第14話尾崎梨乃「蓋」

 桜とのランチを終えて自宅に帰ってきた私は、ここ最近の疲れを癒すためにお風呂に入ることにした。今日はこの後予定もないし、とっておきの入浴剤を入れちゃおうかな。乳白色に変化したお湯をパシャっと首から肩にかけてかけてみると、まるで温泉に入っているような気分になる。まあ、実際は狭いお風呂なんだけどね。


 体が少しずつぽかぽかしてくれば、体だけでなく心もほぐれていく。自分の体から疲れが抜けていく様を感じながら、私は今日の桜とのランチを思い出していた。『梨乃ちゃんって、ホントに松永君の事が好きなんだね』桜から言われたこの言葉がずっと引っかかっている。好き?私が?松永君のことを?


 ………。好き、なのかな。腹黒毒舌王子なのに?……ううん、違う。確かに口は悪いし生意気だけど、素敵な所がいっぱいある。


 好きなんだ、私。松永君の事。偽彼女として松永君の傍にいるうちに、会社とは違う松永君を知る度に、私の松永君に対する恋心は少しずつ育っていたようだ。自分の気持ちに気付いた途端、なんだか恥ずかしくなって、頭までお湯につかった。


 プハっとお湯から顔を出して呼吸を整える。私いつから松永君の事が好きになってたんだろう。バーベキュー?いや、違うな。二人でベーグル食べに行った時?うーん、なんか違う気がする。やっぱり、偽彼女としてご飯に行ったり、会社で接する内に少しずつって感じなのかな。

 

 …………待てよ。偽彼女?偽彼女の私が本当に松永君の事を好きになったってことは、偽物じゃなくて本物の彼女になりたいってこと?でもそれじゃあ、私って北見さんとか、前にもつ鍋屋で会った松永君の後輩達と一緒ってことだよね。松永君、前に『友人関係に恋愛を持ち込まれるの嫌』って言ってた。私と松永君が友達かは分からないけど。


 そもそも、女友達と恋愛関係でごたごたしたり、それが原因で仕事が円滑に進まなくなってるから私に偽彼女を依頼してるのに…その私が松永君のこと好きになるとか。ミイラ取りがミイラになっちゃってるよ。


 だめじゃん、私。松永君の事、好きになっちゃダメだったんだ。

せっかくお風呂で気分もぽかぽかになっていたのに、心が急激に冷えていくのを感じた。なんだか勝手に涙が流れてきた。あー…誰かを想って涙するなんて、何年振りだろう。せっかくの涙なんだから、どうせならうれし涙が良かったけど。


 しばらく泣いて少しすっきりした私は、これからの事を考えることにした。万が一、私のこの気持ちが松永君にバレたら…きっと松永君は他の女子と同じように、私を遠ざけようとするだろう。偽彼女も終わりだ。……それはダメ。本当の彼女になんてなれなくても良いから、偽彼女として傍にいたい。そのためには、今まで以上に仕事はちゃんとこなさなきゃ。仕事に支障が出たら、それこそ北見さんの二の舞になるもんね。


 現状維持。私が出した結論はこうだ。しっかり自分の仕事はこなしつつ、松永君とは偽彼女として適度に接する。もちろん私の好意に気付かれる訳にはいかない。そして、最初に交わした契約書の通りに、営業部の業務改善が成功し、松永君の周りの女子が大人しくなったら…偽彼女の任期は満了。その頃には、きっと私のこの松永君への気持ちも落ち着いて『仲の良い会社の先輩後輩』的なポジションに収まることができるだろう。


 せっかく自覚した恋心だったが、私は早々にこの気持ちには蓋をすることにしたのだった。


 バーベキューでの一件から、営業部の雰囲気が変わったという話が私の基に届いたのは、ゴールデンウィークが明けてしばらくしてからのことだった。篠宮さんが言うには、北見さんはかなり大人しくしているらしい。さらに、日高さんと葉山さんを従えて何か画策している様子もないことから、事実上親衛隊は解散したと言えるみたいだ。松永君は相変わらず忙しいようで、会社にいるよりも出張で地方にいることの方が多い。恋心に蓋をしたと言っても、実際に顔を見ると気持ちが揺れるかもしれないから、私にとっては今の状況は都合が良い。私と松永君はなかなか顔を合わすことはないが、松永君は地方に行く度にしっかりと市場品を購入してきてくれるからとても助かっている。市場品の評価だが、松永君は予想外にとても丁寧に評価してくれる。企画にスカウトしたいくらいだ。


 さて今日は、日高さんと葉山さんを誘ってランチに来ている。この前のバーベキューの時に野菜の準備をほとんどやってもらったから、そのお礼。私が指を切って戦線離脱した後は、二人が全部やってくれたんだよね。今日は桜も一緒のはずだったんだけど、仕事が立て込んでいるらしく今日は三人だ。

「日高さんと葉山さんは、最近仕事忙しいの?」

ランチを食べながら、私は二人に問いかけた。

「最近はかなり落ち着いてます」

「北見さんから仕事を無茶ぶりされることもなくなったので」

「ちょっと!」

日高さんが焦ったように葉山さんの腕をつつく。

「大丈夫だよ、営業部の事はなんとなく聞いてるから」

「す、すみません…」

「最近は、北見さんと一緒にいないの?」

「それが、ゴールデンウィーク明けから何か変なんですよね、北見さん」

「というと?」

「松永さんの仕事を率先して担当しなくなったのは第一なんですけど、今までは絶対定時に帰ってたのに最近は遅くまで残って何かしてたり…一度何をしてるのか聞いたんですけど『あんた達には関係ない』って突っぱねられちゃって」

「そうなんだ」

北見さん、何を考えてるんだろう?ちょっと不気味だな。

「そんなことより!私達、尾崎さんに聞きたいことがあるんです!」

不意に、日高さんが目をキラキラさせて切り出した。

そういえば、この間のバーベキューの時もそんなような事を言ってたっけ。

「何?聞きたいことって」

「どうすれば松永さんみたいなイケメンと付き合えるか、です!」

「えーーっと…」

どうしよう、だいぶ無理難題だった。

日高さんと葉山さんの若さに圧倒されつつも楽しくおしゃべりしてランチを終えた。

ランチ後には「尾崎さんってやっぱり素敵です!松永さんの彼女なのも納得です!師匠って呼ばせてください!」と、なぜか弟子入りを志願された。たまに付いていけない時もあるけど、良い子達だなーと思う。この子達はきっともう大丈夫だろう。不気味なのは北見さんだけだ。この前の一件で松永君の事を諦めたとは到底思えない。『覚えてなさいよ』って言ってたし。


 北見さんの事は注意していたものの、平和に過ぎていく毎日にその危機感はだんだん薄れてしまっていた。そんな私の事をあざ笑うかのように、バーベキューの一件から約一カ月後に事件は起きるのだった。


 

 











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