第4話
5
屋敷から徒歩で約十分程度の場所にある定食屋で、龍一はお茶を飲みながら昨夜のことを思い出していた。
真冬の海で全裸で漂う青年……自らを司だと名乗った青年。
「おい、龍一」
そう言って慌てた様子で店に入ってきたのは大橋だ。羽織っていた黒いコートを脱ぎながら龍一の前の椅子に腰かけると、
「お前大丈夫だったのか?」と心配そうに顔を覗き込んだ。
「あぁ、昨日はすまなかったな。今日は俺のおごりだ、何でも好きなもの頼めよ」
そして二人は酢豚定食を口にしながら、あの男、司のことについて話した。
「あいつが波多司だって?」
大橋は白飯を口に詰め込みながら顔をしかめる。
「あいつが屋敷でそう言ったんだ。それに顔もしゃべり方もそっくりだったし、俺らしか知らないエピソードまで知ってやがった」
「そう言われれば似てたような気もするけど……俺が見た時は暗かったし、それに正直中学の時もほとんど接点なかったからな。元の記憶が曖昧だわ」
「似てるんだよ、本人だって言われても違和感ないぐらいに」
「でも男なんだろ?」
龍一は黙って首を縦に頷く。
「十六の時に女から男に変わったんだって」
龍一の言葉に大橋はブッと口の中のものを吐き出しかけた。
「いきなり変な事言うなよ」
大橋が咽てお茶を飲み込んだ。
「キンギョハナダイとか何とかっていう魚の血を引いてるんだとよ」
真顔で言う龍一に、大橋はしばし無言になる。そしていきなり爆発した様に笑いだした。
「バカ、笑ってんじゃねえよ」
「いや笑うだろ絶対」
腹を抱えて笑う大橋にムッと龍一は眉間にしわを寄せる。龍一はいたって真剣だった。
「それじゃ何か、人魚とか半魚人とかの親戚ってことか? どんなおとぎ話だよ」
「そりゃ言葉だけで聞いたらそうかもしれないけど、あの男を目の前にして言われたらなんかちょっとそんな様な気もして……」
「お前まさか、信じてるのか? そんなホラ話」
「信じてるわけじゃないけど……」
龍一の脳内に、昨夜の青年の姿が思い浮かぶ。酒のせいか、パニックに陥っていたせいかは分からないが、龍一はあの男の事をどこかで、今まで見た中で最も美しい生き物だと思っていた。
「それはあれだ、お前に寄って来た変わり種の虫だよ」
「虫?」
虫じゃない、魚だと頭の隅の方でどうでもいい突っ込みを入れる。
「宝泉家の財産に寄ってくる質の悪い連中の一人だろう。変わった手段を使ってお前の興味を引こうとしてるんだよ」
確かに今までも宝泉の名声目当てで近づいてきた人間はいくらでもいた。けれど、昨日のあの男は、そんな感じではなかった。
「でも顔が似てるんだぞ?」
「たまたま似てる奴を探してきたんだろ。それで波多司になりきってお前を落とそうって魂胆だ」
「でも癖まで似せられるものか? 無意識で出てくる仕草や笑った時の顔のしわとかまでおんなじなんだ」
大橋は冷静な目つきでお茶を飲み込む。その顔を見て、龍一は少し前のめりだった自身の姿勢を正した。
「可能性として考えられるのは、兄弟だな」
大橋の言葉に龍一は首を横に振る。
「司に兄弟はいなかった。両親と三人暮らしだって言ってた」
そしてその両親も今はもうこの世にはいない。昨夜はそれ以前の問題でそこには触れられなかったが、もしこのことが事実だとしたら……もし彼が司なのだとしたら、自分は司を支えてやりたい。
「そうだ、お前市役所に勤めてたよな。司の戸籍を調べられないか?」
龍一の提案に大橋はぎょっと目を丸くした。
「戸籍を見れば性別が分かるし、本当に兄弟がいたかどうかもわかる」
「勘弁してくれよ、今はそういうの厳しくなってて職員でも勝手に無関係なデータにアクセスしたことがばれたら処分されるんだ」
「何だよ使えねえなあ」
龍一の暴言に大橋は肩をすくめる。
「でもさ、こう考えることは出来ないか? 司はもともと男だったって」
今度は龍一の方がぎょっと目を丸くした。
「子供の頃なんて成長が遅い奴だったら女だって言ってても通用するだろ」
「そんなまさか。だって女子の制服着てただろうが」
「司のそういうセクシャリティを配慮して学校側が女として扱ってたのかも」
「こんな田舎町であのひげちゃびんはげちゃびん共がそんな配慮するかよ? 今から十年前だぞ」
アッと龍一は何かを思い出したように話を続けた。
「それに水着だって女物を着てたし、胸だって少し膨らんで……」
そこまで言って龍一は恥ずかしくなって口を閉じた。
「いやらしいねぇ、龍一少年は」
「うるせえよ、思春期なんてそんなもんだろ」
龍一は顔を赤くして誤魔化す様にお茶を飲む。
「でもうちの学校の女子の水着ってショートパンツだったよな。あれなら男でもばれなくないか? それに胸なんて詰めればどうとでも誤魔化せる」
しかし龍一には確信があった。十五歳の司は完全に女だったと。何か考える様に黙り込むその姿を見て、
「もしかしてお前、司とやったことあるのか?」と大橋が尋ねた。
思わず肩をびくっとさせて龍一は固まる。
「なるほどねぇ、中学三年生の分際で進んでたんだねぇ龍一少年は」
「ちげえよ、やってない!」
せせら笑うような大橋の顔にムッと顔をしかめる。
「じゃあ何でそんなにかたくなに女だったって言えるんだよ?」
「ちょっと……触ったことがある」
恥ずかしそうに目を逸らして呟く。
「Bまで」
大橋は目を細めて龍一の赤い顔を見た。
「Bまでじゃあ確信を持つまで行かないだろ。白状しろ、やったんだな?」
「やってないって!」
店に響き渡る様な大声を出して、当の本人が驚いてキョロキョロと周りを見回した。すると、店員のおばちゃんが二人のテーブルにきて、湯飲み茶わんにほうじ茶をたっぷりと注いで「ごゆっくり」と去って行った。
やってない……そう、やってはいないんだ。
龍一はあの日、卒業式の前日のことが頭によぎる。
ベッドでキスをして、そしてそれから……
「じゃあ見たのか? 司の裸を」
「だから見てないって」
慌ててお茶を飲み込んだら、その熱さにびっくりして思わず椅子から飛び上がった。
6
龍一は屋敷へ戻ると、自分の部屋のラップトップを開く。空いた時間に少しでも研究作業を続けようと持って帰って来たものだが、昨夜の出来事以来全く仕事が手につかなくなっていた。
「キンギョハナダイ……だっけか?」
検索サイトで調べてみると、たしかに司の言った通り雌性先熟雌雄同体といった文言が記載してある。そこには美しいヒレを持つ赤橙色の熱帯魚の写真があった。けれどどこを探しても人間でその血を受け継ぐ家系があるとの文献や論文は一切見当たらないし、伝承噂話の類ですら皆無だ。理系人間の龍一には、司の言った言葉を鵜呑みに信じることは困難だった。
階下へ降りリビングに入ると、中ではテーブルを囲んで霧子と栄太郎、そして帰ってきたばかりの誠二が談笑していた。
「龍ちゃんも混ざれよ。今ゲームやってたんだ」
「あ? ゲーム?」
栄太郎の隣に腰掛けると、霧子が龍一のために空いたカップに紅茶を注ぐ。その香りはアールグレイだ。
「兄貴はミルクたっぷりだろ。おこちゃま舌だからな」
誠二は茶化したように鼻で笑う。久しぶりに顔を合わせるがまた一段とチャラくなっているようだ。キャンパスライフを満喫しているのはいいことだが、来年からの事を考えると兄としては少し心配だ。
「また髪染めてるのか?」
「いいだろ、俺には就活もないし。どうせあと三ヶ月で地獄のサラリーマン生活だよ。兄貴はいいよな、いつまでも気楽な学生気分でさ」
誠二は長い脚を組みなおして、手に持っていたカップの紅茶を啜った。
「ところでこれだけか? 母さんは?」
いつもたいていは誠二や霧子の傍にいるはずの母の姿が見えない。
「何かまた一人でどこかに出かけてるみたいよ」
こそっと霧子が小声で話す。龍一は彼女が入れたミルクたっぷりのアールグレイを飲みこんだ。
「大晦日だっていうのに荒れるね」
栄太郎が霧子の作ったスイートポテトを口に含むと、
「ん、うまいね霧ちゃん」と微笑んだ。
「ありがと」
「父さんはそれ知ってるの?」
「何だよ、また母さんの浮気の話しか?」
呆れた口調で誠二は続けた。
「いい加減に噂話はほどほどにしろよ。ゴシップ好きのおばちゃんじゃあるまいし。あの母さんが浮気なんか出来るわけないだろ」
誠二の言葉に、互いの三人は顔を見合わせた。
「それよりさ、ゲームの続きやろうよ。ブックゲームやってたんだ」
誠二がテーブルの上の一冊の本を手に取った。そこには『ニューヨーカーの作り方』と書かれてある。
「お前こんな本読んでるの?」
誠二から本を奪い、パラパラと中をめくる。
「悪いけどそれ私の本よ」
思わず龍一は舌を出した。
「霧ちゃんアメリカなんかに行っちゃあ嫌だよ。俺寂しいもん、もうこんな美味しいスイートポテトが食べられなくなるなんてさ」
「ありがと、栄太郎」
「ちょっと兄貴のフィアンセといちゃつくのやめてくれない?」
誠二のセリフにまたしても龍一は天を仰ぐ。
「だからぁ」
「分かってるって、冗談だよ冗談」
ブックゲームとは分かりやすく例えれば占いゲームのようなものだ。
「じゃあ栄太郎の順番よ。何が知りたい?」
「そうだなぁ、いつ俺が運命の相手と出逢えるか……あ、やっぱりいつ運命の相手と結ばれるかにしよう」
「気持ちわりっ」
誠二が呟く。
「じゃあ龍一」
霧子に促され、本を持つ龍一はゲームの決まり文句を口にした。
「前から? 後ろから?」
「何回聞いてもこのセリフってエロいよね」
栄太郎の冗談に「バカっ」と霧子の冷たい声が飛ぶ。
「じゃあ俺は後ろから」
何故か意味深な視線を霧子に送りながら栄太郎は答えた。
「はいはい」
呆れた顔で龍一がペラペラと後ろのページからめくっていく。
「ストップ!」
栄太郎がストップと言ったところで手を止め、更に「右から? 左から?」と尋ねる。
「俺は右だね。何故なら右の乳首にホクロがあるから」
「ほんとバカじゃないの」
霧子が顔をしかめた。
「特に知りたくない情報だったな」
誠二が鼻で笑った。
「じゃあ一から三十までの数字選んで」
「そしたら栄太郎の十六で」
「今のどこに栄太郎がかかってたの?」
「さあな」
霧子と誠二がこそこそと話す。
そこで龍一が読むべき部分は決定だ。開いた右ページの十六行目が栄太郎の人生相談の答えになるというわけだ。
「『この男がこれ以上声をかけてこないようにするには、自分が黙るしかない』」
そしてその答えをわあわあ皆で討論するのがこのゲームの醍醐味である。
顔を見合わせた四人はしばし黙り込むと、栄太郎以外の三人が一斉に笑い出した。
「黙ってろってことだよ、栄太郎」
「黙ってればモテるんじゃねえの?」
「いつも調子の良い事ばっかり言ってるからよ」
「ちょっと待ってよそういう展開?」
栄太郎が異議を唱える。
「よく考えてみてよ。この文章からすると誰かに誘われてるってことでしょ? つまり向こうの方から俺に寄ってくるってことだよ」
「違うわよ、きっと栄太郎と運命の相手を邪魔する第三者が現れるって意味よ」
「なにそれ、誰?」
思わず心の中で俺かも、なんて龍一は考えてしまった。
「もしかしたら相手は女じゃなくて男だったりとか」
誠二が意味深な笑みを浮かべた。
「ちょっとちょっと誠ちゃん」
「確かに、だってこれ男が声かけて来てるんだもんね。栄太郎の視点で読むとそういう意味合いになるわ」
「霧ちゃんまで何言っちゃってんのよ」
そんな三人をはた目に、
「ていうかなんて本読んでるんだよ、霧子」と龍一は本をぱらぱらとめくった。
「いいの、こういう本の方が盛り上がるのよ」
「そうだ、兄貴俺お土産持ってきたんだよ」
突然誠二は立ち上がると、奥のテーブルに置いてあった酒瓶を手に戻って来た。
「これ知ってる?」
四人の真ん中のテーブルに置かれたそれは、黄金色の液体が中に入っており、ラベルにはカタカナで『デンキブラン』と記されてあった。
「これデンキブランじゃん! 超強い酒だよな」
栄太郎が興奮気味にボトルを手に取った。
「あぁ、何とアルコール度数は三十度だ」
栄太郎と霧子はそれを聞いて奇妙な悲鳴を上げた。
「これ夜に開けようぜ」
「マジかよ誠ちゃん」
龍一は嫌そうな表情でボトルに入った黄金色の液体を見た。
「飲んだ時に電気が走ったみたいにビリビリ来るから、デンキブランって名前なんだよな」
「おい、ちゃんと炭酸水とかあるんだろうな。ハイボールにしないと飲めねえよこんなもん」
「兄貴はビビりだな。一応買っとくようにおばちゃんたちには伝えてあるよ」
「正月にウィスキーの振りして爺様に飲ませるか?」
「ちょっと冗談やめて。面白いけど」
「そう言えばおじさんが獺祭を買って来てるって噂だけど」
「マジかよ、ちょっと見に行ってみる」
そう言って誠二と栄太郎は揃って子供の様にキッチンへと去って行く。
「全く酒飲み二人には困ったものね。龍一も私が作ったスイートポテト食べてよ」
「あぁ」
龍一は皿の上のスイートポテトを一つ手に取ると、
「霧子、ちょっといいか」と彼女を部屋から連れ出した。
応接室の隣の小部屋に入ると、そこには先客のジロウがいた。二人は先日と同様に椅子に腰かけると、龍一は真面目な顔で司について話し出した。
「人間が成長過程で性別が変わるなんてことあり得るのか? 子供の頃は女だったのに、大人になってから男になるだなんて」
霧子は腕を組みながら考え込む。彼女はT大で生物学を専攻しているその道のスペシャリストなのだ。
「魚みたいに雌性先熟雌雄同体ってことなら、答えはノーね」
やっぱり。
肩を落として龍一はスイートポテトをかじる。
「第一、雌性先熟雌雄同体っていうのは小さい時にオスだと他の大きなオスから攻撃されちゃうから、それを防ぐためにメスとして生まれてるのよ。それがヒトに当てはまるわけがないじゃない」
「まぁ俺もそうは思ってたけど……」
「やっぱりその友達が言う通り、最初から男の子だったんじゃないの?」
いや、そんなはずはない。司は十五歳の時、確実に女だったのだ。
「どうしてそう言い切れるの? まさかだけど、中学の時に既に肉体関係があったわけ?」
霧子が目を細めてやや軽蔑した様な目線を送って来た。
「違う、だからやってないって」
「じゃあもしくは、両性具有だとか?」
「両性具有?」
「中にはいるのよ、そういう人だって。例えばオリンピックの陸上女子のセメンヤ選手だって両性具有だって言われてるわ。彼女には確か、精巣があったんだっけ?」
「精巣があるのに女なのか?」
龍一が目を丸くしながら残りのスイートポテトを頬張る。
「だからそこが微妙なところなの。性別の判定がね」
でも昨日の司は完全に男だったし、男にしかないものも股の間にはっきりとついていた。あれは十五歳の時には無かったはずなんだ。
「どうして知ってるのよ?」
「何が?」
「十五歳の時には、彼女にあれが付いてなかったって、どうして龍一が知ってるの?」
霧子の鋭い詰問に、龍一はただ黙りこんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます