第4話 呪い
自分にも、菫にも、何事も起こらなければ良いーーーそう案じていた土筆だったが、その願いは早々に潰えた。
夕餉も終わり、そろそろ眠ろうかと支度していたころ、土筆は、突然、腹の中で何かがのた打ち回るような痛みを感じ、同時に激しい吐き気を催した。
あまりの気持ち悪さに口を抑え、タマを呼ぶ。
桶を持って駆けつけたタマに礼を言う間もなく、食べたばかりの雑穀米も汁も魚も、飲んだ水さえ、全てを桶に吐き出した。
「土筆さま…土筆さま……」
青ざめたタマが、「誰か!」と人を呼ぶ。
タマに背を擦られながら、嘔吐を繰りかえす土筆。
吐いても、吐いても、気持ちが悪い。
加えて、酷い頭痛に、指先の震え。
まるで土筆の身の中に、悪い霊が入り込んで、身体の内から蝕んでいるかのように息苦しい。
脳裏に、あの無表情な白い狐面がよぎる。
ーーー呪われているんですよ、もうすでに。
桶を両手で抱えたまま、あの時、あの男が座っていた場所に視線を向けた。
すると、そこには…ーーーなんと、狐笛丸が真っ直ぐ背を伸ばして鎮座している。
「…あな……た、どうやって………?」
無機質なはずの狐面の口の端が、苦しむ土筆を嘲笑うように持ち上がる。
「わらッ……?」
そんなはずはない。そんなはずはないのに……
狐笛丸の口がパカリと開く。中は吸い込まれそうなほど真っ暗な闇。
「……知っていますか?」
ふいに狐笛丸が、土筆に話しかけた。
「アサガオには毒がある、ということを。」
「貴方、何……を………?」
土筆が尋ねようとした瞬間、狐笛丸の姿が、グニャリと歪んだ。
目瞑り、瞼を着物の袖で擦る。再び目を開くと、そこには誰もいない。
「まぼろし………?……ッウ……」
また吐き気。
何度も突き上げるように、繰り返しえづく。
「土筆さま……土筆さま………」
心配そうに背を擦るタマに促され、椀に注がれた水を飲むが、それすらも受け付けずに、吐き出した。
「せめて口を濯ぐだけでも……」
また、水を口に含まされる。
「今、旦那様がご祈祷を捧げておりますから……」
物の怪や悪霊が身体の内に入り込んでいる。病とは、そうして起こるものだから、その悪しきモノを祈祷で追い出すのだ。
土筆はすでに、魂ごと吐き出してしまうのではないかと思う程の嘔吐を幾度も繰り返している。
途中からは、もう、吐くものすらないのに、吐き気だけがこみ上げる。
そうしているうちに、意識は朦朧としてきた。
「土筆さま……土筆さま……しっかりなさいませ……しっかり……」
タマが土筆を呼ぶ声が聞こえた。
頬に温かい水滴が落ちてきた。泣いているのかしら………視界が霞んで、良く見えない。
狐笛丸の声だけが繰り返し響く。
ーーーアサガオには毒がある。
アサガオ、朝顔、
遠くで、パンッパンッと、
その音を聞きながら、土筆は意識を手放した。
◇ ◇ ◇
土筆が再び、意識を取り戻したとき、すでに丸3日が経っていた。
ピチャピチャという水音に目を覚まし、やがてゆっくりと開いた目に、ぼんやりと浮かぶ天井。
横を振り向くと、見慣れたタマの後ろ姿。ピチャピチャという音は、そこからしているらしい。
「…………タマ?」
掠れた声で呼びかけると、すぐに
「土筆さまッ!!」
タマが、振り向くと同時に駆け寄ってきた。
「お気づきになられたんですね! 良かった………」
良かったと繰り返し言いながら、タマの目尻に涙が滲む。
「私………?」
「気を失っていたんですよ。丸3日も!」
「…みっ……か?」
そんなに眠っていたのか、とぼんやりした頭で考えていると、頬に冷んやりとした、心地よい刺激。
タマが手ぬぐいで、土筆の頬を拭っている。
先程のピチャピチャという水音は、桶に手ぬぐいを浸した音だったのだろう。
「旦那様が陰陽寮に頼んで、悪霊祓いをお願いしたんですよ。藤原時峰さまも、高名な僧に加持祈祷を頼んだのだとか……」
「……そう。」
皆の心配はありがたく、また、申し訳なく感じたが、まだそれに答える気力はなかった。
タマは気にせず話を続ける。
「何人もの陰陽師や僧が挑んたのですが、土筆さまに取り付く悪霊の正体は、誰も掴むことが出来ず……」
土筆を蝕む霊は、まるで陽炎のようにゆらゆらと揺らめき、姿を現さない。何者なのかすら、分からない。
打つ手がなく、途方にくれた、その時ーーー
「狐笛丸さまが現れたのです。」
「狐笛丸?」
突然出てきた名に、驚いてタマを見た。
「なぜ、あの人がここに?」
吐き気とともに見た、無機質な狐面を思い出す。
「狐笛丸さま、何かあったら、助けに来ると言っていたじゃないですか!?」
「あぁ、そう……そうだったわね……」
確かに去り際にそんな事を、告げた気がする。
「いよいよ、手のつくしようがない……となったとき、狐笛丸さま自ら、ここを訪ねてきたのです。」
藁にもすがる思いの父、
狐笛丸は、土筆の部屋を取り囲むように結界をはり、一晩祈祷した。タマも父とともに、それを遠くから見守った。
「それで、狐笛丸さまが、土筆さまの口を開け、例の水を飲ませて…」
「水?」
「清めの水ですよ。」
あの時、狐笛丸が置いていった、小瓶に入った水。
「そのまま祈り続けたと思ったら、あくる朝、狐笛丸さまはがおっしゃったのです。悪霊は退散した、と。」
疲れた様子で出てきた狐笛丸。解かれた結界の中に、皆が入ると、土筆の顔色は、随分と改善していたという。
「あの方の実力、本物ですわ!!」
姫さまを助けてくだすったと、あれほど警戒していたタマが、いつの間にか、すっかり狐笛丸の虜になっている。
「呪いが専門と聞いていましたが、祓いの力も相当なものです。なにせ、陰陽寮の方たちが全く歯が立たなかったものを払ったのですから。」
「そうなのね……」
腹の底の見えない不気味な男だと思っていたが、助けられたのなら、感謝すべきだろう。
「旦那様も、狐笛丸さまのことを大したものだと、たいそうお褒めになって、歓待しようとしたのですが……」
「歓待って……娘がこの状態なのに…」
「勿論、土筆さまの回復を待ってですよ!! 落ち着いたら、我が家で饗宴をしたい、と。」
「まぁ、なんでもいいわ……」
疲れているせいか、なんだかどうでもよくなってきた。
「いえ、良くないんですよ。だって、狐笛丸さまは、それを断ったんですから。」
父が泊まるように引き止めたが、それも聞かず、祓いが終わると早々に暇を告げたという。
「へぇ……そうなの……」
とすると、権力に対する欲はないのだろうか。
権力欲ーーーそれが、土筆の頭の片隅に浮かんでいた、もう一つの可能性だった。
もし狐笛丸の狙いが菫でないのなら、権大納言の花房資親に取り立ててもらいたいのではないか、と。
「狐笛丸は、菫とは? 話したりしていた様子はなかった?」
「全く。」
タマが首を横にふった。
「互いに、お姿さえお見せになっていないかと。」
菫は、土筆の体調不良の間、ずっと部屋に籠もって写経をしていたという。菫付きの女房がずっと側にいたそうだから、間違いない。
「あの子、取り乱したり、泣き喚いたりしなかったかしら?」
「机に向かって、一心に写経をされていたそうです。他事など、考えている余裕はなかったかと。随分と気丈な様に、菫さまも成長なさったものだと、女房たちが言っておりましたから。」
「へぇ……あの子がねぇ……」
それなら、やはり菫と狐笛丸は関係がないのか。
菫と接触した様子もなく、資親に阿るでもない。
とすると、あの男は、一体なんのために土筆を助けたのだろう。
本当に、純粋な義侠心から? 見ず知らずの姫を、そんなことで助けるかしら?
夢現に見た、狐面の笑い顔を思い出す。
あの男の仮面の下には、何が隠れているの……ーーー?
そんなことを考えているうちに、土筆はだんだん眠たくなってきた。
ウトウトしている土筆に、タマは相も変わらぬ様子で、お構いなしに話しかける。
「でも、狐笛丸さまが土筆さまを救ったことは、すでに宮中でも噂になっていますからね。きっとこれから、評判の陰陽師になると思います。ひよっとしたら、陰陽寮からもお声がけがあるかも……」
喋り続けるタマの傍らで、土筆はいつのまにか、眠りに落ちていた。
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