第5話 須美姫の狙い
藤原時峰が再び、花房邸にやって来たとき、土筆は、父との会話を思い出して、部屋に入っていた時峰の顔を見るなり、少し緊張してしまった。
御簾ごしの時峰は、そんな土筆の様子など、全く気づいていないようで、やや焦ったような様子で言った。
「どうしても早急に、お知らせしたいことがありまして。」
「ど……どうされましたか?」
平静を装い問う土筆に、時峰は座る間ももどかしく、話し始めた。
「須美姫の嫁ぎ先が分かりました。」
「まぁっ!? どちらですか?」
時峰は一瞬、言い淀んだが、すぐに
「………
「輿入れ? いえ、でも……」
摂津は、畿内に属する国の一つ。瀬戸内海に面した航路の拠点として、古くから栄えた港町だった。摂津守は、その摂津国の国司にあたる。
輿入れということは、須美姫も摂津の国に移るのだろうか?
いや、しかし、今のところ須美姫がそれを心得ている様子はなかった。それに―――
「あの………摂津守さまは確か、お年が……」
「えぇ、御年50を超えている。しかも、須美姫よりも年上の子がいます。」
そうなのだ。須美姫からすると、親子以上も離れているお相手になるのだ。
「ご正室さまは、お有りではないのかしら?」
「随分前にお亡くなりに。」
とすると、後添えだが、正妻の待遇だろうか。
しかし、30歳以上も年上の男の元に嫁がせるというのは、いくら何でも……
「何故、
時峰も、「問題はそこです。」と、眉間に皺を寄せ、顔を顰めた。
「摂津守―――
単に、鄙びた姫の厄介払いをしたいだけなら、元の地に返してやればいい。本人もそれを望むだろう。にも関わらず、わざわざ嫁がせるのだ。
むしろ、嫁がせるために連れてきたと考える方が自然だ。
「須美姫が摂津守殿に嫁ぐことで、式部の大輔さまに、何か利点が?」
「…………」
時峰は、否定しなかった。考えるように、やや黙っていたが、やがて、
「……摂津は豊かな国です。港は大陸との往来の拠点で、珍しい物も多い。とすると、何か物資なりを融通してもらうため、と考えられるのでしょうが……」
深いため息をついたかと思うと、ふいに、
「土筆姫、須美姫には気をつけてください。」
「須美姫?」
唐突に話が飛んで、土筆は困惑した。
「えっと……それは、どういう……?」
「正直に申し上げると、私の父と叔父上は、決して仲の良い兄弟ではありません。表立って反目してはおりませんが、叔父上の方は、友好的とは言い難く………」
優秀な後継ぎの長男に対する、嫉妬や劣等感。そういうものを、ふとした言葉尻に感じるという。
「そんな中、今まで、これといった繋がりのない摂津守に娘を嫁がせる。とすると、叔父上が、何らかの利益を得るために須美姫を連れてきて、姻戚関係を結ぼうとしていると考えるのが自然です。一方で……」
時峰は腕を組み、片方の手を顎に当て、思案するような姿勢をして、
「利で繋がった関係なら、須美姫の方にも何らかの交渉の余地がある……とは、思いませんか?」
「……どういう意味でしょう?」
「須美姫が、何故
「それは時峰さまが、私に依頼されたから……」
言いかけたところで、ハタと言葉を止めた。
「まさか、当家に入り込むことで、我が家の何らかの情報や弱点を探るためだ、と?」
時峰の顎が微かに縦に揺れた。
「そんな! 信じられません。須美姫が、そんな姫だんて……それに、いくらなんでも、そんなことのために、私のところに通うはずは……」
「私も、つい先日までは、そう思っていました。しかし……」
「あの時、権大納言殿は、花房家の転機となる出来事だ、と仰っていました。でも、まだ内密にしなくてはならない。そういう何かが、今、こちらにはあるのでしょう?」
女御の懐妊。それは確かに、花房家―――特に父にとっては重大事には違いない。
「それは……そう、ですが………しかし、式部の大輔さまは、その探るような事柄があるとさえ、ご存知ないのでは?」
だが時峰は尚も疑っていようで、
「土筆姫を紹介して欲しいとお願いしてきたのは、叔父上の方です。その件に限らず、他にも何か、花房家の弱味になるようなことを掴めれば、須美姫にとって、叔父上との交渉の余地ができるのでは? むしろ叔父上自体、それを狙って、ここに送りこんだ可能性すら考えられる。」
摂津守に嫁いでもらい実利を得るか、嫌なら
式部の大輔と須美姫の二人が、そういう密約を結んでいたとしたら…―――?
「須美姫は頭の回転が速く、覚えも良い、とても賢い方だと貴女はおっしゃいましたね。しかし、私は須美姫に会ったことがないので、人柄は分かりません。」
「そんな……そんな方には、思えません……。」
「花房家は、今や帝の寵愛厚い女御のご実家。叔父上も注視し……警戒しているはずです。そこに、あの家から逃げたがっている須美姫が、叔父上に何らかの取引を持ち掛けられたら、応じないとは言い切れません。」
確かに、須美姫は、土筆に心を開いているとまでは、言えないかもしれない。
けれど、あの意思の強そうな、真っ直ぐな目をした姫が、こちらを陥れるようなやり方をするだろうか?
土筆には、やはり信じられない。
「美しく見える殿中も、水面下では、足の引っ張りあいと駆け引きです。己が地位や名誉のために、形振り構わぬ者もいる。私は、ここに須美姫を引き入れてしまった以上、貴女と花房家に害が及ぶことだけは、見過ごせない。」
突然、時峰が、ツイっと膝を一つ繰って、御簾の近くに寄った。
「土筆姫……」
時峰のやや低い、心地よい声が、いつもより近い距離で、切実に名を呼んでいる。
「………お願いです。」
時峰が少しでも乗り出せば、御簾の内側に入りそうな距離感。
こんなにも近くにいると、御簾一枚が酷く薄く、心許ないものように感じる。
「くれぐれも……くれぐれも、須美姫を警戒することを忘れないでいてください。」
時峰の真剣な眼差しが、じっとこちらを見つめている。
土筆は、あの須美姫が、そんなふうであってほしくないと願っていた。それでも、時峰の懸念を軽んじるわけにも、いかない。
複雑な想いを抱えたまま、「………分かりました。」と、頷いた。
◇ ◇ ◇
須美姫がやって来たのは、その翌日の午後のことだった。
土筆の目に、その様子がいつもと少し違ってみえたのは、時峰から「重々、気を付けてほしい」と念を押されていたせいだけでは、なさそうだ。
姫の入ってくる足どりは重く、躊躇いがちだった。
どういうことだろう。
本当に良からぬことを考えているのか、それとも、摂津守との婚姻を知らされたのか。
須美姫に悟られぬように警戒しながら、注意深く観察していた土筆の前に、いつもと同じように腰を下ろした姫は、躊躇いがちに口を開いた。
「あの……こちらの屋敷は、どなたかご懐妊ですか?」
土筆は思わず、息を呑んだ。
気をつけてほしいと告げた時峰の顔が、頭をよぎる。
しかし、この動揺を相手に知られてはならない。
「……どうしてかしら?」
「本日、ここに通されるときに、通りかかった女房たちが、着帯の儀がどうのと話しているのが聞こえたものですから……」
「着帯の儀……?」
着帯の儀は、懐妊から5ヶ月の頃の戌の日に、安産を祈願して、妊婦の腹に帯を巻く儀式のことだ。
ちょうど先日、ここで読んだ、宮中の様子を描いた日記の中に、出てきた内容だった。
多分、牡丹の懐妊を知った気の早い一部の女房たちが、色めきだって噂話でもしているのだ。後で、父に言って、注意してもらわなくては。
土筆は、迂闊な女房に、内心、舌打ちしながら、
「いえ。この家じゃないわ。縁のある家の姫のことだと思います。」
「そうですか。」
すると、意外にも須美姫は、ホッと安堵するように肩を落として、
「申し訳ありません。私、てっきり土筆さまがご懐妊かと思ったものですから……」
「ひぇ………ッ?!」
驚きのあまり、おかしな声がでた。
流石の土筆も、それは想定外だった。
「わ…わ……私ですかッ?!」
「もし土筆さまが、ご懐妊でしたら、今後、こちらに通うのは難しくなるのではないかと思いまして……御身体も辛いでしょうし、悪阻なども酷い場合、起き上がれなくなりますから………」
「ちょッ……ちょっと待ってください!」
土筆は、須美姫の話を遮って、
「何故、私が懐妊と? まだ婚約者もおりませんのに!」
「えッ? そうなんですか?」
今度は、須美姫の方が驚いて声を上げた。
「てっきり土筆さまは、近衛中将の藤原時峰さまと、ご結婚されているのかと……」
「結婚だなんて、な……な……なんで?!」
このところ妙に、こんな話題が立て続くと思ったが、よく考えてみたら、仕方がないのかもしれない。これだけ頻繁に
土筆は、言い訳は無意味だと判断し、代わりにキッパリと言い切った。
「私と藤原時峰さまは、結婚はしておりませんし、私は懐妊しておりません。」
「そうでしたか。」
須美姫は慌てて、「申し訳ありません」と頭を下げると、面をあげて、
「姫さまが懐妊されたら、こちらに通うことができなくなるのでは……と案じておりましたので、それを聞いて、安心いたしました。」
答える声は、確かに嘘はなく、安堵の響きを帯びていた。
だが、言葉を発する瞬間、須美姫の大きな瞳が、一瞬だけ泳ぐように逸れたのを、土筆は見逃さなかった。
その些細な動きが、引っかかった。
「……須美姫さま。」
「はい……?」
土筆は、須美姫の健康的な褐色の顔を見た。その肌が、心なしか青ざめてみえる。
「本心……ですか?」
「………は?」
「本当に須美姫は、心から、ここに来たい……と?」
「それは……もちろん。」
じっと見つめ続けていると、また須美姫の視線が、僅かに泳いだ。
「もちろん……来たいと…思っております………」
土筆は、須美姫の固く握られた手に視線を向けた。ギュッと握った拳は、震えていた。
姫は、土筆が見ていることに気づくと、慌てて、震えを抑えるように、反対の手を覆いかぶせた。
あぁ、何かを隠している。
直感的に、そう思った。
「……須美姫。」
土筆は、もう一度、姫の名を呼んだ。
出た声は、さっきよりもずっと、重く沈んでいた。
その声音で、何かを察したのだろう。須美姫の身体がピクンと揺れた。
「私はそろそろ、姫の話を……貴女の話を、教えていただかなければならないように思います。」
土筆は背筋を正し、須美姫の大きな瞳を正面から見据えて尋ねた。
須美姫は、土筆の意図を悟ったらしく、下唇を噛んで、俯いた。
* * *
その3日後、須美姫は姿を消した。
いつもと同じように花房邸に向かう道中の牛車だった。
たった今まで、姫が座っていたはずのところには、ぐにゃりと折り重なった着物だけが残されていたという。
須美姫は、移動中の牛車の中から、まるで物の怪にでも攫われたかのように、忽然と消失したのだった。
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