第2話

   第一章 追憶の熱帯魚


   1


 今から十年前の事だった。その出会いは今でも覚えている。

 M県銀浜市。そこはF県との県境に存在する小さな町である。太平洋岸に沿ったその町は人口はわずか一万人足らずで、主な産業は木材加工や金属加工からなっている。中でも古くから伝わる名家、宝泉一族がこの市内随一の加工会社を経営しており、その一族の資産は県内でも五本の指に入るとまで言われていた。銀浜市が有する浜の三分の一は宝泉家所有のもので、浜から市街地を通り抜けた場所にある小さな山々もまた宝泉家の土地である。

 その一つの山の上に立つ大きな大正浪漫風の洋館、そこが宝泉家の屋敷である。

 屋敷から続く一本の坂道を猛スピードで一台の自転車が通り抜けて行く。半袖の白い学生服でそれに跨るのは宝泉家の長男、宝泉龍一だった。幼い頃からそれこそ何百回も通ってきた慣れた坂道である。ハンドルのブレーキも握りもせずに、ペダルに添えていた足を空中に投げ出して、自転車が加速していくのを楽しんでいた。

 ふと、坂道の終わり、そろそろブレーキをかけようかという矢先に、その少女は視界に入ってきた。

 長い黒髪をなびかせた水色のワンピース姿の少女は、飼い犬だろうゴールデンレトリバーを連れて、驚いたように龍一の姿を見ていた。

(可愛いなぁ)

 思わず見とれてしまった龍一は、ブレーキをかける動作をつい忘れてしまっていた。気づいたときには目の前に広がる緑の田んぼ。

「うわあっ」

 慌ててブレーキを握るも時すでに遅し。田んぼ淵に自転車の前輪を引っかけると、そのまま空中で前転しながら龍一は田んぼの中に墜落した。

「いててて……」

 幸いこの田舎町ではそうそう車の通りもなく、轢かれなかっただけ不幸中の幸いとでも思うべきか。泥まみれになった自身の姿を起こしてみる。どうやら怪我はしていない様だ。冗談でよく父親が子供の頃に坂の下の田んぼに突っ込んだと喋っていたが、まさか自分が同じ目に遭うとは。しかも中学三年になってまで。

「大丈夫?」

 そこへ現れたのは、あの水色の少女だった。

 年齢はほぼ龍一と同じぐらいだろうか。透き通るような白い肌に、アーモンド形の瞳が印象的だ。整った顔立ちに凛とした声、全てが龍一の心を鷲掴みにしていた。

「あ、あぁ」

 とは言ったものの見た目はこのありさま。

「誰か助けを呼んでこようか?」

「いや、大丈夫だ。俺の家、すぐそこだから」

 そう言って立ち上がろうとするものの、泥の中ではなかなかうまくいかない。

「はい」

 少女は細い手を龍一に差し出す。

「え?」

 思わず少女の顔を見ると、

「私につかまって」と彼女は言った。

「君まで汚れるよ」

「平気よ」

 龍一は躊躇いながらもその手を取る。少女に引かれるようにしてようやく田んぼから抜け出した。

「ありがとう」

 龍一が出た拍子にやはり彼女のワンピースに少し泥が飛び散ってしまっていた。

「どういたしまして」

 少女はにこりと微笑む。

 龍一はお礼がてらに泥だらけの自転車を引きながら彼女を自分の屋敷へと連れて行った。

「じゃあ、同じ中学になるんだね」

 少女の名前は波多司、龍一と同じ中学三年生で先週この町に引っ越してきたらしい。

「何組になるかは決まってるの?」

「先生からは二組だって」

「そっか、残念。俺は一組なんだ。って言ってもこの田舎じゃあ二クラスまでしかないんだけどな」

 龍一が泥のついた顔で笑うと、司も笑って見せた。笑うと目の下に二本だけ皺が寄るのが特徴的だった。あばたもえくぼじゃあないけど、そんな所も可愛いな、なんて密かに考えていた。

「すごい家……もしかしてあの……」

「そう、宝泉一族だよ。完全に名前負けだよね」

 屋敷を前にして司は目を丸くして驚いていた。多くの幼なじみは既に慣れたものだったし、同級生たちもみんな龍一やその家族の事は知っていたから、こういう反応をされるのはむしろ新鮮な感じだった。

「遠慮しないで中に入ってよ。お礼がしたいんだ」

「でも……」

 司は戸惑ったように連れていたゴールデンレトリバーを見た。

「大丈夫だよ、うちでも一匹買ってるから。秋田犬なんだけど」

 龍一は司をどうしても引き止めたかった。このまま彼女とさよならしたくなかったのかもしれない。

「この間お父さんが貰ってきたベルギーの美味しいチョコがあるんだ。ぜひ食べて行ってよ」

 司はどうしようかとしばし考えている様だった。つむじの髪の毛を数本だけつまんで引っ張っているのは、きっと彼女が思案する時の癖なのだろう。そうしていると、龍一の帰宅に気付いた飼い犬の秋田犬が、勢いよく庭の方から二人の元へ駆け寄ってきた。すると、司の連れていたゴールデンレトリバーがそれに威嚇して吠える。そして秋田犬も同様に一回だけ大きく吠えた。

 お互いの飼い犬をしかりつける様に司と龍一から声が出る。

「モモ!」

「タロウ!」

 思わず二人は目を丸くしてお互いの顔を見合った。そして同時に笑い出す。

 これが龍一の本気の恋の始まりだった。


 時が経ち、桜の季節になった。

 卒業と共に父親の地元のF県に引っ越すことになった司との別れが近づいていた。本来ならば司も銀浜市に残り龍一と共に同じ高校へ進学する予定だったのだが、不幸な事に一月に司の母親が事故で亡くなったのだ。それで止む終えず父親と共に司もF県へと移住することになったのである。

 龍一はひどく悲しかった。初めて出会った時から彼女は特別な存在だった。同じ中学に転校してきた司とは一緒に登下校し、休日も一緒に過ごした。夏は海へ入り、司の人魚のように泳ぐ様には驚かされたものだ。

 龍一は卒業式の前日、司を自分の部屋に連れ帰った。今までも何度か司を家に連れてきたことはあったが、こうして自分の部屋の中に招き入れたのは初めての事だった。それは龍一の家族も、二人が思春期の男女だからと留意していた部分でもある。

 家族の目を盗んでこっそりとばれないように司の手を引いて、二階の奥の自分の部屋に入る。二人は制服姿のまま、ベッドの上に並んで座ると耐え切れなくなったように龍一が司の体を抱きしめた。

「離れ離れになるなんて嫌だ」

「龍一……」

 司も龍一の背中に手を回す。そしてその動きから、彼は泣いているのだと気が付いた。

「大丈夫、一生の別れじゃない。また大人になったら会えるよ」

 子供をなだめる母親の様に、司は龍一の背中を撫でた。

「絶対?」

「絶対に」

 龍一が顔を上げると、そこは鼻が赤くなっていた。頬を濡らす涙を司が優しく拭い取ると、

「大人になったら必ず会いに来るから」と微笑んだ。

「司……」

 二人は額と額を合わせる。

「龍一、私を信じてくれる?」

「信じるよ、当たり前だろ」

 龍一がそう言うと、司は嬉しそうに笑った。

 そして二人は静かに唇を重ねた。



   2


 乗務員のアナウンスに思わず肩をピクリとさせて目を覚ます。

 慌てて窓の外を眺めると、目的の駅まではあと数駅あった。

 暖房の効いた電車の中で、ダウンジャケットを羽織った龍一は何度か目を擦った。

 昔の夢を見ていた。

 あれから十年が経つ。自分はもう二十五になっていた。四捨五入すれば三十だ。それなのに何年経ってもあの少女の事は忘れられない。

 司……

 中学卒業後、何度かやり取りはしたものの、数か月するとぱったりと司からの連絡は途絶えてしまい、いつの間にか電話番号は繋がらずメールも届かなくなっていた。噂によると、高校に入ってから体調を崩し長期間入院していたと聞く。しかも驚いたことに、精神的な病だと。噂の真偽は定かではないが、それ以来司の消息が不明な事だけは確かだった。

 ふと窓の外の海を眺める。

 数年前の震災で多くのものが流れ去って行った海だ。しかし今は、白い雪景色と共に静かに泡を立てて波打っている。幸いなことに、銀浜市では浜の近くに住宅や施設が無かったこともあり、海沿いの街としては被害は最小限に食い止められた。それに少し足を進めれば小高い山々がいくつもある。宝泉の屋敷もその上にあった。

 龍一は大学入学を機にS市へと移り、今はT大の大学院で地質学の研究をしている。これもまた家業の加工会社を継ぐためだ。そしてあと三日で今年も終えようかという年の瀬に、ボストンバッグ一つ持って故郷の町へと帰ろうとしている。

 こんな昔の恋を夢に見たのも、全てはあの宝泉家が原因だ。龍一はポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、また新たに何通か未読のメッセージが届いていてため息をついた。

『婚約おめでとう!』

『結婚決まったんだって? おめでとう!』

『今度地元返ってきた時にみんなでお祝いしようよ! 結婚式には絶対呼べよ!』

 それらを目を通した龍一は頭を抱えた。どうしてこんなことになってしまったんだと。一つ一つまともに訂正するのも面倒くさい。今度集まった時にでも宣言しよう、婚約は何かの間違いだと。

 最寄り駅に到着すると、駅前のロータリーに一台の高級車が停まっていた。

「龍一、おかえり」

 そう言ったのは宝泉栄太郎。龍一からはどう数えたらいいのかもあやふやな遠い親戚の一人だ。年齢は二十九歳、以前は年に一度か二度会うほどの関係だったが、去年栄太郎が唯一の肉親だった母親を亡くしてからあの宝泉の屋敷で世話になっているらしい。

 龍一の父が社長を務める加工会社の役員とはされているものの、実質ほぼ屋敷の中で暇をつぶしているだけの体たらくだと両親が嘆いていた。

「栄太郎、迎えに来てくれてありがとな」

 栄太郎は長身で細長い体形をしており、何よりも目立つのは鳥の巣の様な頭だ。本人曰く両親から受け継いだ天然パーマのサラブレッドらしく、どうにもこうにもおさまらない曲者らしい。まぁ、そんなところも本人のキャラと相まっているような気もするが。

「何だよ龍ちゃん、ちょっと見ない間にイケメンになっちゃってぇ、すっかり都会人だね」

「やめろよ、宇宙人。まだそんな髪形してるのかよ」

「こればっかりは死んだ両親を恨むね。龍一はいいよなぁ、直毛でさぁ。それわざと無造作に見せてるんだろ?」

 そう言って運転席から栄太郎が龍一の髪を触ってくる。

「やめろって。崩れるだろ」 

「でもちょっと太った?」

「余計なお世話だよ、しかも太ってねぇし」

 高校、大学と空手をやっていた龍一はそれなりに筋肉質の逞しい体つきをしていたが、大学院に入って空手をやめてからは栄太郎の言う通り筋肉の上から少し脂肪が乗ってきていた。

「俺のこれは筋肉なの。今は筋肉の上にちょっと柔らかいものが乗っちゃってるけど」

「だからそれってつまり太ったんでしょ?」

 チッとあからさまに舌打ちをして見せると、栄太郎は欧米人の様に肩をすかしてみせた。

「いいよねぇ、厚い胸板。羨ましいなぁ。女の子が放っておかないんじゃないの? この色男」

「うるせえよ」

 実際のところ、院の研究が忙しすぎて休日すら返上してラボに出てるぐらいだ。そうそう彼女なんて出来る暇もない。

「でも今となっちゃあれっきとしたフィアンセがいるもんな」

 わざとらしく栄太郎は龍一にウィンクをして見せる。

「いいから前見ろって、ドライバーさん」

 またしても龍一の胸にストレスのかかる問題が思い起こされた。

「大体結婚なんてまだ……」

「分かってるよ。勝手に勝蔵の爺様が決めたんだろ? 第一、龍ちゃんと霧子じゃあなぁ」

「あぁ。向こうだって冗談じゃないと思ってるだろうよ」

「でも爺様にはあんまりきつく言うなよ。もうそろそろヤバいんだから。心臓発作でも起こされたら正月から一大事だ」

「あぁ」とぶっきらぼうに返答をしつつ、事の発端である自らの祖父、勝蔵のことを思い描く。勝蔵は宝泉家の経営する加工会社、『竜前加工会社』の会長であり、代々受け継いできた会社や一族に対する思い入れが人一倍強い性格をしている。ここ数年は持病の心臓病が悪化してだいぶ弱々しくなったが、それでも未だその発言の影響力は大きい。そう、今回の龍一の婚約騒動の様に。

 今月の半ばに行われた市内の市会議員や経営者の集まりに参加した勝蔵は、龍一はおろか他の家族の誰の了解も得ずに勝手に龍一とそのいとこの霧子の婚約を発表してしまったのである。驚いたのは同席していた父親であり現、代表取締役の宝泉仁だけではない。議員らを始めとした市内の権力者たちがいち早く祝辞をとざわつき出してしまったのである。そのせいで市内のみならず何故か副県知事からまで龍一のもとに大学を通して祝いの電報が届く始末だ。

「霧子はもう来てるのか?」

「あぁ、俺が屋敷を出る前には顔を出してたぞ。また一段と大人っぽくなってな。お前も顔を見たら気が変わるかもよ」

「んなわけねえよ」

 それから約二十分ほどして龍一は屋敷へと辿り着いた。ボストンバッグを持って中に入ると、「おかえりなさい」と二人の家政婦に頭を下げられる。家政婦と言っても今流行りのメイドなんちゃらとは違って、昔からいる知り合いのおばさんたちだ。服装もスウェットにエプロン姿で萌える要素は一つもない。二階の自分の部屋に入ると、既に掃除が済ませてあるのか大きなダブルベッドは小奇麗にベッドメイキングされ、窓際の小さなチェストの上には淡い桃色をしたシンビジウムの鉢が飾られていた。

 窓を少し開けて外を眺めると、薄っすらと白い雪が銀浜の町を染めている。凍てつくような風の冷たさにすぐさま窓を閉めた。階下に降りると、賑やかな声がリビングから聞こえてくる。

「よう」

「あら、龍一おかえりなさい」

 ビロードのソファに腰掛けているのは母親、邦子だ。勝蔵の長女であり、幼い頃から裕福な生活をしているせいか自分一人ではほぼ何も出来ない根っからのお嬢様気質だ。もちろん家事はほとんどしないし、どちらかと言えば会社役員として経営に口を出してくるワーカータイプの女性だ。

 邦子は微笑みながら龍一に寄り添うと、久々に会うわが子の腕を愛おしそうに撫でた。

「あぁ」

 そっと邦子の手をほどき、部屋の中に目を向ける。広いリビングの中央にはロココ調のテーブルセットが置いてあり、それを囲むように邦子の趣味である薔薇柄のソファが並んでいる。そこに腰掛けていたのは勝蔵と仁、そして霧子だった。

「はいはい、お茶淹れましたよぉ」

 ふざけた口調で部屋に入ってきたのはカート式のトレイを引いた栄太郎と、その後ろで困惑した様子の家政婦だ。

「龍ちゃんも座って、ほら」

 何故か家政婦の仕事を横取りした栄太郎が、新たに持ってきた英国式のアフタヌーンティーポットで紅茶を注ぐ。

「龍一、早く座りなさい」

 上座の一人掛けのソファに深く腰掛けた勝蔵が手招きをする。お盆に会った時よりもまた幾分か痩せたようだ。そして鼻には酸素チューブが入れられている。

「全く急かせる家だ」

 そう呟きながら龍一は仁の隣に腰掛けた。

「急かされる方の身にもなってほしいけどな」

 龍一が目の前に座る霧子に意味深な目を向けると、霧子は花柄のティーカップに口を付けながら静かに首を横に振った。今は黙っておけという合図だ。

 霧子は仁の妹の娘で、今年二十歳になったばかりのまだ大学生だ。龍一と同じT大の三年生だが、学んでいるキャンパスが異なるため同じ市内に住んでいてもさほど顔を合わせたことはない。茶色く染めた長い髪に芯の強そうな尖った瞳が特徴的で、犬に例えればシェットランド・シープドッグといったところか。

「龍一はいつまでうちにいられるんだ?」

 そう問いかけてきたのは隣に座る仁で、家の中だというのにグレーのカシミアのセーターの下には白いYシャツとネクタイを身に着けている。

「あぁ、三が日まではいるつもりだけど……」

「えぇっ、成人の日は?」

 霧子から不満の声が上がる。

「何で?」

「うちで霧ちゃんの成人のお祝いをするのよね。みんなで美味しいもの食べるのよ、龍一も参加しなさい」

 霧子の隣に座った邦子がそう言って微笑む。

「それいつだよ?」

「成人の日は九日なんだけど、その日は夜に同窓会があるからその前日の八日よ」

 霧子が家政婦お手製のバタークッキーを口にしながら答えると、

「そうだ。ついでにお前たちの婚約祝いも兼ねて小野里家の親戚も呼んでいる。龍一も参加しなさい」と勝蔵が強い口調で言った。思わず一瞬その場の空気が止まる。

「いやその話だけど」

 龍一が口を開くと、途端に仁や邦子、霧子の三人がゴホンと咳込みだした。要は黙っておけという事だ。龍一は不満をあらわにした顔で皿に置かれたクッキーを手に取ると、大きな口で噛みついた。

「ところで誠二は?」

 クッキーのカスが付いた唇を拭きながら問いかける。

「食べながら喋るのやめなさい」

 邦子が顔をしかめる。

「誠二なら明日帰ってくるって」

 代わりに霧子が答えた。

「あいつ、学生で暇のくせにギリギリまで帰ってこないつもりかよ」

 誠二とは龍一の四つ離れた弟である。今は東京の大学に通っていて正月と盆ぐらいしか実家には帰ってこない。交友関係が人一倍広い奴で、学業よりも友達付き合いの方でいつも多忙な男だ。

「仕方ないでしょ、東京に行ってて大変なのよ」

 そして何かあるといつも邦子は東京に行ってるからと次男を甘やかす。

「遊んでいられるのも今だけだよ。春になったらうちの会社で覚えなきゃいけないことが山ほどある」

 仁の言う通り、四月からは一足先に誠二が竜前加工会社に入社することになっている。

「誠二にはいずれ龍一の右腕となるように鍛錬してもらわないとな」

 勝蔵の言葉に、

「ていうか誠二が霧子と婚約したらいいんじゃね?」と奥の爺様には聞こえないように呟いた。


 年寄り臭い部屋から抜け出した龍一は、霧子に連れられて隣の小さな応接室に入った。その小部屋は本来の応接室から繋がっており、来訪した客人らを屋敷の女たちが出迎えの為に待機する部屋だと言われている。

 小さな丸テーブルに三つだけ並んだ漆の椅子に、龍一は霧子と腰掛けた。

「霧子、お前あの話正直どう思ってるんだよ?」

 ネイビーのニットにジーンズ姿の彼女は、腕を組みながら不満げに顔を歪めた。

「正直私には婚約とか考えられないわ」

「良かった、俺もだ」

 霧子が乗り気でないことは薄々予感していたが、その通りの反応だったので龍一は安堵した。

「だってまだ私学生だし、二十歳なのよ? いくらなんでも早すぎ」

「俺だってまだ学生の身分だよ」

「それに……」

 ちらりと霧子が横目で龍一の方を見る。

「あ、何だよ?」

「私と龍一とじゃあ血が濃すぎるもの」

「まぁ……確かにな」

「だからとりあえず、この件は保留にしておきましょ」

「でもいつかは断らないといけないんだぞ。だったら早い方がいいだろ」

 今すぐにでも部屋を出て勝蔵に異論を唱えてしまいそうな龍一を霧子は制すると、

「作戦があるの」と微笑んだ。

「とりあえずひとまずはお互い学業優先で卒業するまでは結婚は待っててもらう、私はこれでも一応院まで進むつもりだから最低でも今から三年はかかるわ。そしたらおじいちゃまは……」

「なるほど。俺らが卒業するのと爺様が死ぬのとどっちが早いかって話だな」

「第一うちの両親も婚約の件は本気にしてないし、おじさまとおばさまもそうでしょ?」

 確かに勝蔵の手前言い出せないではいたが、明らかに仁と邦子も婚約の件に関しては異議ありの様だった。

「じゃあそういうことで。無駄にお正月からおじいちゃまを刺激しないようにしましょ。平穏に年を越せますように」

「あぁ」

 そこへ、ドアが開くと再びトレイを手にした栄太郎が入ってきた。

「栄太郎」

「何の用?」

 霧子はそう聞きつつも、既にトレイの上のクッキーに手を伸ばしている。

「こりゃ冷たいお嬢様だね。せっかく若いカップルのためにお茶を淹れてきてあげたっていうのに」

 栄太郎はテーブルの上にティーポッドとカップを置き、二人のカップに紅茶を注いだ。

「おい、ミルク入れてくれよ」

「自分でそのぐらいやったら?」

 霧子がカップに口を付けながら龍一を睨む。

「本当に俺様体質変わってないねぇ」

 栄太郎が空いているもう一つの椅子に腰かけると、自分の分のカップに紅茶を注いだ。

「年々ひどくなっていってるわね、昔はもっと思いやりがあった」

「何だよそれ、今でも十分思いやりあるだろ」

 龍一が紅茶を飲み込むと、急に肩に重いものが乗っかり思わず零しそうになる。

「んっだよ、ジロウ」

 そこにいたのは、三年前から宝泉家で飼っているペルシャ猫だ。長年飼っていた秋田犬タロウの亡き後、もう犬は飼わないと宣言した邦子が次に購入してきたのがこのジロウだった。何故か龍一が帰ってくるとよく肩の上に乗られることが多い。

「あったかいのよ、そこが」

 霧子と栄太郎が面白がってにやついている。

「毎回うちに帰ってくるたびに心臓が縮まる思いをしてるよ俺は」

「ほら、ジロウおいで」

 霧子が手を差し伸べると、ジロウは龍一の肩から飛び降り、霧子の膝の上に行儀よくおさまった。

「そう言えばおばさんの話聞いたか?」

 クッキーを食べながら栄太郎が龍一に尋ねる。

「母さんの話?」

 何の事だか見当もつかない。

「一人で屋敷を抜け出してどっか行ってるって噂だよ」

「それ、たしかただタロウの散歩に行ってただけってオチじゃあなかったっけ?」

 まだ龍一が屋敷に住んでいた頃、度々邦子が一人で屋敷を抜け出しているという噂が広まったことがあった。けれど、家政婦らの捜査により結局ただ犬の散歩に行っていたという話に落ち着いたのだ。滅多に一人で外出しない奥様がただ犬の散歩に行くだけでこんな騒ぎになるなんてと、当時は呆れたものだったが。

「それが、タロウが死んだ後も続いてるんだよ。月に一回ぐらいのペースでどこかに出かけてる」

「猫の散歩に行くのはおかしいしね」

 霧子が栄太郎に頷いた。

「そうなんだ。でも、一人で出かけるぐらい普通の事だろ。母さんだって一人になりたいときぐらいあるだろうし」

「そうかもしれないけど、実は浮気してるんじゃないかって疑惑がある」

 栄太郎の言葉に龍一は言葉を失った。

「冗談だろ?」

「おじさんは本気で疑ってるみたいだよ」

 霧子の顔を見ると、彼女も真顔で頷いた。

「マジかよ、だってもういい加減五十過ぎてるババアだぞ」

「相変わらず口が悪いね、おぼっちゃま」

「五十過ぎてるにしては綺麗すぎると思わない?」

 霧子が上目づかいで見つめてくる。

「何か艶っぽいっていうか、お金かけてるからって言われたらそうなんだけど、それでもなんか妙な色気がある様な気がするのよねぇ」

 冷静に考えてみれば、自分の母親だから気にもしたことはないが、確かに邦子は五十代とは思えないような若々しい容姿をしている。女であることをまだ意識している立ち振る舞いだ。

「結構親戚の中じゃあ噂になってるわよ」

「マジか」

 困ったように龍一は頭を掻く。

「まぁ、おばさんの気持ちも理解できるけどなぁ。おじさんは年がら年中仕事人間で構ってあげられてないし、可愛い愛息子二人は家を出ちゃったんだから。寂しいんでしょ」

「あんたは少しおじさまを見習ってまともに働きなさいよ」

 霧子が栄太郎のもじゃもじゃした頭を軽く叩く。

「十分まともでしょうがぁ。こうしておぼっちゃまとお嬢様にお茶をお淹れして差し上げてるんだから。あと、退屈してるおばさんの話し相手ってのも必要不可欠なのよ。俺の適任だね」

 霧子はあからさまにため息をついた。

「あとジロウの世話もね。だいぶここ一年でブラッシングマスターになりましたよ。ねぇ、にゃあちゃん」

 栄太郎が猫なで声を出してジロウに手を伸ばすと、それを避ける様にジロウは霧子の膝から降りてわずかに空いたドアの隙間から廊下へと逃げて行った。

「嫌われてるじゃねえかよ」

 龍一の半笑いの言葉には反応せず、栄太郎は「にゃあちゃあん」と情けない声を出してジロウを追いかけて出て行った。

「全く、これ片付けて行ってよ」

 霧子がそう言って栄太郎の後を追っていく。なんだかんだ言っても仲が良い二人の様子に、むしろ自分なんかよりも栄太郎の方が霧子には似合っていると感じた。それに霧子は度々栄太郎の方に視線を送っている。もしかしたら本当に気があるのかもしれない。

「とんだお邪魔虫ですよ、俺は」

 龍一はため息をついて部屋を後にした。

  

 宝泉家には一つ隠し事がある。

 それは宝泉の家族しか知らない事実だ。家政婦らはもちろん、栄太郎や霧子さえも知らないことだ。

 竜前加工会社の主な加工物は琥珀だ。琥珀とは天然樹脂の化石であり、多くは沿岸部で産出される。日本で産出される約八十%はここ銀浜市で採れたものであり、更にその琥珀が存在する地層のある沿岸部を所有しているのがこの宝泉家なのである。

 そしてこの屋敷の中に、その加工前の琥珀の大原石が保管されているのである。価格にすればいくらになるだろうか、考えたこともない。指につけるほんの小さな石が数万なのだから、その塊となれば信じられない額に跳ね上がるだろう。

 龍一は辺りを見渡して誰もいないことを確認すると、一階の一番奥にある茶室の襖を開けた。暖房のかかっていないその部屋はひんやりと冷えていて、畳の上を歩くと足の裏がその冷たさに丸まった。

 そして壁に掛けられた一枚の水墨画の掛け軸に手をかけようとした時、

「何だ?」

 龍一が人の気配を感じて振り返ると、そこにはジロウを抱えた栄太郎がいた。

「龍ちゃんこそ何やってるの、こんなところで」

「いや、俺はちょっと……お前こそ」

「ジロウを追いかけてきただけだよ」

 栄太郎は首かしげて髪を掻くと、そのままその場から立ち去った。

 龍一はホッと一息つくと、掛け軸から名残惜しく手を放す。


 自分の部屋に戻った龍一は、机の引き出しを開けると、奥に眠っていた小さなビロードの箱を取り出した。それを開けると、中には小粒の赤燈色の琥珀が入っている。子供の頃に両親から貰ったものだ。

 ベッドに横になりながら、指で摘まんだ琥珀を見つめて幼い頃のことを思い出す。

 あれは十歳になる直前のことだった。邦子に呼ばれて、龍一と誠二は奥の茶室から繋がっている隠れ部屋へと連れて行かれた。当時は掛け軸に隠されていた部分に鍵穴があったのだが、数年前にそこは指紋認証式の鍵に変えられた。ようやく大の大人一人が通れるほどの通路を抜けたところに、四畳半ほどの仄暗い小部屋があった。まだ幼かった誠二は龍一の服の裾を掴みながら恐る恐る後をついて来ていた。

 邦子は部屋の真ん中にある台座のような物の前に立つと、二人の息子を手招きした。龍一たちが近寄ると、台座の上には暗証式の入力画面が見える。そこに邦子がある番号を入力すると、上部の黒い蓋の部分が静かに開いた。そしてその中から現れたのは五十センチ平方はあろうかという大きな琥珀の塊だった。

 琥珀の価値など全く知らなかった龍一は、まるででっかいべっこう飴の様だと呑気に考えていたものだが、今思えばあれはとてつもなく価値がある代物だと身を震わすほどだ。

「龍一、誠二。これが宝泉家に代々伝わる琥珀よ」

「すごいオレンジ色に光ってるね」

 誠二が目をキラキラさせながら琥珀を覗いた。

「そうよ、琥珀はね、おじいちゃまの会社で加工して宝石になるとっても大切なものなの」

「これが宝石になるの?」

「そうよ、龍一。お母さんも今首に付けてるでしょう」

 そう言って邦子はかがみ込むと、二人に身に着けていたネックレスを見せた。それは仄暗い部屋の中で少しだけ輝きを放っていた。

「琥珀はね、ダイヤモンドとかとは違って肌に触れたときに温もりが感じられるの。そして身に着けているのを忘れてしまうくらいとっても軽いのよ」

 龍一はもう一度琥珀の塊を覗き込む。

「それにね、琥珀の石には不思議な力があって、精神を安定させて疲れやストレスを癒してくれるって言われてるのよ」

「へぇ、すごいね」

 誠二は興奮した様子で邦子のネックレスに付いている石を触った。

「イギリスではよく結婚十年目に琥珀を送る『琥珀婚』っていう習慣があるのよ。琥珀をプレゼントするっていうことは、相手に幸運を送るっていう意味なの。長い年月をかけた愛が花咲くって意味もあるわ」

「じゃあこのネックレスも?」

「そう、結婚十年目にお父さんがプレゼントしてくれたの」

「すごいね」

 盛り上がる邦子と誠二とは裏腹に、龍一はどこか冷静な気持ちでそのオレンジ色の琥珀をぼんやりと見つめていた。自分は男だし、あまり宝石やアクセサリーには興味はないし、そんな迷信めいた習慣にも心は引かれなかった。

「龍一」

「え?」

 そんな龍一を見越してか、邦子は

「琥珀って英語で何ていうか知ってる?」と尋ねた。

「知らない」

「英語ではアンバーっていうのよ。聞いたことない?」

 龍一は誠二と顔を見合わせて首を傾げた。

「アンバーはね、『りゅうぜんこう』っていう意味よ」

 さらに龍一の顔にクエスチョンマークが浮かぶ。邦子は奥の戸棚の中から理科の実験セットのようなアルコールランプと鉄製の長いスプーンを取り出した。そして一緒に棚から持ってきたと思われる一センチ弱の少し色の濁った琥珀の石をスプーンの上に乗せる。アルコールランプに火をつけると、琥珀の石をランプの上にかざした。

「何してるの?」

 龍一が尋ねると、邦子は何も言わずにただ微笑む。

「あれ、なんかいい匂いがする」

 誠二が皿に顔を近づけた。

「アンバーはこうして熱すると甘くていい匂いがするのよ。とっても落ち着く香りでしょ? アンバーの語源はアラビア語で『龍涎香』、漢字で書くと龍が涎を垂らすほどいい香りって意味よ」

 邦子がそう話している間にも、龍一の鼻にはとても甘くて魅力的な香りが放たれてきている。

「お兄ちゃん、涎垂らさないでね」

「は?」

「だって、龍が涎垂らす匂いなんでしょ?」

 そう言って誠二が馬鹿にしたように笑う。

「うるせえよ」

「でもおじいちゃまの会社の名前も龍涎香から取っているし、龍一の名前ももちろんそこから名付けたのよ。将来はこの宝泉家を守る大事な役目を背負っているんですからね」

 邦子の笑みに、誠二の首根っこを掴んでいた小さな手をパッと放した。

 龍一はそんな大昔の思い出に耽りながら、じっと手の中の琥珀を見つめた。

 あれ以来、実際に琥珀を燃やして匂いを嗅いだことはない。けれどもあの瞬間の感動は今でも忘れられない。あれほどに甘くて柔らかい香りは、おそらくこの世には存在していないだろう。  



   3


 カウンターでタコの刺身を摘まみながら、龍一は四杯目のジョッキに口を付けていた。

「せっかく宝泉家の盛大な披露宴に御呼ばれされると思ったのになぁ」

 そう言って笑いながら隣の龍一から睨まれているのは小、中の同級生、大橋和正だった。龍一は帰省してきた翌日、町の級友ら十数名と近所の居酒屋での集まりに参加していた。たいてい市外に行ってしまった者たちが帰ってくるのは盆か正月くらいなので、毎年恒例の飲み会兼同窓会のようなものだ。

「悪いけどあと何年も先の話だね」

 龍一はこの店に入ったとたんに、「おめでとう」、「子供はまだか?」などと声をかけられ、開口一番に

「婚約は間違い、爺様の先走りだ」と言い放った。

「それでもお前、付き合ってる奴とかはいないの?」

 大橋はモツ煮込みを摘まみながら問いかけた。大橋は同級生の中でも特に仲が良かった男で、学生時代はずっとバスケットをやっていたせいか仲間の中でも頭一つ飛び出るほどの大男だ。今は市役所に勤める公務員で、高校の時から付き合っている彼女とそろそろ身を固めようかという頃だった。

「今はいない。恋人はラップトップだな」

「仕事人間かよ。つまんねえぞ、人生」

 大橋はずり下がった黒縁眼鏡を上げながら笑った。

「まぁ焦んなくてもそのうち何とかなるだろ」

「本当にお前の家は何とかなりそうだから怖いよ」

 アラブのお姫様と見合いでもするんじゃねえか、と大橋がまた笑う。

 そしてふと、鯛の刺身を箸で摘まんだ時に龍一の脳裏に十五歳の少女の顔が思い浮かんだ。

 今までもこうして恋愛や結婚話になると必ずと言っていいほど思い出すのは彼女の、司の姿だった。たった一年足らずの付き合いだったし、何なら他にもっと長く付き合った相手だっていた。それでも思い出すのは、司だった。

 別に特別未練があるわけじゃない……初恋だったから……初めての相手だったから……ただそれだけだ。

「俺らの周りもどんどん結婚していくしな。今年は佐藤に千葉に、剛の奴も結婚したな。あ、あと真壁がリカと婚約したらしいぞ」

 大橋から出てくる同級生たちの朗報も、右耳からそのまま左耳へとすり抜けていく。

「そう言えばさ、龍一、波多司って子覚えてるか?」

 思わず龍一は驚いて醤油の入った小皿に鯛を落下させた。

「あ、ごめん」

 大橋の前に跳ねた醤油を布巾で拭きとる。

「あの子の父親、実は震災で亡くなってたらしいぞ」

「え……?」

「こないだうちのおふくろが話してたんだけど、銀浜の浜辺で津波にやられたらしい」

「で、でも……たしかF県に引っ越したんじゃあ……」

「だよな。だけどほら、母親の地元がこっちで墓も銀浜にあるから、ちょくちょくこっちには帰ってきてたみたいだぞ。全く不憫だよな」

「そんな……」

 だって司の母親も事故で亡くなっているというのに、今度は父親まで。

「じゃあ今の司は……」

 一人ぼっちなのか?

「何かほら噂ではさぁ、中学卒業してから精神病院に入院したなんて話もあったし、その後に実はひっそり亡くなってたなんて話もある」

「嘘だろ!」

 思わず出た声の大きさに龍一自身がびっくりして思わず口を押さえる。

「いや、ただの噂だよ。そういえばお前、司の事好きだったんだっけ?」

「……中学のときの話だよ」

 あの彼女が亡くなったなんて嘘だ……絶対に信じられない。

「可哀想だったよな、母親を自殺で亡くすなんてさ」

「は? ちょっと待て」

 自殺だと?」

「事故じゃあなかったのか?」

「それは表向きに俺ら子供はそう聞かされてただけ。本当は風呂で手首切って自殺したんだよ。これ結構有名な話だったけどお前知らなかったの?」

 何だか急に酔いが回ってきたのかもしれない。龍一は胸を打つ強い鼓動に、ぎっとりと背中に嫌な汗が滲んだ。

「まあそう考えるとうちらは震災でも家族は無事だったし、この平凡な生活が幸せってことなんだよな」

 大橋は龍一の変化にも気づかずに、自分で言ったセリフに満足げに笑みを浮かべていた。

 一次会が終わると、大橋の彼女がライトグリーンのモコで彼を迎えに来た。

「龍一は二次会どうする? もし出ないならうちの車で送っていくけど」

「あ、あぁ」

 喉につかえた魚の骨のように、司の話は龍一の心を切り詰めた。もう今夜はこれ以上酒を飲む気にはなれない。

 居酒屋の手前の道路で大橋の彼女を待っていると、ほぼ車の通りのない道から一台のモコが見えた。二人の前で停車した車の運転席から、慌てた様子の彼女が大橋に向かって声をかけた。

「ちょっと今さっき井中さんから連絡があって、海で人が泳いでるって」

 黒髪のボブヘアで、目がクリッとした可愛らしい彼女だったが、顔に似合わず声がしゃがれていた。

「は? こんな真冬に?」

 彼女は龍一の存在に気付くと、「どうも」と軽く会釈をした。

「そんなの俺が知るか。今日は休みなんだよ」

「ところがどっこい、その浜ってのは宝泉家の私有地みたいでさ」

 彼女は龍一の顔を見て、「ナイスタイミングね」と皮肉そうに笑った。

「龍一……どうする?」

 大橋は不安げに龍一の表情を窺った。

「とりあえず、様子だけ見に行こう」

 龍一は二人と共に、銀浜の浜辺へと向かった。

 ほぼ街灯もない真っ暗な道を海岸へ向かって走らせる。助手席に座っている大橋は携帯で何度も上司であろう井中氏に連絡を取っている様だった。後部座席に座った龍一はこんな時でも、ずっと窓の外の暗闇を眺めながら司の事を考えていた。

 死んでしまったなんて……考えられない。

 海岸沿いの土手に車を止め、窓を開けて真っ暗な浜辺の方を三人は見つめる。

 そこにはひんやりとした冷気と穏やかな波の音が聞こえるだけだった。

「これじゃあ良く見えないな、ライトあててみて」

 大橋の言葉に、彼女は車を方向転換させて浜辺の方に向かってヘッドライトを照らした。

「待って、灯台の灯りの下に何かいたっ」

 彼女が驚いた様子で声を上げる。海を照らす灯台はゆっくりと左右に動きながら暗い海の上を照らし続けている。龍一と大橋は目を凝らして暗い海をじっと見つめた。

そしてそこに見えたのは、海の中へ向かっていく一人の人間だった。

「おい、やべえぞ」

 思わず龍一はドアを開けて外に出た。

「龍一?」

 大橋の声も聞かずに、龍一は浜辺へと駆け出す。よく見るとその人物は上着も身に着けていない……というか服を着ているのかすらも微妙なシルエットだ。こっちはダウンジャケットにカシミアのセーターまで着こんでいるというのに。この師走の時期に海水浴だなんて正気か?

「おい!」

 大声で呼びかけてみるが、その人物はどんどん海の深いところまで進んでいき、腰の高さまで海の中に入ってしまった。

「マジでやべえんじゃねえの」

 まさか自殺か? 俺んちの海でやめてくれよ。

「龍一!」

 大橋が後ろから走ってくるのが分かった。すると次の瞬間、海の中にいた人物はちゃぽんと頭まで潜って姿を消してしまった。

「バカ野郎が」

 呟くと、龍一はダウンジャケットをその場に脱ぎ捨て、履いていた靴を脱ぐと海の中へ突進した。

「龍一! やめろ!」

 これでも泳ぎには自信がある方だ。浜育ちさながら、この海はさも自分ちの庭のようなもの、慣れっこだ。体を突き刺すような冷たい水の中に潜ってかの人物を探す。すると、五メートル先の方に人形のように漂う物体が視界に入った。

(あそこだ)

 やはり自殺か? こんな年末に無理しやがって。

 波の中を泳いで進んでいくと、やはりその人物は服を身に着けていないことがわかった。長い手足を水中に放り投げるようにして、沈むわけでもなくただ揺れている。

 そろそろ龍一の呼吸の方が限界に近づいていた。しかも水を含んだセーターは重りのように龍一の体を下降させていき、摂取したアルコールが胃の中でぐるぐる回りだしている。

(早く捕まえないと……)

 あとほんの少しで腕が届くといったその時、目の前の人間は驚いたように急にくるりと体を回転させ、龍一の方を見た。

 その人物は男性で、水中とは思えないほど目を大きく見開いていた。そして何よりも龍一を驚かせたのはその表情だった。彼はまるで地上にいるかのような自然な表情で、一切の苦しさをも感じていない様子だった。

 二人は目を合わせて互いの顔を見つめる。

 龍一は目の前の男の顔を、知っていた。

 忘れ得もしないその美しい顔立ちは……

(司……?)   

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る