第2話 怪しい北の方
荷物は、小さな行李が一つ。
供はなし。
急な移動だ。着物を含め、大抵のものは花房家で工面することになっている。
熊野詣に行っている息子たちが戻るまでの、数日の仮住まいということで、 必要最低限の物だけを詰めてきた。
残っていた数少ない女房や使用人には、一旦、暇を告げたという。
「この度は、誠にご愁傷様でございました………」
土筆が、夫をなくしたばかりの北の方を慮って、言葉少なに頭を下げる。すぐ隣の菫も、それに倣って、両手をついて頭を下げた。
北の方は、涙を拭う袖を離して床につき、
「こちらの方こそ、ご厄介おかけいたします………」
元は、夫に引けを取らぬ、明るい方だったという。
夫の笑み少納言同様、誰とでも別け隔てなく話す人で、いつでも、にこやかで上機嫌。人好きする性格が、ふっくらとした頬の顔立ちに、そのまま現れたような人だ、と。
しかし今は、その顔も窶れて、見る影もない。明るい性格の片鱗はなく、いっそ神経質にすら見える。
土気色の顔で揃えてついた手は、震えていた。
ふと土筆は、その指先に、何かで切ったような傷があるのに気がついた。
「あの、お怪我を……?」
タマに、手当するための道具をとってくるよう告げると、北の方は慌てて、傷を隠すように反対の手で指先を覆った。
「大丈夫です。血も止まっておりますので。」
「しかし……」
「大丈夫です。」
北の方が、あまりにも強く言い切るので、土筆も、それ以上は言えず、
「……分かりました。それでは、何かありましたら、こちらのタマに申し付けてくださいね。」
女房を連れていない北の方の、花房邸での世話はタマが行うことに決まっていた。
「至らぬことも多いかと存じますが、何卒、よろしくお願い申し上げます。」
タマが頭を下げると、北の方も軽く会釈をして、「どうぞ、お構いなく。」と、短く答えた。
その日、北の方は、菫の部屋に引っ込んで、それっきり姿を見せなかった。
土筆も、菫と絵巻物を読んだり、五目並べをしたり、貝合せをしたりして過ごした。
平穏な午後だった。
途中、タマが様子を伺いにいったが、北の方からは、「静かに休みたいので、一人にして欲しい。」と言われたらしい。
そして、その通りに、菫の部屋は人のいる気配さえ感じさせないほどに、静かだった。
その日の晩のこと。
皆が寝静まっている頃。土筆は、カタンという音を聞いた気がして、目を覚ました。
横を見ると、菫は仰向けでスヤスヤと眠っている。
部屋がいつもと違うけど、ちゃんと眠れるだろうかと案じていたが、それは心配なさそうだ。
それより、さっきの音はなんだろう。
土筆は意識を外に向けた。
何か動くような音。いや、物を置くような音かもしれない。
土筆は床に伏せたまま、くるりと身体を翻して横向きになると、目を瞑って耳をそばだてる。
聞こえるのは、風の音。
今日は風が強いのか、しきりに御格子をカタカタと揺らしている。
なんだ、さっきのカタンというのは、この音だったのね、と目を瞑ろうとしたとき、今度は風にのって、「う”〜、うぅ”〜〜」と、唸り声のような音が聞こえる。
土筆は、パッと身体を起こした。
もう一度、耳を澄ませる。と、やはり、びゅぅびゅぅという風の音に紛れて、獣の唸るような低い声が混じっているような気がする。
「……何の音かしら?」
今はーーー子の刻か、丑の刻辺りだろうか?
タマも、とうにいない。
音は、どこからしているのか?
風に混じっていて方向の判別つかないが、なんとなく菫の部屋の方からしている気がする。
野盗だろうか? また、この近くを彷徨いているのかしら? それに警戒した犬たちが鳴いているのかもしれない。
仮に野盗だとしても、父も、屋敷の警護を厚くしたと言っていたし、何も心配することはない。
そうよ、心配することはないのよ。
土筆は、心に言い聞かせて、ギュッと目を瞑った。
すぐ横で、菫の規則正しい寝息の音がしていた。
* * *
土筆はどうやら、そのまま眠りに落ちたらしい。
次に目を開けたときには、明るい日差しが飛び込んできた。
「おはようございます。」
声につられて横を向くと、狐目にそばかすの女房に髪を梳いてもらっている菫と、目があった。
外から差し込む光を浴びて、艷やかな頬をキラキラ輝かせながら、
「お姉さま、よくお休みだったので起こさないでおいたのよ。」
土筆は身体を起こして、
「ごめんなさい。もう随分、日が高いようね。」
「私は、とうに朝餉を頂いたわ。」
「もう、そんな時間……?」
と、ふと菫が、妙に上機嫌なことに気づいて、
「今日は……何かあったかしら?」
いつも自室に籠もりがちな菫だが、今は自分の部屋が使えない。気疲れしているかと思ったのに、むしろ土筆より元気にみえる。
「今日は、お母さまのところで過ごすのよ。」
「母さま?」
菫の呼ぶ「お母さま」とは、土筆と長女の牡丹の母、嶺の
父の愛人だった菫の母が亡くなり、菫はこの家に引き取られて来た。だから土筆の母は、菫にとっては継母にあたる。
だが、根雪と菫の関係は、とても良好だった。
根雪は、娘の土筆から見ても不思議な女性で、ハッキリ言って、土筆には全く似ていない。
性格は、一言で言うと『物静か』。相手に合わせるような
そういう意味では、姉の牡丹とも、あまり似ていない。
父、資親の持つ華やかな社交性は姉に受け継がれ、そして、おそらく、頭でっかちと揶揄される賢しさは、土筆に受け継がれたのだ。
牡丹と土筆の姉妹で、母から唯一もらったのは、姉の色白な美しさくらいだろう。それも、姉のほうがずっと華やかだが。ちなみに土筆に至っては、残念ながら、見目も父譲りだった。
そのせいか母は、実の娘である牡丹や土筆と打ち解けているとは言い難い。にも関わらず、血の繋がっていない菫とは馬が合うようで、不思議なものだ。
たぶん、相手に合わせる根雪の、押し付けがましくない優しさが、菫にとって心地よいのだろう。
「菫さまを気遣って、根雪さまが声をかけてくださったんですよ。」
菫の髪を整えている女房が言った。土筆は、「ふぅん。」と相槌を打って、
「今日はずっと、北の対屋(母の部屋)で過ごすの?」
「そうですね。お姉さまのところは、中将さまがみえるようなので、そうしたほうが良いと、お母様が………」
菫の言葉に、土筆は驚いて跳ね起きた。
「え? 時峰さまが、見えるですって?!」
「先程、先触れの方がいらしていたようですよ? 昼頃みえる、と。」
先触れとは、来訪を前もって告げに来る人のことなのだが、いつも知らせなどなど寄越さずにやってくることも珍しくない時峰にしては、随分と早い告知だ。
笑み少納言の北の方が滞在していることを聞き及んだ時峰なりの気遣いだろう。
土筆の様子を見ていた菫が、目を丸くして、
「そんなふうに飛び起きるだなんて……お姉さまは、中将さまが見えるのを、そんなに楽しみにされているのですね。」
「そ……そういうわけでは……!」
慌てて言い訳じみた言葉を重ねようとした土筆に、菫が頬を軽く膨らませた。
「中将さまに、お姉さまを取られたようで、少し淋しい気がいたします。」
「菫……?」
菫は、言ってからすぐ、顔を赤くして「申し訳ありません。」と謝った。
菫がこの家に来てから、ずっと、一番に彼女の相手をし、世話を焼いてきたのは土筆だった。菫は、土筆以上に世間との交流が少ないのだから、淋しがるのは無理もないのもしれない。
「あのね、菫?」
土筆は床から出ると、菫の前に腰を下ろして、彼女の白く柔らかな手を取った。
「私と貴女は腹違いだけれど、私にとって菫は、とても大事な妹よ。それは、ずっと変わらない。」
そして、それは、土筆だけじゃない。
姉の牡丹も、血の繋がりはない根雪も、皆、菫のことを大事な家族だと思っている、と告げると、菫はホッとしたように頬を緩ませ、いつもの無邪気な笑顔を見せた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、予告通り、時峰がやって来た。
「この度は、大変でしたね。」
菫の部屋に滞在している客人を気遣ってか、いつもより心なしか声を落として、労いを告げる。
「しかも、先程まで、奥の部屋に検非違使が来ていたのたとか?」
土筆は驚いて、「よくご存知ですね。」というと、
「亡き少納言は誰からも好かれる人でしたし、強盗は、まだ捕まっていない。宮中のものは皆、成り行きに関心を砕いています。」
時峰は近衛中将だ。
かつては、強盗が御所に押し入った例もある。帝の警護をする時峰としては、気になるに違いない。
「私も詳しくは存じないのですが、検非違使のほうで、もう少し詳しい話を聞きたいと、こちらに見えたようです。」
「北の方が見たは、後ろ姿だけのようだし、かなり難航しているのでしょう。」
「北の方さまが詳しいことを思い出されて、早く捕まると良いのですが………」
土筆の言葉に、時峰も「本当に。」と頷いて、
「犯人は、灰汁色の着物を来た、痩せた男だそうですね。袴もなく、膝丈の上衣だけだったとか。」
「あら、そうなんですね。」
土筆は、初めて聞く話だった。
「でも、灰汁色の着物では……」
時峰の言う灰汁色の着物とは、木の根や藁などを燃やした灰を溶かした時にできる『灰汁』で染めた、黄味がかった茶色の着物のことだ。
染料代わりに灰汁を使い、そこに、袴も履いていないとくれば、自ずと身分は知れてくる。
とはいえ、もとより強盗などを仕出かす人間。それでは、なんの手がかりにもならないような気もするが。
「あの……」
タマが、時峰と土筆の会話に、遠慮がちに口を挟んだ。
「その……灰汁色の着物の話ですが、どうやら勘違いかもしれない、と。」
「勘違い? 北の方が、そうおっしゃったの?」
検非違使からの聴取は、御簾ごしに行われたという。
家の主である父の資親が立ち会ったが、女房を連れてきていない北の方のために、念のためと、タマも御簾の内に控えていた。
「最初は、確かに検非違使の方たちは、尋ねていたのです。逃げていったのは、灰汁色の着物の男で間違いないですか、と。」
事件の直後に検非違使たちを呼んだときに、そう証言していたのだろう。
そのときは北の方も、「間違いない」と答えたという。
「ところが……その………検非違使の一人が、低い声で何かを北の方に尋ねたのです。」
何と尋ねたのか、タマには聞こえなかった。だが、その後しばらくは、変わったこともなく、話に応じていたようにみえた。
「証言を変えたのは、検非違使の方たちが帰ろうと腰を上げたときです。突然、北の方が、『男の着物は灰汁色ではなかったかもしれない』、と。」
タマは、随分と唐突に感じたらしい。少し焦っているようにも、見えたそうだ。
「灰汁色でなければ、何色と?」
時峰が尋ねると、
「それが………」
タマは、自分の聞いたことが間違っているのではないかと疑っているかのように、自信なさげに、
「白だ………とおっしゃったのです。」
「白?! 灰汁色と白じゃあ、随分違うじゃない。」
「えぇ、そうなんです。」
去り際に突如、証言が変わったせいで、検非違使たちも困惑していたらしい。
「単に変わっただけじゃないわ。よりによって、白だなんて……」
「えぇ。着る人間は、限られますね。」
土筆の疑問を時峰が引き取るように言った。
「白といえば普通、婚礼の衣装か、死装束か……神事の時の神官、もしくは………陰陽師あたりが着ていそうな色です。」
「陰陽師?!」
タマが「ヒッ!?」と、声をあげた。
「ま……まさか…………まさか、ですよね?」
誰を思い浮かべているのかは、聞かなくても分かる。
かつて土筆に毒を盛った、偽の陰陽師ーーー
時峰がすぐに、「いや、決めてかかるのは危険だ。」と、注意を促す。
「出てきた話は、白い着物というだけですし、北の方が急に証言を変えたのも気になります。」
と言いながらも、時峰は意見を求めるように、御簾ごしの土筆を見た。
「私も、時峰さまと同意見です。」
白い着物と聞いてしまえば、否が応でも、あの陰陽師を思い出す。
あの陰陽師が、今回の事件に、何か噛んでいるのか。また、他人を傷つけようとしているのか、
いや、でも、橘貴匁が犯人のはずはない。
貴匁なら、強盗のような殺し方はしないだろう。
だけど…だけど……ーーー
「だからと言って、無関係だと看過することもできない……ように思います。」
橘貴匁は、油断して良い相手ではない。
先日、ここから逃げ出した須美姫から人伝に届いた文にも、須美姫の夫の犬丸が橘貴匁らしき男と遭遇したと書いてあった。
土筆が気にかけているようなのでと、危険が及ぶかもしれぬのを承知で知らせてくれたのだ。
橘貴匁は、今も都を彷徨いている。
そして、どこなく貴匁の影がチラつく、この事件。本当に、ただの強盗の仕業だろうか。
「本当に、北の方さまは、どうして証言を変えたのかしら……。」
検非違使が尋ねたという内容と関係があるのか。
だとすると、検非違使は一体、何を言ったのか。
それに、昨晩のあの音と唸り声。あれは、やはり北の方に何かあったのか。
いや、気になるのは、北の方だけじゃない。
たまたま旅行をしていたというが、これは本当に偶然だろうか。
「………情報が足りないわ。」
これでは、全然判断できない。
そう呟いたとき、まさに、それを補うにふさわしい人物が、
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