第7話尾崎梨乃「ベーグルと指輪」
無事に偽彼女の契約が締結され、私が頼んだメニューが到着した。
「あ、きたきた」
「そういえば、何頼んでくれたんですか?」
「ふっふっふ…それはね…」
「お、ベーグルですか?」
「うん。中身はね、こっちが紫キャベツとスモークサーモン、でこっちがクリームチーズといちじく。一昨日サーモン食べてたから生もの大丈夫だと思ったんだけど、大丈夫だった?」
「サーモン大好きです。一昨日俺がサーモン食べてたの、ちゃんと見てたんですね。さすがの観察眼」
「褒め方があんまり嬉しくないわ。ほら、出来立てを食べよう」
「そうですね」
私も、まずはサーモンサンドを一口。うん、美味しい。サーモンの燻した風味が食欲をそそる。松永君も美味しそうに食べている。良かった。
そして、私的にメインはこっち、クリームチーズといちじく!
一口かぶりつくと、いちじくの甘さとクリームチーズのバランスがなんとも絶妙。
ベーグルのモチモチといちじくのぷちぷちとした食感の違いもまた面白い。
「俺、いちじくってあんまり自分で頼まないんですよね」
松永君が突然話し出したから、少し驚いた。
危ない危ない、完全にいちじくとクリームチーズの世界にいたわ。
「でも、目の前にそんなに美味しそうにかぶりつく人がいたら、流石にどんなもんか食べてみたくなりました」
あら、お行儀悪かった?私はベーグルサンドをお皿に置いて一呼吸すると、少し背筋を正した。
「どうぞ、お召し上がりください。当店自慢のベーグルサンドです」
「何急に店員になってるんですか」
松永君は、ふはっと笑っていちじくのベーグルに手を伸ばした。
「それじゃあ、いただきます」
………どうかな。私的にはめちゃくちゃ美味しいんだけど。
「うん、旨い!」
ぱあっと明るい笑顔を見せてくれた松永君を見て、少しだけ安堵した。
「良かったー。ちょっと緊張しちゃったよ」
「流石ですね。めちゃくちゃ美味しいです」
ベーグルサンドを堪能し、私達は帰路についた。電車から見る外の景色はオレンジ色に染まっていて、なんだかそれだけでちょっとノスタルジックな気分になる。
「いやー、今日は楽しかったです」
松永君はニコニコしている。会社で見せるスマートな笑顔じゃなくて、無邪気な少し子供みたいな笑顔。
「ベーグルサンド、美味しかったね」
少しは、私に心を開いてくれたのかな?なんて。
「それもそうなんですけど、俺、女性と二人で食事に行ってこんなに楽しかったの初めてです」
「そうなの?」
『初めて』と聞き、流石に驚く。
「はい。だいたい女性と二人で食事に行くと、食事中は俺の好きなタイプを永遠と聞いてきたり、いかに自分が彼女として女として魅力的かを一方的に語られたり。楽しかった思い出があんまりないんですよね」
……。もしかして、松永君が腹黒王子になっちゃったのって、そのモテすぎる性質故に変な女もたくさん集まってきたのも原因なんじゃ。
「そ、そうなんだ。モテすぎるのも大変なんだね」
「はい。だから今日は本当に楽しかったです」
松永君はそう言って今日一番の笑顔を見せてくれた。その笑顔は夕日に照らされてとても綺麗に見えた。
「あ、そうだこれ」
私は鞄からある物を取り出して、松永君に渡した。
危ない危ない、松永君の笑顔に見とれて忘れるところだった。
「これ、さっきの店のクッキーですか?」
「うん。今日のお礼。お店の予約ありがとう。私も楽しかったよ」
松永君の笑顔には及ばないけど、精いっぱいの笑顔を見せて、私も感謝を伝えた。
「この紅茶のクッキー、私の勘によると絶対美味しいから。食べてみて」
こうして松永君と他愛もない話をしていると、私が降りる駅に到着した。
「それじゃあ、また明日」
「はい。お疲れ様でした。クッキー、ありがとうございます。明日から偽彼女、よろしくお願いします」
「が、頑張ります」
電車の中の松永君に手を振り、私は家路を急いだ。
案の定、翌日会社は大混乱に見舞われた。
「ねえ、見た?松永君の左手の薬指!」
「見た見た!あれってペアリングだよね?あー、とうとう王子に彼女ができちゃったか」
こんな会話が、会社の至る所で繰り広げられている。
まあ、そうなるよね。首からかけてるネックレスが、なんだか重たく感じる。
ひとまず、そんな話は関係ないと言わんばかりに、通常運転で仕事をこなしていく。
「よし、できた。営業部に見積書提出してきます」
チームのメンバーに声を掛けて、私は営業部のフロアへ。
松永君はどうしてるかな…わ。やっぱり女子に囲まれてる。
私は営業部のフロアの扉を開けて「お疲れ様です」の声と共に中に入っていく。
松永君を囲んでいる女子は三人。あれが親衛隊かな?
お、すぐに退散していった。指輪の効果かな。
さて、私も用事を済まそう。
私は同期の桜の所で歩を進めた。
「桜、お疲れ」
「梨乃ちゃん、お疲れ様」
清潔感漂うホワイトシャツに薄ピンク色のフレアスカートに身を包んだ桜が、私に笑顔を向けてくれる。
今日も可愛いなぁ、流石社内の『お嫁さんにしたい女性社員ナンバーワン』だわ。
「はいこれ、見積書。処理よろしくね」
「はーい、ありがとう。…って、もー梨乃ちゃん!」
?なんだ?
桜が呆れ半分笑い半分といった表情で私の右耳付近に手を伸ばす。
「なんでここに赤ペンがあるの!もー、梨乃ちゃんは」
そう。朝一で使った赤ペンを耳に挟んだままだったのだ。
嘘でしょ、私ずっとそのまま仕事してたの…。
「ご、ごめん。ありがとう」
「企画の人達なんで誰も言ってくれなかったんだろうね」
「あ、それは…多分いつものことだからだと…」
「もー、梨乃ちゃんらしいというか。でも流石に梨乃ちゃんと言えど、耳に赤ペン挟んでたら競馬新聞片手に予想してるおじさんと一緒になっちゃうよ」
「き、気を付けます…。さ、そろそろ戻ろうかなぁ!」
桜のお小言が続きそうだったので、無理矢理会話を終わらせて、赤ペンを桜の手から奪還しデスクに戻ることにした。
こういう時はさっさと退散するに限る…っと。
「じゃ、またね桜」
「はいはい、またね」
「尾崎さん!」
企画部に戻ろうとした私に声を掛けたのは松永君だった。
「松永君、おはよう」
「おはようございます。企画に用事あるんで、一緒に行きます」
そう言って私の隣に立った。
営業部のフロアを出て廊下に出れば、運よく今は誰の気配もない。
私達は小声で話しながら企画部に向かった。
「どう?指輪の効果は」
「予想通りです。さっき親衛隊が直接聞きにきたんで、『彼女ができた』ってはっきり言っておきました」
私が見かけた時かな。
「そっか。じゃあ、ここから親衛隊による松永君の彼女探しが始まるのかな」
「でしょうね」
「覚悟しておきます」
「それはそうと……全然見えないじゃないですか」
松永君はそう言って、自分の鎖骨辺りを指でトントンと差した。
直接口に出さなくてもネックレスのことだということが分かる。
「つ、付けてきたんだから良いでしょ。ほら、角度によってはチェーンは見えるでしょ」
ちなみに私が今日着ているトップスは、心なしか首元の露出が少なめなもの。
チェーンがチラっと見えるか見えないかのものだ。
流石に昨日の今日だから少し恥ずかしくて…なんて乙女なことは口が裂けても言えない。
「そ、そういえば大阪出張っていつからなの?」
無理矢理話題を変えたけど、不自然だったかな?
「明後日です。もしかして、寂しいですか?」
悪ガキのような笑顔で私の顔を覗き込んでくるから、心臓に悪い。
そういえば、会社でも私の前では猫被らないのね。
「何言ってるのよ。会社が平和で良いなと思っただけ。ちゃんと土産菓子買ってきてね」
「なんだ、残念。土産菓子は任せてください。ちゃんと契約書の内容は守りますから」
契約書。その言葉を聞いて少しだけ複雑な気持ちになったのはなぜだろう。
自分が作ったものなのに、変なの。
「よろしくね。じゃあ、私はデスクに戻るから、また」
「はい、お疲れ様です」
ちなみに、企画部でも松永君は指輪の件で質問攻め。
改めて、今日ネックレスがよく見えない服で着て正解だったなー…と思った私だった。
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