからだよ」

 ぞわっと全身に鳥肌が立つのを感じた。

「ずっとお前を見てた。宝泉家の財産が欲しかったのも事実だ、けど本当の目的はそれじゃない。お前を俺のものにすれば自動的に宝泉家も俺のものになる。一石二鳥だ。とんだ爺さんの邪魔が入って一時はどうなる事かと思ったよ。マジで霧子を殺さなきゃって思った。けど婚約がなくなったと思えば今度は何だ? いきなり得体の知れない男を拾ってきて人の気も知らずに隣の部屋で動物みたいに盛りまくっちゃってさぁ。いい加減この優しい栄太郎お兄さんも堪忍袋の緒が切れましたよ」

 栄太郎はいつもの笑みを浮かべながら龍一に顔を近づける。

「気を付けろよ……あのバケモノに」

 次の瞬間、龍一は立ち上がりアクリル板を殴りつけた。

「その口を閉じろって言ってるんだよ」

「龍一!」

 龍一は霧子と係員に取り押さえられ、面会室を後にした。最後に見た栄太郎の顔は不気味に笑っていた。きっとその顔を永遠に忘れないだろう。

 面会室を出た待合いで、龍一はキレたように暴れた。長椅子に鞄を投げつけ、何度も蹴りを入れた。

「龍一っ、いい加減にして!」

「くそっ!」

 霧子に宥められながら頭を掻きむしる。

 信じられない……司が嘘をついていたなんて……

「ねえ、その司さんのお母様のお墓に行ってみましょう。そうすれば真実が分かるわ。明日、銀浜に帰る予定なんでしょ?」

「あぁ……」

「私も一緒に行く」

 龍一は心から打ちのめされていた。栄太郎の言ったことは信用すべきじゃないことぐらい分かっていたが、どこかで自分も違和感を感じていた部分が無意識にあったのかもしれない。司に夢中になるあまり、見えていなかった部分が。

 霧子と別れ、再び大学のラボに戻って作業に没頭する。ラップトップを目の前にしていると自然と余計なことが考えられなくなる。研究人間だと言われても仕方がないかもしれないが、今の自分はこの状態が一番心の平静を保てるのだ。

 午後九時を過ぎた辺りだろうか、デスクの上に置いていた龍一のスマートフォンがバイブを鳴らした。

「よう、龍一。今話しても平気か?」

 電話の主は大橋からだった。

「心優しい俺がお前のために一肌脱いでやったよ」

「あ?」

 思わずディスプレイから視線を外し、壁に掛けられた白い丸時計を見た。

「あれだよ、お前が知りたがってた波多司の件」

 龍一は思い出した。年末に半分冗談で大橋に頼んだ話を。

「やっぱり俺の予想は当たってたな」

 電話の向こうの大橋は、龍一の本意など知るはずもなく、どこか競馬の予想が的中したかのような口調で話し続けた。

「母親の波多薫の方の戸籍を調べてみたんだけどな、やっぱり波多司は戸籍上は女、そんでもって一人弟がいる。一歳年の離れた波多悟っていう弟だ」

 大橋は調子よく言葉を続けた。

「これで解決かもな。一歳しか違わなかったら年をサバ読むのも簡単だろうし、顔が似てるのも仕草が似てるのも説明がつく。姉から聞いてお前とのことを知っていたのかもしれないし、そのヘンテコな魚遺伝説もインチキだったってわけだ。何よりも弟がいたってことをお前に隠してたのが証拠だよ」

 龍一はもう言葉が出てこなかった。自分の体が真っ暗な海の底に沈んでしまっているようだ。

「おい龍一? 聞いてるのか?」

 龍一は静かに目を閉じると、その視覚聴覚、感覚の全てを放棄した。


 翌土曜日に、再び龍一は霧子と共に銀浜市へと帰省した。そして屋敷へ荷物を置くと真っ先に墓地へと向かった。寺の住職に波多家の墓を訪ねると、小高い丘の墓地の中でも一番奥の茂みに隠れたエリアに、ひっそりとその墓は立っていた。確かにその墓誌を見てみると、薫の名と、父親と思われる康雄という名前が刻まれていた。

「お屋敷の仏壇にあったものと同じ花だわ」

 霧子が静かに龍一に話す。枯れてはいたが、そこには花差しに目いっぱい入れられた輪菊や小菊、ユリの花が並んでいた。

「偶然じゃないわね、色も種類も同じだし……」

 霧子は黙り込む龍一の様子に気付くと、そっと背中に手を添えた。

「何があったのかは分からないけど、おばさまはきちんと悔いて十五年経った今でもこうして償おうと拝みに来ている。復讐されるような人じゃあないわよ」

 龍一は頷く。

「おばさまに、聞いてみる?」

「聞けるわけないだろ」

 そんなこと本人に聞けるわけがない。十五年父親にだって隠し続けてきた事実が、ましてや自分の息子に知られたと分かったらどれほどショックを受けることか。

 あの時、栄太郎に言われてメタノール入りのシャンパンを飲んだ時。司は震えていた、尋常じゃないほど何かに怯えるように。それは果たして毒を飲み込む恐怖からだったのだろうか。それとも本当に……

 龍一はいつものダウンジャケットを羽織り、銀浜の浜辺に来ていた。そこには黒いコートを着た一人の男が立っていた。穏やかに波打つ青い海を眺めながら、ひっそりと佇む男が。

 砂浜に降り立ち、龍一はその男に近づいた。

「司」

 足を止めて呼びかけると、彼は黒い髪を風になびかせて振り返った。

「龍一」

 静かに微笑んだ白い顔は、まるで知らない人間のものに見えた。



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