第8話 感謝の挨拶


「本当に、須美姫は今頃、どうしているのでしょうね?」


 時峰が去った部屋。タマが御簾を上げながら、呟いた。


 タマは、須美姫が来ている時はいつも、少し離れたところに控えていた。


 全てではないが、話は断片的に聞こえていただろう。


「そうね。私は多分……あの須美姫のことだから、無事に都を出ていると思うわ。」


 土筆は、あの日の去り際の須美姫の姿を思いだす。


 ひとしきり語り終え、涙の跡が残る顔。土筆はタマに頼んで持ってきてもらった清潔な布で、彼女の顔を拭ってあげた。


 涙の跡が消えて綺麗な顔に戻った彼女は、あの意志の強そうな瞳をキリリと見開いて言った。


「土筆姫。私は、貴女に出会えてよかった。貴女は、私の……ここでの唯一の希望でした。」


 そして両手を前できちんと揃えて、貴族の娘たちに劣らぬ綺麗な姿勢で、頭を下げた。


「ありがとうございました。」


 決意に満ちた清々しい仕草。

 その瞬間に、思った。


 あぁ、この姫はもう、ここには来ないつもりなのだ、と。

 きっと彼女は、無理やり連れてこられた、この運命から自らの意志で逃走を図るのだろう、と。


「こちらこそ、楽しかったわ。」


 土筆が応じた。


「須美姫。私は貴女が、とても好きだった。」


 そう告げると、須美姫が、少しだけ切なそうに微笑んだ。



 そうして暇乞いを終え、立ち上がった彼女は、いよいよ出て行くという際に、足を止めて振り返った。


「土筆さま。お暇する前に、お伝えしたいことが………」

「伝えたいこと?」

「……はい。」


 須美姫は、土筆の瞳を正面から真っ直ぐ捉えて言った。


「私の本当の名前を………」


 少しだけ言い淀んでから、


「土筆さま。私の本当の名はーーーマナツ。マナツといいます。」


「マナツ?」

「夏真っ盛りに産まれた、真夏マナツにございます。」


 仮初めではない。

 誰かに押し付けられた名でもない。


 本当の姿。


「そう……そうなのね。」


 土筆には、その名が、とてもしっくりきた。


「さようなら、マナツ。」


 さようなら、夏の似合う女性ひと


 土筆の別れの挨拶に、マナツは、キラキラ輝く夏の太陽みたいに笑って応えた。



◇  ◇  ◇



 都から数里離れた、人気のない河原。

 男は背に負っていた行李を、慎重に地面におろした。


 蓋を開けながら、中に呼びかける。


「無事か……ーーー?」


 すると肌着姿の女が、中から這い出て、


「うん。 」


 立ち上がって、身体についた埃をパッパッと払った。


「ありがとう。犬丸。」


 五体無事なマナツの姿を認めると、犬丸が強い緊張から解き放たれたように、


「はぁぁぁぁーーーーッ!」


 と、盛大なため息を吐いた。


「マナツが無事でよかったぁ。」


 泣きそうな目をした犬丸。


 マナツは微笑むと、しゃがんだまま少し震えている犬丸の頭を、包み込むように抱きしめた。


「私は大丈夫だよ。」


 そして、耳元で囁く。


「でも、あの男を殺したのね?」


 犬丸が無言で頷く。

 怯えているように見えて、マナツは、犬丸の頭を抱く手に、一際強く力を込めた。


「……敵を取ってくれて、ありがとう。」


 そうだ。マナツにとって、あの牛飼童は、憎き敵。

 

 それを犬丸が殺してくれた。


 あの晩、犬丸は闇夜にまぎれて忍び込むと、牛小屋にいた男の口に布を詰め込み、持ってきた腰紐を首に巻いて絞めた。

 それから、男を担いで外に出ると、服を脱がせた。身元が分からぬようにするためと、服を利用するためだった。


 何せ犬丸は、この男と入れ替わらなくてはならない。

 だから、男の身元が割れぬように、顔を火で焼いた。


 都は火事に敏感だ。邸宅地で火の手が上がれば、警固の検非違使がいつ来るとも限らない。

 わざわざ羅城門の近くまで引きずって移動したのは、そのためだった。


 全ての処理が終わると、犬丸は男の着物を着て、削いだ髪をつけ毛にした。


 それから翌朝、式部の大輔の家に行き、「男が病気になった。自分は甥だが、代わりにしばらく勤めるように頼まれた。」と告げ、何食わぬ顔で牛飼童になったのだった。


 そんなことを犬丸が、順を追って、マナツに教えてくれた。


「俺……あの男を殺したこと、微塵も後悔していない。本当に少しも……ほんの欠片程の罪悪感もないんだ。」


 犬丸が殺した牛飼童は、マナツを連れ去る時に従者を手伝うために、家に上がり込んできた男だった。


 マナツは、あの時のことを思い出すと、今も怒りで腸が煮えくり返る。


 従者の男は、マナツの子が亡くなっていると知り、言った。


「子がいると聞いていたが、死んでいたとはちょうどいい。」


 庭に置いた小さな墓標代わりの石と、添えた野花に、冷淡な視線を焚べながら。


 そこには、犬丸と二人で埋めたが眠っていた。


 あの牛飼童も、それに気づいたのだろう。


 従者の男に呼ばれ、庭を横切る時に牛飼童は、わざと墓石を蹴り、花を踏みつけた。


「やめてッ!!」

 

 その瞬間、マナツは悲鳴をあげた。


「やめてッ!やめてッッッ!!」


 あの子の眠る土の上で、牛飼童は、見せつけるように、幾度も幾度も、わたし達の愛しい存在を踏みにじった。


 マナツは止めようとした。駆け寄ろうとした。だが、従者の男に肩を取られ、身動できなかった。


「やめてッ! やめろォッッ!!」


 マナツは叫んだ。


「あたしたちの子を……あたしたちの子を、汚い足で穢すなァァァァッ!!!」


 喉が千切れそうなほどに、叫んだ。

 無念だった。


 男が地面を踏みつける度に、髻を結っていない男の垂らし髪が揺れていた。


 マナツの嗚咽混じりの怒号に、ようやく足を止めた牛飼童は、その土を踏んだ草鞋のまま、家に踏み込んできた。


 マナツは、その瞬間、意識を失った。


 その後のことは、記憶にない。

 どうやら、そのまま牛車に押し込められたらしい。


 気づいたときには、見たこともない家の中で横たわって、高い天井を見上げていた。



「あの男は、死んで当然だった。」


 犬丸の頭を強く抱きしめ、マナツが言う。

 また思い出して、マナツの身体が、小刻みに震えた。


「知っている。近所で見ていた者がいて、全部、俺に教えてくれた。」


 犬丸が手を伸ばして、マナツの震えを優しく受け止めるように、身体を寄せた。手のひらでマナツの背中を擦って、


「マナツを取り戻せてよかった。」

「………うん。」


 犬丸が身体を離して、マナツの顔を覗き込んだ。


「本当に……とんでもない作戦だったけど。」


 互いに、ちょっとだけ苦笑い。


「そうね。」


 マナツにとっての幸運は、土筆姫と出会えたことだ。

 噂どおり……いや、噂以上に変わった姫。


 知識は幅広く、話題が豊富で、しかも、しばしば突拍子のないことを言う。


 土筆姫のおかげで、牛車から抜け出す手立てを思いついた。

 土筆姫がやってみせた妙な遊戯や、教えてくれた都の知識が、マナツの助けになった。


 それだけではない。


 マナツは、自分が入っていた行李を見下ろした。


 あの話ーーー怨霊屋敷の出来事を聞いた時、須美姫は驚嘆した。


 人を行李に入れて運ぶなんて、とんでもないことを考える人間がいるものだ、と。


 だが、それが役に立った。


 牛車を抜け出した須美姫は、しばらくの間、近くの民家の芝垣に隠れ、人通りがなくなったのを見計らって、予め犬丸が用意していた行李の中に入ったのだ。


 それを、『須美姫消失』の混乱に乗じて抜け出してきた犬丸が旅人のように背負って、さっさと都を抜け出したのだ。


 犬丸がいなくなったことに気づく頃には、二人とも、とっくに都にはいない。


 いや、そもそも、須美姫が牛車から抜け出した、この仕掛トリックに気づく者すらいないだろう。


 唯一人を除いてはーーー


 須美姫は、何度と見た、あの聡い顔を思い出す。


 健康的な頬に、何もかも見通すような瞳。


 須美姫が式部の大輔の家で出会った女房たちは、皆、意地悪で見下すような目をしていた。


 だが、土筆の瞳は、それとは違う。何もかも深く理解しているのに、その実、誰よりも思慮深く、思いやりがある人。そして、その内面の賢さや優しさが、そのまま顔に出ているような人だった。


「全く……あれで、十人並の器量とは、都の美しさの基準は、よく分からないわ。」

「………?」

「いえ、何でもないの。それより、よく行李が手に入ったわね。」


 須美姫は、もう一度、行李を見た。


 人一人が入る大きさだ。


「何の伝手もない犬丸が、これを調達できるかだけが不安だったの。」


「あぁ……知らない男が手伝ってくれたんだ。」

「知らない男?」


 初めて聞く話に、マナツは怪訝な顔で眉根を寄せた。


「そう。正確に言うと、その男に会うのは二回目で……」


 最初に犬丸がその男に出会したのは、羅城門のすぐ側だという。


「牛飼童が微かに息をしていたから、耳を寄せて確認していたら、笛の音が聞こえたんだ。」


 振り返ると、その男が立っていた。

 そして、吹いていた横笛を薄い唇から離して、嗤ったーーー息の根は、完全に止めたほうがいい、と。


 男は、自分が手伝ってやると、懐から怪しげな粉薬を取り出して、牛飼童の口を押しあけ、無理やり流し込んだ。


 そのまま待っていたら、牛飼童の顔色がみるみるうちに悪くなり、あっという間に、口から泡にまみれた吐瀉物を吹き出したという。


 驚いた犬丸が何を飲ませたのか尋ねたら、男は言った。


「心の臓を止める薬だ。」

「心の臓を止める薬? 心の臓を止めるなら、薬ではなく毒ではないか。」


 犬丸が言うと、男は答えた。「いいや、使い方によっては、薬になるのさ」と。


 ともかく変わった男だった、と犬丸は言った。


「その男の顔は?」


 マナツが尋ねると、犬丸は残念そうに首を横にふった。


「よく思い出せない。ひどく……ひどく、印象に残らない顔で………」


 ただ、二度目に会った時のことは、良く覚えているという。


「白い狐面をつけていたから……」

「白い狐ですって?!」


 マナツは驚きのあまり、大きな声を上げた。


「もしかして、服も白い狩衣?」

「そう………だけど?」


 犬丸が、どこかから行李を掻っ払ってこれないかと忍び込めそうや邸宅を探していたときに、声をかけられたという。


「……その男、陰陽師だった?」


 犬丸は、「さぁ?」と肩をすくめた。


「俺はそもそも陰陽師なんて、見たことないから……。」

「男の名は?」


 マナツに問われ、犬丸は記憶を探るように、拳を額にあてて、


「…えぇっと……なんとか……丸………コテキ丸……とか、そんな名だったと思うけど?」


「コテキ丸ッ?!」


 間違いない。

 

 土筆に尋ねられた陰陽師ーーー狐笛丸こと橘貴匁たちばな たかめだ。


「マナツ、その男のことを知っているのか?」

「名前だけ。」


 土筆は何故、その男のことを訊いたのだろう。

 狐笛丸を探しているのか。このことを、土筆に伝えてあげたほうがいいだろうか?


 そんなことを考えていると、犬丸が釘を刺すように、


「言っとくけど、その男は俺たちの恩人だ。その人が、行李や犬の死骸を用意してくれなかったら、俺たちは今頃、ここにいない。」


 そもそも犬丸一人では、マナツの文で意図するところを正確には理解できなかった。なぐり書きのような字と絵。それを読解して、しかも滞りなく作戦が遂行できるように手助けしてくれたのが狐笛丸だ。


「狐笛丸はどうして、そこまで……?」

「俺たちと同郷だって言っていた。」


 集落は違うが、連れて行かれた可哀想な姫の話は聞き及んでいると、ひどく同情的だったという。


「それで、同郷の誼で手助けしたい、と。」

「そう……なのね。」


 土筆の話からすると、あまり信のおける人間ではないようだったが、それでもマナツたちが助けられたことに違いはない。


 同郷の恩人。その人間を売るようなことはしてくれるな、と犬丸は言いたいのだ。


 でも、マナツにとっては、土筆も恩人だ。


 彼女がいなければ、あそこでの日々はもっと辛いものだったし、彼女の授けてくれた知識がなければ、逃げ出す手立ては思いつかなかった。


 そして、最後に、私が逃げ出すであろうことを気づいた上で、見逃してくれた。

 土筆姫がいなければ、マナツは今、ここにはいない。


「分かっている。」


 マナツは頷いた。


「でも、もっと遠くに、無事に逃げることができたら、土筆姫に文を書いてもいいかな?」


 どうしても伝えたいのだと、切実に訴えるマナツに、犬丸は、ダメだとは言わなかった。


 代わりに聞いた。


「遠くに………もう……須磨には戻れないけど、いいか?」

「うん。」


 マナツは頷いた。


「犬丸がいれば、構わない。」


 マナツは、犬丸の頬を両手で挟んだ。


 その手を、首筋、胸元に滑らせ………着物のうちに手を入れた。そして、胸元から黒い塊をズルリと取り出した。


 黒くておぞましい、あの牛飼童の髪束だった。


 マナツがそれを犬丸に渡すと、犬丸が意図を理解して、川に投げ捨てた。


 あんなに不吉なモノは、ここに捨てていくべきだ。


 髪束は、水に落ちた衝撃で、束が解けてバラバラになった。細く黒い無数の線は絡まり合い、浮いて、沈んで、散り散りになってーーーやがて水の流れと泡に飲み込まれて消えた。


「……行こう。」


 犬丸が言った。


「うん。」


 二人は顔を見合わせると、手を繋いで歩きだした。が、すぐにマナツは足を止めて、都の方を振り返った。


 そして、心の中で呟く。


 どうもありがとうございました。

 この御恩は必ず、お返しします。


 姿の見えぬ土筆に向かって、深く深く頭を下げる。


「……マナツ?」


 その様子を見ていた犬丸が、心配そうに尋ねた。


「ごめん。何でもないの。」


 マナツは振り返ると、再び歩き出した。

 もう二度と振り向くことは、しなかった。

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