第8話
第四章 琥珀色の真相
11
司は水の中で漂っていた。コバルトブルーの深い水の底で。
ここには自分以外何もいない。自由に泳げる。手足を伸ばして何度も回って。まるで魚になった様に好きなように泳げる。
冷たいな……誰もいないな……
くるりと振り返ると、そこには愛おしい人の姿があった。
「龍一……」
龍一はまるで司と同じように水中で自由自在に動いて泳いでいる。彼がそんなこと出来るはずもないのに。
これは夢なのだろうか? それとも幻?
龍一の方へ腕を伸ばすと、彼が笑いながら司の手を強く握りしめた。そして手を取り合って、水の中を自由に泳ぐ。
あったかいなぁ……
龍一の手の体温が、伝わってくる……
栄太郎はあの後、気を失ったままの状態で警察に突き出された。その後の彼の自供によると、龍一と霧子のシャンパンの中にメタノールを混入させていたらしい。確実に二人を殺すつもりだったのだ。司はすぐに救急車で急患センターへ運ばれたが、飲み込んだ量が微量だったことと、摂取後に家政婦らが胃を洗浄したことが功を奏し、命に別状はなくその後都先生の病院へと戻って来た。
処置室の白いベッドの上で点滴をされながら横になる司の手を握りしめ、龍一は一晩中ベッドの傍から離れなかった。司の血の気が引いた真っ青な顔と冷え切った手。まるで冷たい海の中に入った後の様だ。
深夜の処置室に聞こえるのはブクブクという水槽の音。ブルーに光る水槽の中には、自由に泳ぐキンギョハナダイがいた。その赤橙色の鮮やかなヒレをなびかせながら、まるで水の中で踊っているようだ。
暗い部屋に、静かな足音を立てて都が現れる。手にしていたブランケットを龍一の背中にかけると、その穏やかな声で話し出した。
「あと一週間ぐらいは様子を見た方がいい。体を動かすことは出来るけれど、メタノール中毒は目の神経がやられる病気だからね」
龍一は何も答えなかった。ただ目を擦った。
「孤独な一族だ」
ぽつりと呟くように都が龍一の背中に語り掛ける。
「僕の家も代々医者でね、ずっとこの町で波多一族を診てきた。ひっそりと、誰にも知られないように生きる彼らをね。誰にも信じてもらえず、孤独で悲しい宿命を背負った一族だ……だから、この世界で僕だけでも彼らの存在を認めて、信じてあげたいと思っている」
龍一は黙り込んだまま、両手で握った司の左手を自分の頬にあてた。
「君まで体を壊さないようにしてくれ」
ただそれだけ伝えて、都は去って行った。
その翌日、司は目を覚ました。
「司……起きたのか?」
龍一が白い頬を撫でると、あの目の下に二本のしわを作る笑顔が見えた。司の白い指が龍一の目の下をそっとなぞると、
「泣いてたの?」と小さな声で尋ねた。
「バカやろう……俺が泣くわけねえだろ」
そう言って龍一はまた目を潤ませた。
半日ほど中毒症状の影響で司はぼんやりとしていたが、しだいにぽつぽつと事件の経緯を話し出した。
「屋敷の中を見て回っていたときに、彼の行動がどこかおかしかったんだ。何かを探し回ってるみたいな……それで偶然キッチンで彼が何かを隠した所を見た。彼がいなくなった後にそれを見てみたら……」
「メタノールか?」
「そう。それを見てもしかしたら、彼は誰かに毒を盛るつもりなんじゃないかって思った。誰かは考えてみればすぐに見当はつく……君か霧子ちゃんだ」
栄太郎の自供では、彼は宝泉家の財産を狙って犯行を行ったとされている。家族を亡くし、身寄りを失くした栄太郎は心の中でずっと裕福な暮らしをする龍一や霧子を憎んでいたと。
「君が死ねば彼は霧子ちゃんをものにして財産を横取りするつもりだったんだろう。彼はいつも龍一たちに紅茶を淹れてきてくれてた。だけど紅茶では同じティーポッドから注ぐから毒は入れられない。だからきっと、最初からグラスに分けられている飲み物が出てきた時に毒を入れてくると思った。そしてそれが……起こった」
龍一は胸に込み上げてくる何かを堪える様に、握ったままの司の手を自分の頬にあてた。
「毒は龍一か霧子ちゃんのグラスに入っていると思ったけど、どっちか分からなかった。両方に入れてるとまでは頭が回らなかったんだ」
「でもお前は、俺のグラスを交換しただろ?」
司は栄太郎がトレイごと差し出したグラスを、龍一のものと二つ合わせて取り、司側にあったグラスを龍一の前へ、そして龍一側にあったグラスを司の前に置いたのだ。
「彼は霧子ちゃんのグラスを自ら手渡ししてた。それを見て、霧子ちゃんの方には毒は入ってないと思ったんだ。もしそれが毒入りで霧子ちゃんが飲んでしまったら、シャンパンを注いで且つ直接渡した彼自身が真っ先に犯人だって疑われるからね」
「なるほどな。俺にはトレイごと差し出したから、最終的にどのグラスを選ぶのかは本人にしか分からない。だから自殺だと思わせることも出来る。でも普通に考えれば右側に座っていた俺が受け取るのは右側に置かれたグラスだ……奴はそれを利用したのか」
思い返せば思い返すほど腸が煮えくり返る。そんなに俺を殺したいなら、直接殺しに来ればいいものを。こんな卑怯な真似しやがって。
「でもな、だからってお前が飲む必要はないだろ」
どれだけ心配したと思ってるんだ。俺の心臓が止まるかと思った。
司は優しく微笑むと、
「男なら、好きな人の前で良いところ見せたくなるの、分かるだろ」と言った。
また鼻が熱くなる。視界がぼやけだす前に、
「バカやろう、十年も男やってねえくせに何言ってんだよ」と無理矢理笑って見せた。
龍一はベッドの掛け布団をめくると、強引に中に押し入って来た。
「ちょ、ちょっと……」
戸惑う司に、
「うるせえ、大人しくしてろ」とよく分からない暴言を吐いて、ぎゅっとその体にしがみついた。
「先生が来たらどうするの?」
「点滴が終わるまでは来ねえよ」
まるで充電するように司からのエネルギーを吸収する。
「でも、点滴が邪魔だろ」
司は龍一が点滴に引っかからないように腕を上げている状態だった。
「分かったよ、これならいいだろ」
龍一はもぞもぞと動くと、反対側に移動して後ろから司の体を抱きしめた。司もこれなら文句を言わずに大人しくしている。
「龍一の体はあったかいね」
「俺は体温が高めだからな」
それに司の体温が低いせいもある。
「暑いか?」
「ううん……あったかい」
このまま時間が止まればいいのにと思った。この温かいシーツの海の中でずっと二人で漂っていたい。何もうるさいものがいない世界で。
「龍一、海に行きたい」
「は?」
いきなり何を言い出すのかと司の顔を覗き込む。
「ダメに決まってるだろ」
「中には入らないよ、近くで見るだけ」
「ダメだ」
「おねがい」
龍一は小さな声で唸ると、
「先生がオッケー出せばな」と了承した。そしてぎゅっと司の体を強く抱いた。
翌日の成人の日に、点滴を終えた司を連れて浜辺に足を運んだ。冷えないように完全防備させて、更に厚手のブランケットも持参した。司は冷たいのは平気だと言い張ったが、そんなことは聞き入れないことにした。
砂浜に並んで腰かけて、白く泡立つ波打ち際を見つめる。二人の背中には一枚の大きなブランケット。ぴったりと司の体に自分の体を寄せて熱が逃げないようにする。正直、龍一には凍てつく浜風が地獄の針のように感じられたが、隣の男は気持ちよさげに微笑んでいるので耐えることにした。
「龍一」
しばらくして、司が海の方を見たまま口を開いた。
「父さんはね、逃げなかったんだと思うよ」
龍一が何も言わずにいると、
「先生は何か言ってなかった?」と問いかけてきた。
「……別に。何で?」
司はまたしばらく口を閉ざした。そして波の音だけが聞こえる。
「俺、前もメタノールを飲んだことがあるんだ」
その発言にぎょっとして、龍一は思わず司の顔を覗き込んだ。
「自分でじゃないよ。母さんに盛られたことがある」
龍一は目を見開いた。
「子供の頃だけど、ほんの少しだけ。だから後遺症も残らなかった」
「どうして……」
「母さんは、元々心の弱い人だったんだ。オス化してから自殺したって言ったけど、実はもっと前にも何度か未遂はあった。それで俺の家にはメタノールが置いてあったんだ。だから俺は君の家のキッチンで見たそれをすぐにメタノールだと判断できた。それに……母さんはバスタブで手首を切る前に致死量のメタノールを飲んでいた。確実に死ねるように」
司は続けた。
「母さんの遺灰は半分はお墓に、残りの半分はこの海に散骨したんだ。海に帰れるようにって」
龍一は黙って司の白い横顔を見つめる。
「だからきっと、父さんは津波が来ても逃げなかった。母さんがいるこの海へ帰ろうとしたんだよ」
海を見つめながら、目の淵を赤く染める彼の体を引き寄せて抱きしめた。風にさらされてその背中は冷え切っていた。
「水の中に入ってるとね、心が落ち着くんだ。俺もいつか……魚になれるかなぁ、なんて……」
龍一は白い首に腕を回してより一層彼の体をきつく抱いた。
「もう絶対に勝手に死のうとするなよ。絶対に、絶対に絶対に絶対にだ」
司の首元に顔をうずめながら言い聞かせるように何度も繰り返す。
「龍一、泣いてるの?」
司が龍一の髪に手を通す。ただ龍一は首を横に振るだけだ。うずめたまま、龍一は強く心に刻み込んだ。
(司……俺はお前の心も、体もあっためる存在になりたい……この冷え切った人間に、温もりを分け与えることの出来る男に……)
司の背中に腕を回し、「冷たいな」と呟いた。
「……冷たいのは平気だって言っただろ?」
龍一は顔を上げて司の冷たい頬に手を添える。
「体は平気でも、心はそうじゃない」
司は龍一が何を言いたいのか分かっているのかもしれない。そっと龍一の目の淵をなぞって、
「やっぱり泣いてるじゃん」と笑った。
龍一は二人の額を合わせて、深呼吸するように息を整えた。そしてピンクベージュ色の唇に指を添えると、静かに唇を重ねた。
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