第3話
第二章 龍涎香
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水中で出会った青年は、司と同じ顔をしていた。
その人魚の様な美しさと、驚きのあまり龍一の口からごぼっと一気に息が漏れる。慌てて水面に上がり顔を出して息を吸い込む。しかし波が龍一を襲い、うまく呼吸が出来ない。身に着けた衣服が枷のように重く沈んでいく。
「はい」
声の方に目を向けると、美しい青年が龍一と同じように水面に顔を出し、こちらの方へ腕を伸ばしていた。
「え?」
「俺の手に捕まって」
そのセリフに、龍一は目を見開いた。
まるで十年前のあの時と同じだ……
そしてゆっくりと腕を差し出すと、彼が強く龍一の手を握った。
彼は沈みかけていた龍一の体を引き上げ、浜辺の方へと泳ぎ進んだ。ようやく足の着く浅さの場所まで辿り着くと、二人は手を放し距離を置いた。龍一はその場でしばし呼吸を整えていると、浜辺から「龍一!」と大橋が彼女と共に走ってくるのが見えた。
情けない……助けに行くつもりが逆に助けられるなんて……
しかも……
龍一は顔を上げて目の前の青年を見る。車のライトに照らされたその姿は、息一つ乱れていないし、この寒さを何とも思っていない様だ。
そして何よりも美しい。
白く透き通った肌に、艶々しく光る黒髪。泳ぎが得意なのであろう、競泳選手の様なしなやかな筋肉が上半身を覆っている。
「ありがとう……」
息を切らしながら青年に声をかけると、彼は少し驚いたような顔を見せたが、すぐに目を細めて、
「どういたしまして」と微笑んだ。
その目の下に、二本だけ浮かぶしわがある。
その笑顔は龍一にとって忘れたくても忘れられなかった、あの笑顔だった。
「大丈夫か?」
大橋がブランケットで龍一の体を包む。
「あぁ」
「無茶するなよ、死ぬとこだったぞ」
「それよりも……彼は……」
龍一が振り返ると、青年は浜辺に置いてあった自分の衣服を身に着けていたところだった。
「あいつ何者だよ? 本当に生身の人間か?」
大橋の言葉を無視するかのように、龍一は彼に近寄る。
「おいっ、龍一!」
青年は濡れた髪をかき上げながら、龍一の方を振り返った。
「お前……」
龍一の言葉に、ただ青年は黙って見つめて返した。
(見れば見るほど司に似ている……)
「寒くないのか?」
龍一の頭からは未だにぼたぼたと海水が垂れてきている。
「俺は大丈夫なんだ」
青年は軽く微笑むと、砂の上に置いてあったTシャツを着た。
龍一はその一つ一つの動きを観察する。やはり司に似ているが決定的に違う点が一つある。それはどこからどうみても目の前の人間は男だという事だ。体つきも声も、完全に男だ。それにさっき浜に上がった時に最重要ポイントも確認済みだ。たしかに龍一と同じものが彼のそこにはあった。
「龍一、さっきお前の家に連絡したから、そろそろ迎えが来る頃だ」
大橋の方を振り返り、「分かった」と答える。
「おい」
龍一はさらに一歩近寄って青年に迫る。
「お前も来い」
そう言うと、龍一は羽織っていたブランケットを外し青年の体にかけた。
「だから俺は平気だって……」
「そんなわけあるか。いいからうちに来い」
青年はほぼ龍一と同じ目線の高さではあったが、少しだけ龍一の方が背が高いだろうか。その威圧的な口調に青年は断ることが出来ずに、どうしようかと戸惑ったようにつむじの毛を数本つまむ。その見覚えのある仕草を見て、また龍一は息をのんだ。
一体何なんだこの男は……
龍一の体に、寒さとは違う震えが走った。
土曜の昼下がりに、屋敷を訪れた司を笑顔で出迎えると、龍一は跳ね上がる気持ちを抑えながら彼女をリビングに通した。家族は幸いなことに全員仕事で外に出ていて、屋敷の中には数人の家政婦しかいない。ソファに彼女を座らせると、龍一は初めはそのテーブルを挟んだ正面のソファに腰掛けたが、距離が遠いのが気になって司の隣に座りなおした。
ラベンダー色のワンピースを着た司は普段の制服姿とは違って、少し大人っぽく見えて綺麗だった。そしてその白い肌がラベンダー色にマッチしていて、龍一は何度もチラチラと隣の彼女の腕に視線を落とした。
二人が席に着くと、間もなくして家政婦がトレイに乗せたティーポッドと英国式のアフタヌーンティーセットを運んできた。その三段に飾られたスウィーツを見て一気に司の表情が華やぐ。
「すごいっ」
興奮のあまり司は龍一の手を掴んだ。その手から、龍一は何か熱い物が胸に込み上げてくるのが分かった。
「これが本当のアフタヌーンティーだよ。あと今日の紅茶は、何だっけ?」
龍一の問いに、家政婦は
「ダージリンです」と答えた。その顔はまるでませた息子を前ににやけた母親のような表情をしていたが、当時の龍一はそれに気づくはずもなかった。
「あ、ちょっと待って、自分で注ぐから」
そう言って家政婦がカップに注ごうとするのを制止する。
そして龍一は得意げに司に話し出した。
「司、これやり方知ってる?」
司は首を横に振った。部屋の隅の方では家政婦たちがにやついた顔で二人の様子を見守っている。
「この銀のスプーンみたいなものは茶漉しなんだ。だからティーポッドから注ぐときにこうして……」
カップの上に左手で茶漉し器をかざして、その上から右手でお茶を注ぐ。そうすれば茶葉がカップの中に入らない。
司は見よう見まねで龍一の手元を見ながら自分のカップに紅茶を注いだ。
「これはどうしたらいいの?」
「まぁ、その辺においておけばいいよ」
「ポッドの中に茶漉しを付けた方が絶対に注ぎやすいのに」
「まぁその辺はイギリス人は気にしないんじゃない?」
龍一の言葉に司が笑った。
「それでこの三段のデザートだけど、食べる順番が決まってて、一番下のサンドウィッチから食べるんだよ。それで次は真ん中の皿のスコーンを、それで最後が一番上のケーキを食べると」
「へぇ、順番が決まってるのね」
そう言って司が一番下の皿に手を伸ばそうとする。
「でも」
龍一が司の耳元で囁く。
「今日は特別だから好きな順番で食べていいよ」
司は龍一の言葉に嬉しそうに微笑むと、一番上のイチゴタルトに手を伸ばした。
「龍一は何でも知ってるね」
「まぁね、大抵のことは家に頼めば何とかなるし」
そう言って背もたれに深く寄りかかると、部屋の隅にいる家政婦たちが目に入った。思わず顔をしかめてあっちに行けと目で訴えるが、おばちゃん家政婦たちはにやついたまま動こうとしない。
「でも結局、紅茶なんて飲めれば何でもいいんだけどね。俺はここだけの話午後ティーのミルクティーが一番好きだ」
「私もミルクティー好きよ」
司が笑うと、龍一も嬉しかった。
二人で手を伸ばして次々に皿の上のスウィーツを平らげていく。
「龍一」
ふと司が笑みを浮かべながら龍一の方を見た。
「ここについてるよ」
司が龍一の唇の脇についたパンくずを手で摘まむと、それを自分の口元へ運び小さな口に含む。照れたような笑みを浮かべる司を見て、龍一の顔はトマトもびっくりするぐらい赤くなった。
新しい服に着替え、厚手のブランケットにくるまった龍一は、電気ヒーターの前で丸くなったままリビングの床に腰掛けていた。そして隣に同じように座っている青年を強い目線でじっと観察している。青年は困った様な笑みを浮かべていた。
「こんな夜に海に入るなんて信じられないね」
栄太郎が呆れた物言いでキッチンからティーセットを持ってきた。
「俺は入りたくて入ったわけじゃない」
そう言うと龍一は再度まじまじと青年の顔を見た。
「龍ちゃん、一回風呂入ってきたら? その方が絶対あったまると思うんだけど」
「俺はそろそろ帰るよ」
青年は龍一が部屋から出ればここから脱出できると思っているらしい。
「いや、話をしてからだ」
龍一はかたくなに首を横に振る。
「お前、どうしてこんな時期に海の中になんか入ってた?」
「……泳ぎたくなったから」
「こんな真冬にか?」
「だから、俺は平気なんだってば」
この青年は先ほどからこればっかりだ。平気だと言ったっていくら何でも東北の真冬の海が人間にとって平気なわけがない。
「まぁ、その彼もそう言ってるわけだし。おうちに帰してあげたら?」
「お前は黙ってろ」
龍一が振り返って栄太郎を睨む。
「その……お前はこの辺に住んでる奴か?」
その問いに、青年は目を細めた。
「その答えは自分で知ってるだろ……龍一」
龍一はハッと目を見開く。
「もう気が付いてるだろ?」
青年は薄っすらを笑みを浮かべて続けた。
「俺は司……波多司だよ」
アーモンド形の瞳に、陶器の様な白い肌、そしてピンクベージュ色の薄い唇……そのどれもが龍一の記憶の中の司と相変わりない。けれども……確実にこの青年は男だ。
司の顔を見たまま硬直している龍一に、困ったように彼は少し笑うと、
「男になったんだ」と言った。
「男に……?」
それは何だろう、性転換手術をしたとかそういう類の話だろうか? だとしても先ほどこの男の全裸姿は確認したが、どの部分をとっても完全に男の物だったはずだ。それに司だということを考えなければ、目の前の人間は違和感なく自然な男性に見える。骨格だって声だって、あの頃の司とはまるで別人だ。
「なんとなく龍一の考えてることはわかるけど……違うよ」
その青年が喋れば喋るほど、声色は違っても柔らかい口調は当時の司そのものだと龍一は感心せざるを得ない。
「自然に男になったんだ。成長して体が変わったんだよ……魚みたいなもんだ」
ますます龍一の体は硬直した。そして頭の中が渦潮のようにぐるぐると回りだす。
「……魚?」
ようやく出た声は上擦ってひっくり返った。
「メスからオスに成長する魚とか、知らない? キンギョハナダイとか……それと同じだよ」
龍一が何か返答する前に、後ろでぼりっと何かをかじる音がした。振り返ると、ソファに腰掛けた栄太郎が「そりゃ興味深い」とクッキーを頬張っていた。その冷めた表情からは、どこか司と名乗る青年を嘲笑っているかのような印象を受けた。
「お前邪魔だよ、どっか行け」
龍一に睨まれると、肩をすくめてクッキーを咥えたまま栄太郎はリビングを後にした。
「ティーセットそのままにしといていいから。明日の朝片付けるよ」
「あぁ」
邪魔者がいなくなったところで、再度龍一は隣の青年をじっと観察する。
「……信じてないよね?」
「お前、魚なのか?」
「魚ではないけど……ちょっと変わった家系なんだ」
青年は続けて話した。
「君の一族もここら辺では有名な家系だけど、実は俺の家も一部では知られた家系なんだ……その……キンギョハナダイの血を継ぐ一族って」
「キンギョハナ……なに?」
「キンギョハナダイ」
熱帯魚の一種だよ、と青年は微笑んだ。
「そのメスからオスになるっていうのが……」
「そう、雌性先熟雌雄同体」
「しせいせんじゅく……まぁいいんだ、そんなことは。その、もしお前が本当に司だとして、一体いつ男に変わったんだよ?」
「十六歳のときだよ」
十六……それならば龍一と別れた後に男になったということか。しかしそれにしたって、はいそうですか、と易々と納得できる話ではない。
「確かめてみる?」
青年はいたずらな笑みを浮かべると、少しだけ顔を上に向け、
「喉仏もちゃんとある。触ってみていいよ」
その白い喉が露わにされ、ごくりと唾を飲んだ瞬間に蠢いてみせたそれに、龍一は妙な衝撃を受けた。何か見てはいけない物を見てしまった気分だ。
口元を抑えて固まっている龍一に、
「胸だって触ってみてもいいよ」と青年は龍一の手を取ると自らの胸に近づけた。
「や、やめろっ」
思わず龍一は反射的に手を引っ込める。
「だってお前は司なんだろ?」
「そうだよ?」
龍一は混乱していた。目の前の人間は男だけれども、司だというなら胸など触っていいはずがない。しかし、そう考えながらもどこかでそれを欲す自分がいるのも確かで……彼に握られた部分が痺れたように感覚がおかしくなっている。
「龍一」
静かに青年は呼びかけた。
「あの日の続きをしよっか?」
恐る恐る龍一が顔を上げると、青年は……司は熱を持った瞳でこちらを見つめていた。
「ずっと会いたかったんだ……ずっと忘れられなかった」
司は龍一の耳の後ろをそっと触れた。ひやりとした感触が龍一を襲う。
「約束しただろ、大人になったら会いに来るって。だから帰ってきたんだよ……龍一のために」
彼の冷たい指が、龍一の耳たぶに触れ、そして頬を撫でる。かすかに香る潮の香に、まるで未だに自分が海の中に潜って夢を見ているのではないかとさえ感じた。本当はあのまま、海の底に沈んでしまって、人魚の幻でも見ているのではないかと。
「覚えてる限りのことなら何でも答えられるよ。初めて会った田んぼでのことも、モモとタロウのことも、この部屋でアフタヌーンティーをご馳走してもらったのも。それに君が英国式のお茶の飲み方は知っていても電車の切符の買い方は知らなかったり、クリームソーダの飲み方がすこぶる下手だってこともね」
そう言って笑う司の目の下には、彼女の特徴だった二本のしわが浮かんでいる。
司の指が龍一の唇に触れたとき、ハッと我に返ったように龍一はその身を引いた。
「いや……いやいやいやいやちょっと待てって」
完全に混乱している。軽くパニック状態だ。
どうしてこの男が司との想い出を知っているんだ? 二人にしか分からないようなことまで。
そんな……本当に司だっていうのか?
「まぁ、急には無理だよね」
そう言って司は少し寂しげな表情を見せた。
「そろそろ俺は帰るよ。気を使わせて悪かったな」
肩から掛けていたブランケットを外し、綺麗にたたむとソファの上に置いた。そして黒いコートを羽織るとそのボタンを下から一つずつかけていく。
龍一もブランケットを外し立ち上がると、その仕草をまじまじと見つめた。
「昔、シャツのボタンを掛け違えたまま屋敷に会いに来て龍一に笑われたよな。そのときに龍一が下からボタンかけろって教えてくれた」
司がいたずらな笑みを浮かべて笑った。
「あ、あぁ……」
確かにこの青年の言う通りだ。龍一があの頃の司にボタンのかけ方を教えた。
龍一が屋敷の玄関まで司を見送ると、彼は振り返って
「また会いに来てもいいか?」と尋ねた。
その間近で見る綺麗な顔にすぐに返す言葉が見つからなくなる。もごもごと口を動かして、たった一言
「あぁ」とだけ答えた。
すると司は嬉しそうに顔を綻ばせて、再び龍一の頬に手を伸ばした。
とっさのことで抵抗も出来すにいると、
「じゃあ、良いお年を」
司は龍一の頬にキスをした。
龍一は去って行く黒い後姿をただ見つめることしかできずにいた。足が棒のように動かない。そしていまだに残る彼の匂い……潮の香りと、何かが混ざった様な甘い香り。何故か懐かしく感じるその香りと……
龍一はそっと司の唇が触れた部分に指で触れてみる。
愛おしいその感触。
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