第5章 至福の薫香

第1話 闇に紛れて忍ぶ者


 閑かな夜だった。


 上半分を跳ね上げて開けた御格子の向こうから、部屋の中に、ほんの僅かな月明かりが差し込んでいる。


 土筆の耳元で、聞き慣れた声が囁いた。


「………申し訳…ありません。」


 時峰だった。


 心なしか声が震えている。切なげで、でも、背筋がゾクリとするほどに色っぽい。


 湿った吐息が、また、土筆の耳朶をくすぐった。


「……私のために、ここに引き入れてくれたのだ、ということは分かっています。」


 幾度も御簾1枚を隔てて聞いてきたはずの声が、直に耳元で響くだけで、こんなにも感情を掻き立てられるのだとは、知らなかった。


 いや。御簾どころではない。

 今、土筆と時峰の身体は、僅かな隙間もないほどに、ピタリと密着している。


 いつも御簾の向こうにいる時峰の胸に、土筆は抱かれていた。


 背に回した、逞しい左の腕。

 頭を無で、髪を梳く大きな右手。

 上等な直衣のうしに、焚き染められた薫香。


 時峰の全てが土筆を包みこんでいる。


 あまりにも非日常的なその状況シチュエーションに、土筆の心と身体は、何かに急き立てられるように忙なく高鳴り、油断すると、そのまま遠くへ飛んでいってしまいそうな気さえしてくる。


 また、時峰が囁いた。


「貴女が怖がるようなことは、決して、いたしませんから。」


 頬や耳元は勿論、身体全部が火でも吹き出しそうなほどに熱かった。


 でも、怖くはない。


 相手が時峰だから………だろうか。

 あるいは、時峰のほうが、土筆よりずっと怯えているように見えたせいかもしれない。


「時峰さま………」


 土筆は恐る恐る時峰の袖の脇あたりを軽く掴むと、名を呼んだ。

 それに応えるように、土筆の身体に回した手に、ギュッと力が込められた。


 苦しくなる程に、強く、強く時峰に閉じ込められている。



 この世に、まるでたった二人だけしかいないかのように、閑かだった。



*  *  *



 遡ること、数日前……ーーー



 来訪者のいない、のんびりとした昼下がり。


 まぁ、須美姫がいなくなって、時峰も来なければ、そもそも土筆のところへの来訪者など、いないのが常なのだが………。


「暑さも柔らいで参りましたし、そろそろ薄手の着物を整理しておきましょう」


 タマが何やらガサゴソ片付け始めた傍らで、土筆は脇息きょうそくに頭をもたげながら本を読んでいた。


 前は、一人で過ごす時間なんて当たり前のことで、それを何とも思わなかったはずなのに、このところ時峰や須美姫と過ごす時間が多かったせいだろうか。土筆は、珍しく暇を持て余していた。


 それで見かねたタマが、どこかからか手に入れてきた本を「お暇潰しに、いかがでしょう?」と渡してくれたから、読んでいるわけだが………。


 本の中身は、当世流行りの、宮中に出仕しているドコゾの女房の日記。題名は『小春ノ記』。


 この手の日記の代表作であり最高傑作は、かつて中宮定子につかえた某少納言さまが書いたもので間違いなない。

 それ以降、その珠玉の随筆を真似た女房たちが、こぞって次々と日記を書いたが、大半は、かの有名作家の足元どころか、爪の先の先すら程遠いものばかりだった。


 その中にあって、土筆が読んでいる作品は、では、群を抜いていた。


 仮名文字で書かれた文章は誤字脱字の嵐だし、文章は度々、何を言っているのかサッパリ分からない。

 そして、極めつけは、『小春ノ記』という題名にも関わらず、ほとんどが春の話ばかりということ。


 小春というのは、徐々に寒さ増す秋に、ふいに訪れた春のように暖かい日のことを指して使う。つまりは秋を表す言葉ーーーというのが、世の共通認識なのである。


 にも関わらず、著者は『小春』が、春の季節だと思っているのか、これでもかというばかりに春の話題ばかりが続く。


 とはいえ、「これはこれで、興味深いものだわ」などと、それなりに楽しく読んでいると、慌ただしく部屋に向かってくる足音がした。


 何事かしらと顔をあげる。

 現れたのは、土筆の父であり権大納言、花房資親はなぶさ すけちかだった。


 その資親が、腰を下ろすなり言った。


「今晩から、しばらく菫をこちらの部屋で寝起きさせるように。」


 家長からの有無を言わせぬ決定事項。


「今晩から?」

「菫さまが、こちらでお休みになるですか?」


 突然の下知に驚いて、土筆とタマが同時に声を上げた。


「悪いな。急に決まったのだ。」


 別に仲が悪い姉妹ではない。「構わんだろう?」と言う資親に、


「えぇ、まぁ……しかし、なに故に?」


 土筆が尋ねると、父は一瞬怯むように背を反らした。それから、少し言いにくそうに口をモゴモゴと動かし、


「実は……ちょっとした事件があってな。」


「事件、ですか? どのようなものか、伺っても?」

「いや、まぁ………あまり話して気持ちの良いものではないから……」


 明らかに言い淀んでいる。

 ただ事ではなさそうだが……土筆とタマは案ずるように顔を見合わせた。


「お父さま。何があったのか、話してくださいませんか?」


 土筆が改めて尋ねると、横でタマも頷く。


 資親は眉を顰めて、逡巡するような表情を浮かべたが、やがて、溜息をついて、


「そう……か。まぁ、土筆がそう言うのなら……」


 と、重い口を開いた。


「お前は、藤原少納言殿を覚えているか? 小さい頃に、花房邸ここにも、何度か遊びに来ているのだが……」


「藤原少納言さま?……あぁ、『み少納言』さまですか?」

「左様。」


 『笑み少納言』というのは、その藤原某少納言の渾名だ。


 とても気さくで快活な方で、誰にでもにこやかに話しかける人柄から、いつの間にか皆に『笑み少納言』や、『笑い少納言』と呼ばれるようになった。


 父とは仲が良く、土筆がまだ裳着をする前、振分け髪で庭を走り回っていた頃に、何度か一緒に蹴鞠などをして遊んでもらった覚えがある。

 体つきは父より一回り大きく、身体を動かすのが得意な方だった。


「笑み少納言さまが、どうかなさったのですか?」


 尋ねると、資親は沈鬱な表情になって、


「………昨夜、亡くなった。」


「えッ?!」

「まぁッ!!」


 土筆とタマは、また同時に驚嘆の声を上げた。


「そんな……どうして?」


 土筆の声は、驚きのあまり震えていた。


「今年の春の花の宴にいらしていたのを、お見かけしたように思いますが……」


 花の宴の晩、土筆は、近衛中将・藤原時峰を探るために、几帳の隙間から宴を覗いたのだ。

 その時には、確かに笑み少納言は座の中にいて、元気そうに談笑していたはずだ。


「それが、どうして、こんなに突然に……?」


 資親は、沈んだ声で言った。


「少納言の家に、強盗が押し入ったのだそうだ。」

「強盗ですか?!」


 貴族の邸宅に強盗や群盗が入るという話は、時々あった。美しい着物や煌びやかな道具類を盗むのだ。


 どうやら運悪く、笑み少納言の邸宅にも強盗が入り、しかも出会してしまった少納言が被害にあったということらしい。


「それは、不運でしたわね……。」


 つい先日、あんなに明るいく笑う姿を、お見かけしたばかりなのに、その人が突然の強盗に命を落す。なんて儚いことだろうと、土筆は、亡き人の冥福を心の中で祈った。


「それで、強盗は捕まったのですか?」


「いや、まだなのだ。少納言の北の方(正妻)が逃げていく後ろ姿を見たという話だが……」

「それは良かったわ。」


 せめてもの吉報に、土筆はホッと胸をなでおろした。


「それなら、きっとすぐ捕まりますね。本当に不幸中の幸いです。でも北の方さまも、強盗の姿を見てしまうなんて、怖かったでしょうね。」


「問題は、そこなのだ。」


 資親が、神妙な顔で頷いた。


「少納言どのは、随分と強盗に抵抗したらしくな……その…柱や壁にかなり激しい刀傷の跡があったのだとか……」


 あくまで人伝に聞いた話だ、としながらも、資親の表情からは、かなり凄惨な現場であったことが伺えた。


「柱や……ですか? というと、笑み少納言様は、どちらで?」


塗籠ぬりごめに倒れていたらしい。」

「あぁ、なるほど。」


 寝殿造りの邸宅には、基本的に建付けの壁はない。太い柱に、移動可能な几帳や、上げ下ろしできる御簾、開閉式の御格子を使って、部屋を仕切ったり、外との壁の代わりに用いる。


 だが、唯一、建付けの壁が存在する部屋がある。

 それが『塗籠』だった。


 塗籠は主殿や対屋の中心辺りにある、四方を、壁や掛け金のついた扉で覆われた部屋で、主に寝室や貴重品を置くのに使われる。


「では、塗籠に倒れていたのを、少納言の北の方さまが見つけなさったのですか?」


 資親が「そうだ。」と頷いた。


「実は少納言家には、年頃の息子が一人いるのだが、ちょうど折り悪く、その息子殿が熊野詣に出ているらしくてな。それも、滅多にない機会だからと使用人の多くを同行させているのだとか。」


「まぁ?! 熊野詣ですか?」


 熊野詣は、紀伊国にある熊野三社を参詣することだ。何代か前の上皇が初めて、今では貴族だけでなく、庶民でも行くという。

 勿論、行くのは簡単ではない。京から熊野までは長い旅路で、順調に行っても20日以上、通常なら一月ひとつき程度を見ておくものだ。


「息子殿が帰るのは、予定では、まだ4、5日先。北の方も随分と恐ろしい思いをしただろうし、主が亡くなったことを知っている強盗が、また来ないとも限らん。使用人たちもおならぬようだし、そんな家で過ごすのは危なかろう。」


「それで、息子さんが帰って来るまでの間、北の方さまを、こちらでお預かりするということですね?」


 そういうことだと頷く父は、何故か唇をへの字にひん曲げ、


「なんでも、当家が吉方にあたるらしく……御上(帝)から直々に、そうするのが良かろうと言われたのだ。」


「御上から………直々にですって?」


 土筆は一瞬、聞き間違いかと思った。


 だって、それは、いくらなんでも、おかしな話だ。


「何故、ここで御上が出てくるのでしょう?」


 確かに、父と笑み少納言は、仲が良い方だと思う。だから、亡き友人のために妻の世話を、と考えるのは不思議ではない。


 だが、そんなことに帝が口出しをするというのが、土筆には解せなかった。


「笑み少納言さまは、それほどまでに御上の信頼を得ていたのでしょうか?」


 本人亡き後の妻のことに心を配り、直々に采配を振るう。異例中の異例ではないか。


 資親も、土筆の同意見らしく、「私にも、よくわからんのだよ。」と、ぼやくように言った。


「別に少納言の北の方の面倒を見るのは構わぬ。だが、何故、御上からこんな事を頼まれるのか………」


 と、今度は父の口元が、満更でもなさそうに緩んで、


「まぁ、それだけ、私の信頼が厚いということなのかもしれんがな。」


 それを見た土筆が、釘を刺すように、


「お・と・う・さ・まッ!」


 あえて低い声で凄味を効かせて、


「御上の歓心を得ていることに喜ばれているのなら、宜しいのですが、よもや、笑み少納言の北の方さまが、こちらにいらっしゃるのを良い事に、お手を出そうなどと考えていらっしゃいませんよね?」


「なッ……何を言う!!」


 父は狼狽え、


「当たり前じゃないか! 昨晩夫を亡くされたばかり方に、そ……そんな事するわけないだろう。」


「へぇー? それなら、良いのですが?」


 冷めた目を向けて告げると、


「そうでなくとも、一つ屋根の下に、みね根雪ねゆきがいるのだ。いくら私でも、この家でそんなことは、せぬわ。」


 嶺の根雪とは、父の正妻ーーーとどのつまりは、土筆と姉の牡丹の母だ。


 父と母は、長年連れ添っており、決して険悪な仲ではないが、比翼の鳥とも言い難い。


 父は父で、一般的な貴族並みには、外に通う女がいるし、母の方は、そんな父に不満や嫉妬を抱いているようでもない。


 外の女と言っても、子まで成したのは菫だけだし、父は正妻としての母の立場を脅かすようなことはしなかったから、色事遊びの範囲だと割り切っているのだろう。


 ただ、娘の土筆は違う。


 同じ屋敷の中で、それも、菫の部屋で、父が愛人を囲う……なんてことだけは、勘弁願いたかった。


「ともかく、そこは信頼してもらって問題ないとして……」


 資親は、コホンと一つ咳払いをして、


「話を戻すが、北の方殿は、初めのうち、一人で大丈夫だからと随分遠慮していたそうだ。だが、御上に言われれば致し方ないということで結局、うちに来るということで話がついたのだ。ただ、それなら人目に触れない静かな部屋にして頂きたいと願い出てきてな……。」


 人目に触れぬ静かな部屋……それなら確かに、屋敷の最奥の菫の部屋が尤も適当だろう。


「菫には話してあるのですか?」

「ここに来る前にな。強盗のことは言っていないが。」


 確かに、気の弱い菫には、そんな恐ろしいことは伝えないほうがよい。


「多少、驚いていたようだが、まぁ、お前の部屋に移るだけだ。心配いらんだろう。それに……」


 父は、やや深刻そうな顔になり、


「強盗が外を彷徨いているかもしれぬのなら、菫を一人で寝かせるより、お前がいたほうが安心だ。」


 勿論、花房家にも警固の者はいる。

 だが、土筆や菫の部屋は、屋敷の端。何かあった時に、すぐに駆けつけられないかもしれない。


 土筆は、あの橘の木に立っていた、貴匁の姿を思い出す。


 確かに、決して侵入不可能な屋敷ではないのだ。


「お前は聡いし、機転も利く。この部屋には、時峰殿もよく来ているから、目も行き届くだろう。北の方にも、菫にも………都合がよいのだ。」


 都合がよい。

 土筆は、父のその言葉に、僅かな引っ掛かりを覚えた。


 都合が良いとは、どういう意味だろう。

 単純に、野盗の危険に目を光らせて欲しいということか、それとも何か別の意図を含んだ言葉か。


 父も深くは話さぬが、御上からの依頼ということ気になっているのかもしれない。

 どちらにしても、断ることはできぬ話。


 土筆は、釈然としない気持ち悪さを抱えながら、「分かりました」と頷いた。

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