第6話 須美姫の事情


「須美姫は、忽然と消えたそうです。」


 時峰が言った。


「そのようですね。」


 土筆が答えた。


「動いている牛車の中から……それも、花房邸こちらに来る途中に、ですよ?」

「はい。存じております。」


「確かに叔父上の屋敷から牛車に乗ったことは確認されているんです。それが、まるで、煙のように消え失せた……にも関わらず………」


 興奮気味に話していた時峰の声の調子が、だんだん落ちてきたかと思うと、


「………知っていましたね?」


 御簾の内側の土筆に向かって、ため息交じりに尋ねた。


「それはまぁ、ここに来る道中の出来事でしたし、あの日は大騒ぎになりましたので……」


 牛車には、いつもと同じように、4人の従者と2人の牛飼童が付き添っていた。

 時峰の言った通り、姫が牛車に乗ったことは、式部しきぶ大輔たいふの家の使用人たちが見ているから、間違いない。


 姫を乗せた牛車は、三条西洞院から二条東洞院までの短い道のりをゆっくりと進んだ。

 但し、途中で一度、方違えをしたから、通った道筋は、いつもと少し違ったという。


 その方違えをする時、従者が姫に声をかけた。それに姫は返事をしたというから、少なくとも、その時までは、姫は牛車の中にいたのだ。


 ここまでの出来事は、土筆も、父やタマから聞き及んでいた。


「私が言っているのは、そういうことではありません。」


 時峰が、不満気に言った。


「これでも、ここに足繁く通ってきたのです。貴女の姿を直接見て、話すことこそ叶いませんが、たとえ御簾ごしでも、貴女の声の調子や、微妙な空気感で、多少のことは判別できるようになりました。」


 時峰はため息をつくと、まるで、お見通しだとばかりに、


「ご存知なのでしょう? 須美姫が、どうして……どうやって、動いている最中の牛車の中から姿を消したのか。」


 時峰に問われた時、土筆は多少なりとも困惑していた。


 自分では、何も匂わせないように……を気取らせないように、十分に気をつけていたつもりだった。


 それを、こうもあっさり指摘されるとは思わなかった。


 だが、同時に決めていた。


 もし時峰に尋ねられたら口を割ろう、と。


 気づかれないようにするつもりだったけど、本当は誰かと話したい。話すことで、見えてくるものがある気がする。


 そして、話をするならばーーー相手はやはり時峰だ、と思っていた。


 土筆は心を決めて、口を開いた。


「時峰さまのご質問、『どうやって』……かは、分かりませんが、『どうして』かは、分かる……気がいたします。」


 土筆は、須美姫が最後にここを訪れた日のことを思い出した。


 あの日、土筆は須美姫を警戒していた。

 時峰から、そう言われたから。


 須美姫の様子を注意深く見ているうちに、土筆は気づいた。須美姫には、やはり何か隠していることがある、と。


 だから土筆は、須美姫に聞いた。


 須美姫は、なぜここにいるのか。どうしたいのか。


 須美姫は初め、なかなか口を開いてくれなかった。


 土筆は、辛抱強く待った。


 待って、待って、そして、ついに、土筆から尋ねたのだ。


「須美姫。あなた、もしかして……」


 確信はない。だが、ここを明確にしないと、話が進まない気がする。


 土筆は一度、大きく息を吸い込んで、一気に吐き出すように尋ねた。


「もしかして、子を産んだことがあるんじゃない?」


 須美姫は、ハッと目を見開いた。


「違っていたら、ごめんなさい。でも、私が懐妊しているのではないかと尋ねたときの貴女の様子。」


 須美姫は言った。悪阻おそが酷いと、起き上がれませんから、と。


「あれは、人伝ひとづての話ではなく、貴女自身が体験したことを話しているように感じたの。」


「………」


 須美姫は、答えなかった。

 だが表情で、当たっているのだとわかった。


 だとすると、


「貴女が文を渡そうとしていた犬丸という者は、もしかして……ただの幼なじみでも、恋人でもなく………ーーー?」


「………夫です。」


 須美姫が、諦めたように目を伏せた。


「土筆さま、犬丸のことを知っていたのですね。」

「時峰さまから聞きました。」

「あぁ……」


 須美姫は、「甥御さまですものね。」とすんなりと納得した。


「犬丸は、それこそ、物心つく頃から一緒に過ごした幼馴染みです。近所の子で、年は私よりも少し上。」


 須美姫は、自分が都の貴族の娘らしいーーーといことを、幼い頃から知っていたという。

 母親から聞かされていたし、父親がつけてくれた女房のタキがいたから。


 名前も顔も知らぬ父は、かつて、この地に任官した時に、須美姫の母と出会った。


 田舎にしては器量良しで評判の娘だそうで、須美姫とはあまり似ていない、線の細い女だったらしい。


「母は、少女のように……少し幼いところを残した人でした。」


 須美姫が、亡き人を懐かしむように言った。


「都に憧れ、夢見がちな母にとって、父との出会いは、生涯で抱いた光のように美しい思い出だったのだと思います。」


 自分の娘も、いつか父が迎えに来て、都に行くに違いない……とでも考えていたのだろう。

 そのために、タキに言って、須美姫に読み書きを教えさせた。


 タキが、ついでだからと、他にも何人かの集落の子たちも家にあげて、須美姫と一緒に、教えていた。


「犬丸とは、多分……その時に初めて出会ったのだと思います。」


 覚えいないほど幼い頃の記憶なのだろう。


「いつも4〜5人の子どもたちが来ていて……でも結局、多少なりとも読み書きを習得できたのは、私と犬丸だけでした。」


 土筆は、「そう……」と、相槌を打った。


「犬丸というのは、賢い方なのね。」


 土筆の言葉に、須美姫が嬉しそうに微笑んだ。


「長じて、犬丸とは、ごく自然に、当たり前のように、夫婦めおとになりました。」


「お母さまは、反対しなかったの?」

「その頃には、もう……諦めていたのだと思います。身体も随分弱っていましたし。」


 父からは経済的支援こそ届いていたが、迎えはおろか、顔さえ一度も見に来たことはない。


 自分亡き後、一人で過ごすより、長年側にいて信頼できる犬丸と添うならそれもいいと許したそうだ。


「犬丸と一緒になって間もなく、子ができました。娘でした。」


「……でした?」


 須美姫は、「娘です。」ではなく、「娘でした。」と言った。


「予定より早く産まれ…一月と経たず亡くなったのです。」


 悲しかったけれど、珍しいことではない。

 誰にも、どうすることも出来ないことだった。


「やや子は、家にあった一番綺麗な端切れに包んで、犬丸と二人で埋葬しました。」


「お母さまは……?」

「母も、子が生まれる少し前に亡くなったのです。」


 須美姫が、寂しそうに答えた。


「家族を二人も立て続けに亡くのは、辛いことでしょうね。」


 土筆の言葉に、須美姫が頷いた。


「勿論、とても辛かったです。けれど、それでも私たちは、前向きに生きていくつもりでした。あの日が来るまでは………」


 突如、父の使いだと言って、乗り込んできた男たち。


「タキが都に手紙を出したのです。母が亡くなったから、せめて供養をしてくれぬか、と。」


 タキに悪気はなかったのだろう。だが、もたらしたのは、悪夢のような結果だった。


「その日は、たまたま犬丸が遠出していて、家には私とタキだけでした。」


 須美姫は、「都になど行きたくない」と、必死で抵抗した。


 タキも一緒になって応戦してくれたが、使いの者たちに加え、ついには牛飼童まで加勢したことで、あっという間に姫は捉えられてしまった。


「今も……忘れません。」


 庭を踏み荒らし、部屋に上がり込んできた男たち。


「あの男たちが、私に向かって言ったんです。」


『子がいると聞いていたが、死んでいたとは、ちょうどいい。』


 土筆の座っている置き畳の上に、ボタッと涙が落ちた。


「ハラワタが………」


 須美姫の涙だった。


「……ハラワタが、煮えくり返りました……」


 震える拳を握りしめ、噛んだ下唇からは、今にも血が滲みそうだ。


「………須美姫。」


 なんて酷い話だろう。


 愛する者から引き離され、最も愛しいものを侮辱された。


 連れてこられた家で過ごす時間は、須美姫にとって辛い日々だったに違いない。


 土筆は、須美姫の震えるの手を包み込むように、そっと両手で握りしめた。


 それで須美姫は、少し冷静になったのか、「申し訳ありません。取り乱しまして……」と、袖口で涙を抑えて、再び話を続けた。


「タキは、『申し訳ない』と何度も、何度も、泣いて謝っていました。」


 ただ、亡くなられたお母様の弔いと、お綺麗に成長なさった姫さまの姿を、お父上の式部の大輔殿に一目見ていただきかったのです、と。


「それにタキは、いつかは都に帰りたいと言っていましたから、その希望も書いたのでしょう。」


 だが父である式部の大輔は、その手紙のおかげで、自分に年頃の娘がいたことを思い出したらしい。


 須美姫は、涙の跡が残る顔をパッとあげ、土筆に向けて、


「土筆さま、私の顔をどう思いますか?」


 唐突に尋ねた。


「えっ……?」

「綺麗では、ないでしょう?」

「そんなこと………」

「いいんです。」


 須美姫は呆れるように言った。


「私を見たときの、父の顔は、それはもう…酷いものでしたから。」


 一言で言うなら、落胆。


 多分、タキの手紙に、父は喜んだのだーーー使えそうな娘が一人いたか、と。惰性で続けた経済的援助が実を結ぶときがきた、と。


 それが、顔を見た途端、ぬか喜びだったことに気づいたのだろう。


「残念ながら、役に立つと見込んだ姫は、とても期待に沿うような容姿ではなかったのでしょう。」


 須美姫は、苦笑いした。


「あの………」

「誤解しないでください。別に傷ついたりはしていません。」


 白く柔らかな都の女たちをみれば、色黒で気の強そうな自分が、美しいと受け入れられるはずがないのは、わかっている。


「むしろ、父の期待に沿わなかったのだから、すぐに返してくれるだろうと嬉しくなったほどです。」


 須美姫を誰かに嫁がせて、政治的な結びつきを得る。もともと父は、そのつもりで自分を連れて来たのだということは、女房たちの噂話で知っていた。


「父の希望が叶わなくなれば、私は、すぐに須磨に戻ることになると思っていました。その時になったら、タキだけでは、このまま、ここに残してくれないかと頼まないといけないわね……なんて話していたほどです。」


 須美姫はこんなところに、一瞬だっていたくないけれど、タキにとっては、ずっと戻りたかった都だ。


 須美姫が、タキの手を握って、「これでお別れね。」と言うと、タキは涙を流して、「ありがとうございます。」と礼を言ったらしい。


 しかし事態は、須美姫とタキの予想した通りには、ならなかった。


 一向に戻る話が出ぬばかりか、貴族社会で過ごすための教養を身に着けねばならないからと、次々に教育係の女房が送られてくる。


 一体、どういうつもりだろうか。


 須美姫は、焦った。


 とりあえず、田舎から来た須美姫に、教え諭してやろうと小馬鹿にした態度でやってくる女房たちは、かたったぱしから追い払っていたが、それでも父の手は緩まない。


 これは、どう見ても、誰かに嫁がせるつもりでやっている。相手が見つかったということか。


 困ったことになった。


 苛立つ須美姫の元に、タキが人目を憚るように、コソコソと近づいてきた。


「あの……姫さま、これが部屋の外の簀子に……」


 タキの手のひらには、貝殻に乗った、大中小の3つの石。


「これ……」


 二人の合図だった。


「犬丸が近くに?」

「えぇ、おそらく。」


 幼い頃の約束。

 いつか一緒になろうと、浜で拾った貝殻の上に、二つの石を並べて、誓いあった。今はもう一つ、小さな石が増えている。


 犬丸が来ている。

 それは、ようやく訪れた希望だった。


「一刻も早く逃げなくては。でも、下手に逃げてもすぐに捕まる。」


 犬丸も簡単な仮名文字は読める。急ぎ文をしたため、


「これを、犬丸に。」


 須美は、犬丸を探して渡すようタキに託した。


 それを見られていたのは迂闊だった。


 すぐに父がやってきて、部屋中、ひっくり返すように、文を探し始めた。ついには、須美姫やタキの袖の中まで検められたが、幸い、間一髪、文はタキの手を離れていた。


 何も確証は得られなかったはずだが、これを機に父の監視は厳しくなった。


 一刻も早く嫁がせようと考え始めるかもしれない。


 しかし、警戒した父が次に打った手は、意外なものだった。


 新しい教育係として、権大納言家の次女姫を見つけてきたのだ。


 権大納言家の姫なら、須美姫も無碍には出来ないと思ったのかもしれない。

 だが、須美姫にしてみれば、都の上下関係なんて、何の関係もない。


 女房たちにしたとの同じように、いや、それ以上に無礼を働いてやれば、今度こそ、屋敷からつまみ出されるだろう。


 そう考えていた須美姫だったが、方針を変えたのは、土筆姫の評判を聞いたからだ。


 随分、変わった姫だという。


 美しい姉と可憐な妹に比べ、器量は十人並。本ばかり読んでいて、頭でっかちな姫。にも関わらず、今をときめく、近衛中将が夫だという。


 普段から姉や妹に比べられ、嫌な思いもしているのなら、ここに来た女房たちのように、自分を見下して、上から目線で小うるさいことを言うような女ではなさそうだ。


 しかも、権大納言邸に須美姫が赴いて教えを受けるのだという。


 ここから出られる。

 きっと、このときこそが、逃げ出すための唯一の機会だ、と須美姫は思った。


「それで、私は花房邸に………こちらに伺うことを了承いたしました。」



*  *  *


「ちょ…ちょっと待ってください。」


 時峰が、土筆の話を遮った。


「須美姫は、花房邸に来ることが、逃げ出すための機会を得る手段だと言ったのですか?」


「えぇ、そうです。」


「須美姫は、最初から、そのつもりでこの話を受けた、ということですか?」


「そういうことになりますね。」


 土筆が同意する。


「………と、なればですよ?」


 時峰は少し考えてから、土筆が至ったのと同じ結論を口にした。


「となれば、つまり須美姫は、モノノケに攫われたのでも、他の誰かに拐かされたのでもなく、自らの意思で消えた……ということですか?」


「えぇ、間違いなく。」


 土筆は、確信に満ちた声で、そう答えた。


「須美姫は、自らの意志で、皆の目を掻い潜り、動いている牛車の中から姿を消したのです。」

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