第6話

   第三章 ポイズン・イン・カルテット


   8


 嵐のような一夜が過ぎ、未だ茫然とダイニングルームの椅子に腰かけながら遠くの方にいる司の姿を見つめる。彼は今一番古株の家政婦とキッチンの棚にある紅茶の茶葉について楽し気に話し込んでいる様だ。龍一はテーブルの上のコップに入った水を手に取ると、頭痛薬と共にごくりと飲み込んだ。昨夜のデンキブランのせいだ。そして体中が非常に重い。これは紛れもなく昨夜の……情事のせいだ。

 司は何ともないのだろうか。意外と見かけによらずタフな男だ。冬の海に真っ裸で入るような人間だからな。

 昼近い時間にベッドから抜けると、司は龍一に屋敷の中を見たいと言い出した。たしか十五の時にも司は同様の事を言ったように思う。この田舎町の山の中に立つ洋館はさぞ珍しいものだという事は理解している。龍一自ら案内しても良かったのだが、頭痛と疲労を言い訳にして家政婦にその役を押し付けた。けれど、若い美青年の登場とあって、屋敷内の家政婦たちは嫌がるどころかみんな喜んで司の相手を引き受けている。

「ちょっと龍ちゃん、何であの美青年がうちにいるのよ?」

 栄太郎が鳥の巣のような頭を掻きながら姿を現す。

「別に」

 ただ一言で答える。

「訳あり?」

「ちげえよ。ただ昨日遅くに来たから泊まっていっただけ。っていうかお前には関係ないだろ」

 いろいろとこの男に探られるのは面倒くさい。龍一が司と、男と寝たことを知ったらどうなるやら。

「あの話はどうなったの? 半魚人説は」

 小声で栄太郎が耳打ちしてくる。それをうっとおしく避けて、

「んなこと知らねえよ」とあしらった。

 やっぱり面倒なことになりそうだ。栄太郎にあの夜司を会わせたのは失敗だったと悔いる。

「興味あったんだけどなあ、魚の血を継ぐ一族ってね」

「失せろ」

 イライラする。どうしてこうも司が傍にいると落ち着かないのだろう。

 家政婦らが家族の昼食の準備に取り掛かりだした頃、司は帰ると龍一に伝えた。黒いコートを羽織って玄関で別れを告げる司に問いかける。

「お前、東京に住んでるって言ってたよな。銀浜に帰って来てるときはどこに泊まってるんだ? お前の家はもうないだろ」

「あぁ……」

 少し間を取ってから司は答える。

「知り合いの所に世話になってる」

「知り合い?」

 この町に司の知り合いなど自分以外にいるのだろうか。

「どんな知り合いだ?」

「え?」

 司は怪訝そうに眉をひそめた。

「そんなの、龍一には関係ないだろ」

 そう言って去ろうとする司の腕を掴み引き止める。

「関係なくないだろ」

「たった一回関係を持っただけで恋人にでもなったつもりか?」

「そうじゃない。でもお前がお前の言う通り俺の知ってる波多司なら、俺は宝泉龍一としてお前を放っておくわけにはいかないんだ」

 司は大人しくなると、

「知り合いの先生のところに泊まらせてもらってる」

 と小さく答えた。

「先生?」

「うちの家系が代々お世話になってるドクターだよ。都先生って……浜の近くにある町医者の」

 たしかに司の言う通り、『都医院』といういわゆる町のホームドクターのようなこじんまりとした病院があったことは認識している。そこの医師が司のホームドクターだったとは。ということは司の言う雌性先熟雌雄同体についても理解しているということだろうか。

「納得したなら、手を放してくれないか?」

「俺も行く」

「え?」

 またも司は眉をひそめて不満げな顔をする。

 もしかしてではあるが、龍一には嫌な予感がした。昨日の話では司はこれまで自らの体一つであらゆる男女の所に世話になっていたと話していた。これははっきりとした事実ではないが、おそらくヒモの様なものだろう。

 だとしたら、その医師とやらも怪しい匂いがする。別にこれは肉体関係を持ったから急に特別な何かが生まれたわけではない。十五の時の龍一の感情として、司がそのような奉仕をしていることが許せないのだ。

「手を放し……」

「俺も行く」

 司は諦めたように頷くと、困ったようにつむじの髪の毛をつまんだ。


 都医院へ到着すると、龍一は司に連れられて病院の裏口から建物の中に入った。大分古びてはいるが病院と言うだけあって中は清潔に保たれていた。内科が専門らしいが町医者と呼ばれるだけあって、外傷だろうが子供だろうが年寄りだろうが何でも診ているのが現状らしい。

 暗い階段を上がって二階に行くと、そこは住居スペースになっているらしく、擦りガラスの引き戸を開けるとキッチンになっていた。こじんまりとした部屋の中に木製のテーブルと椅子が四つ置かれている。コンロの上のケトルからは白い湯気が蒸発していた。

「先生」

 その奥の引き戸を開けると、どうやら中には司が先生と慕う都医師がいるらしい。

「今戻りました。それと、昨日お世話になった宝泉君です」

 龍一が司の横に並ぶと、中のリビングルームのマッサージチェアにくつろいでいた男性が、慌てたように立ち上がった。読んでいた雑誌を机の上に置く。それは医療系の文献が載せられた冊子だった。

「やあ、初めまして。都晋作です。司がお世話になってるみたいですまないね」

 その男は四十代後半で柔和な笑顔が特徴的だった。クリーム色のニットの中にチェック柄の襟付きシャツを身に着けており、私服でありながらどこか清潔な印象はさすが医師といった出で立ちだ。

「どうも」とぶっきらぼうに頭を下げた龍一に対して、

「あの宝泉一族の御子息だよね。たしか司とは中学の同級生だとか」

「まぁ……」

 この都と言う男は普通の状態でも顔に笑みを浮かべているタイプのようだ。一見、優しいようにも見えるが、裏を返すと何を考えているのか分からない不気味さを潜めている。

「せっかくだからお茶でも飲んでゆっくりしていってくれ。司の話し相手にもなるだろうし」

「先生、別に俺は……」

 すぐさま横にいた司が不満げな声を上げる。

「僕じゃあ年寄り臭くて会話が噛み合わなくてね。それに明日から診療も始まるし色々と準備することがあるんだ」

 都は司の顔と龍一の方を交互に見ながら、それは穏やかな口調で話した。どことなく細身な印象にこの雰囲気では若い時はそれなりにモテていたのだろう。年はいっているがこの男が司の事を手の中に抱いていたとしても違和感はない。そんな龍一の濁った眼を読んでいるかのように、彼は自信に満ちた瞳で龍一を見つめた。

「司を引き取りに来ました」

 龍一がそう告げると、司は驚いたように龍一の顔を振り返る。けれど目の前にいる都は未だ微笑みを崩さなかった。

「ちょっと龍一、何勝手な事言ってるんだよ」

「僕は別に構わないよ」

 男性としてはやや高めの声で都はそう言った。

「先生」

「どこにいたいかは司が決めることだ。司、どうしたい?」

 司はしばし考え込むと、ぽつりと

「龍一の所に行く」と答えた。

 都はそれを聞いてより笑みを強くすると、「じゃあ、早く荷物をまとめないとな」と司の肩を叩いた。

 リビングルームの隣にある司が借りていた部屋の中は、まるで小学生の男の子が使うような子供部屋で、勉強机には黒いランドセルまでかけられてある。

「もう、先生に失礼じゃないか。いきなりあんな言い方して。俺が頼み込んでここに泊まらせてもらってたのに、まるで先生が無理矢理俺を引き止めてたみたいだ」

 不機嫌そうに司はクローゼットの中から自分の衣服を大きなボストンバッグに詰め込んだ。

「悪かったよ」

 龍一はベッドに腰掛けながらぼんやりと三段ボックスの上に置かれてある加湿器から放出される水蒸気を眺めていた。三段ボックスには学校で使う教科書類がぎっしり敷き詰められている。

「もしかしてだけど、先生の事何か疑ってるんじゃないだろうな?」

 龍一は図星だと言わんばかりに返事をしなかった。

「信じられない。先生にはちゃんと奥さんも息子さんだっているのに。今は別々に暮らしてるみたいだけど。この部屋だって先生の息子さんの部屋だよ、見てわかるだろ」

 司は淡々と不満を続けた。

「たしかに昨日俺が喋った内容があれだから誤解するのもしょうがないけど、でも俺だって誰とでも寝るわけじゃない」

「じゃあ、何で俺と寝たんだ?」

 龍一の問いかけに、司の動きが止まった。立ち上がって彼に近づくと、恥ずかしそうに龍一から視線を逸らした。

「司」

 呼びかけても彼は目を合わさない。龍一はその白い首に手を添えると、司の顔をこちらに向かせて唇を合わせた。中に舌を侵入させて激しく絡み合わせると、司から吐息が漏れる。そのニットの上から腰を引き寄せ自分の下半身と密着させる。突き上げる様に動かすと、司が龍一の腕を掴んで抵抗した。

「待っ……ダメだよ」

「何が」

「先生のうちだぞっ」

「だから?」

 尚も強引にキスを続けると、司が目いっぱい龍一の体を引き剥がした。思わずよろけた龍一は、ムッとしたように司を睨みつける。そしてこちらを見ている司に近寄ると、その肩を小突いた。

「何するんだよっ」

 怒ったように司も龍一にやり返す。そしてまた龍一がやり返す。二人は互いの肩を掴んで取っ組み合うと、ぐるぐると部屋の中を回りながら子供の様に相手の体を倒そうとムキになっていた。

「何するんだよっ」

「お前こそっ」

 はたから見たら大の大人が何をやっているんだという状況だったが、二人にはそんなこと関係なかった。

「うわっ」

 すると、司が自分の脚に躓いて態勢を崩した。龍一が危ないと思った瞬間、勢いよく司の体は三段ボックスにぶつかって倒れた。

「危ないっ」

 バランスを崩したボックスの上から顔の大きさ程の加湿器が司めがけて落下した。とっさに司は体を丸めたが、彼の脇腹の上にそれはぶつかり、不運な事に中の熱湯が司の体にかかった。

「司!」

 龍一が駆け寄ると、司は脇腹を押さえて苦しそうにしていた。すぐにニットをめくると、ちょうど鱗のタトゥーが入っている部分が火傷した様に赤く染まっていた。

「どうした?」

 物音を聞いて駆け付けた都は、すぐに状況を飲み込むと真剣な顔つきになって司の皮膚を見た。

「早く服を脱がせて」

 そう龍一に伝え、都は走って部屋の外に出ていく。龍一は司の着ていたニットとTシャツを脱がせる。鱗の部分だけが赤くなっているその様は、まるで本当の熱帯魚の一部のように錯覚させた。けれど、少し不可解な点がある。龍一は床に落ちた加湿器のお湯にほんの少しだけ触れてみるが、果たしてここまで火傷する熱さだろうか? たしかに直撃してからわずかに時間は経っているが、すぐに濡れた部分を拭ったし通常なら冷やしておけば自然に治りそうなものだ。

 部屋に戻って来た都は氷を包んだ薄いタオルを火傷した部分にあて、龍一に持つように指示する。

「先生、大丈夫ですから」

 司がか細い声でそう言うと、都は

「一応軟膏を付けておこう。残念だけど痕が残るかもしれない」と言った。

 きょとんとする龍一に、都は真面目な顔で説明した。

「司の皮膚は普通のヒトよりも高温の熱に弱いんだ。流水で冷やせば問題ない程度の火傷も、彼の場合は真皮まで達してしまう場合もある。遺伝的な特異体質だ」

 それはいわゆる魚の血を受け継ぐ話と繋がっているものなのだろうか。奇妙な話に、龍一は戸惑うことしかできなかった。

(まさか本当に魚なのか……?)

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