第3話 狐とアサガオ


 土筆は、垂らした厚い御簾の向こうに鎮座する白い狐面の男ーーー狐笛丸こてきまるを注意深く観察した。


 いかにも陰陽師らしい、白い狩衣を身に纏い、袴は深草色。面は、目の周りを赤と黒で隈取した白狐で、ひげと前髪には金色を使っている。


 土筆は、狐に尋ねた。


「さて、狐笛丸さまは、この度、私にどうしてもお伝えなさりたい事があるのだとか。一体どんなことでしょう?」


 この得体の知れない男が土筆に会いたいとやって来た時、父の花房資親はなぶさ すけちかは、会うか否かの判断を、土筆に委ねた。


 本来、この手の事柄は、家長である資親が判断すれば良いはずだ。もし、会いたいと言った相手が菫だったら、父は即断っただろう。


 だが父は、土筆に対してだけは、物事の判断について、彼女自身の意志を尊重することが、度々あった。


 父に尋ねられた時、土筆は正直、迷った。


「やはり会うべきではありません。時峰さまも、そうおっしゃっていたじゃありませんか!」


 タマは、文も先触れもなくいらっしゃるなんて、物知らずのすることですとプンプン怒っていた。時峰から、狐笛丸のあまり良い評判を聞かなかったことで、警戒しているのだろう。


 土筆とて、胡散臭いとは思っていた。


 それでも結局、会うことに決めたのには、理由がある。


 一つは、菫のこと。


 菫の恋した相手ーーー顔の見えない男が、この狐笛丸なのかは、分からない。


 狐笛丸だとして、出会った経緯も不明だ。

 菫に聞いたところで、頬を赤らめるばかりで、何も話してはくれない。


 となると、やはり狐笛丸の可能性を考慮にいれて、今、会わないわけには行かなかった。


 権大納言家の姫である土筆は、自由に出歩ける身ではない。後になって、どこにいるのかも分からない狐笛丸を、探しだして会いに行くことは不可能に近い。


 向こうから申し出た機会を逃しては、二度と会えないかもしれないのだ。


 そして、もう一つの理由は……ーーーやはり好奇心。


 世間を騒がす陰陽師とやらを見てみたかった。


 笛の音とともに人を呪い殺す男とは、どんな人間なのか。この男が、土筆になんのために会いに来て、何を言い出すのか。


 その興味を、土筆は抑えられなかった。


 御簾の向こうに座った狐面は、用向を問う土筆に、真っ直ぐ背筋を伸ばした美しい姿勢のまま答えた。


「土筆姫は………随分と、お恨みを買われているようですね。」


「……………え? 私が恨み……ですか?」


 あまりにも唐突な言葉に、不躾な発言なのも忘れて聞き返し、慌てて、コホンと一つ咳払いをした。


「………失礼しました。全然、思い当たるフシがありませんでしたので……」


 どちらかと言うと土筆は、引きこもりの変わり者として世に名を馳せている。

 家で、書物ばかり読んでいるせいで、交友関係もたいして広くない。よもや初対面の人間に、こんな事を告げられるとは思っていなかった。


 世間から捨て置かれている以上、恨まれる理由なんてないはずだ。


 を除いて。


 ところが狐笛丸は、軽く首をかしげ、そのたった一つをポツリと呟いた。


「藤原……時峰ときみね殿………」


「あぁ……。」


 やはり、というべきなのだろう。

 つい今朝方、タマと話題にしたばかり。恨まれるとしたら、それくらいしか心当たりはないのだ。


「言っておきますが、私と時峰さまは、皆が考えているような仲ではありませんよ。」


 思わず漏れた溜息とともに、言い訳めいた言葉を吐き出す。


「時峰さまは、ただの友人として、こちらに話し相手にいらしているだけです。」


 実際、別に艶めいた関係ではない。

 土筆の言葉に、狐笛丸は即答した。


「そうでしょうね。」

「………は?」


 どういう意味の「そうでしょうね」なのだろうか。

 土筆は、その返事の意味を、一瞬、考えた。


 ただ単に相槌を打っただけか。

 皆が憧れる近衛中将と、変わり者の姫の間に、何かあるはずなどないーーーという意味だと考えるのは、深読みしすぎだろうか。


 どちらにしても、この狐面。表情が全く読めないというのは、思ったよりも厄介だ。


 相手も御簾に隠れた土筆の顔は見えないわけで、条件は五分と五分かもしれないが。


「それを、お分かりだというのに、なぜわざわざ、狐笛丸殿はこちらへいらしたのですか?」


「別に、私の理解は関係ないでしょう?」


 狐笛丸が言い返す。


「私がどう理解していようが、他の皆は、そう思っていません。」

「他の皆、とは?」

「言ってしまえば、藤原時峰殿に思いを寄せる女たちや、時峰殿を婿にしたい貴族たちですね。」


 狐笛丸が淡々と答える。


「貴女たちの関係が事実どうであれ、彼ら、彼女らは、あなた達の関係を面白く思っていない。」


「それは、まぁ……そうかもしれませんが……」


 土筆は、時峰が関わってきた女たちのことを、良く知らない。今朝、タマから聞いた槿の君しかり、同じように妬んでいる者も、他に何人もいるのかもしれない。


「……それで、貴方が言いたいのは、私がそういう者たちから恨まれていて、今に呪われる……とでも?」


「いえ、違います。」


 狐面が、ゆっくりと左右に揺れた。


「今に呪われる、ではなく、もう呪われているんです。」

「………え?」

「姫は、呪詛をかけられているんですよ、もうすでに。」


 狐笛丸は、動揺する土筆のことなど気にも留めずに、ただ同じ言葉を繰り返した。


「それは……どういう意味ですか?」


 土筆は、とりわけ信心深いほうではないが、それでも世間一般並に、目に見えない者への畏怖の念はある。


 呪わているなんて言われれば、いい気はしないが……


「今のところ、特にそういった感じはありませんけど……?」


 土筆はいたって健康体。夜もぐっすり眠れている。何か悪霊やら物の怪やらに取り憑かれている気配は、全くない。


 すると、狐笛丸がクスッと笑った。


 顔が変わったのではない。明確にクスリと笑う声がしたのだ。


「……失礼。」


 狐の顔をキョロキョロさせて、


「いえいえ。ここは、かなり禍々しい気が漂ってますよ。」


 ツンと立った狐面の鼻先を、まるで何かの匂いを嗅いでいるかのように小刻みに動かすと、


「実に、よろしくない。」


 首を軽く左右に振った。


「そもそも、私がここを訪れたのも、この匂いを嗅ぎ取ったからでして……。」


 狐笛丸は、この唐突な訪問は、漂う瘴気の匂いに、いてもたってもいらず花房邸の門を叩いたからだという。


「相当に強い恨みを抱かれているようです。」


 土筆は、その言葉を素直に信じているわけではなかった。


 仮にこの男に、他に目的があるとしたら、何だろう?


 菫に会うこと?

 素直に門を叩いても、絶対に菫には会えない。なれば、土筆を理由に逢瀬を画策としているという可能性もある。


 だが、その割に、先程から話題にするのは土筆のことばかりで、菫の話を持ち出す様子はない。


 土筆は改めて、狐笛丸の挙動を注視する。

 ふいに狐笛丸が、懐から小さな陶器の器を取り出した。

 器は、手のひらにチョコンと乗るくらいの大きさ。形状は雫のような形で、口を木栓で閉めている。


「これは、清めの水です。」


 狐笛丸が、それを摘んで、床においた。


「清めの水?」

「この先、もし貴女に霊障のような症状が現れたら、これを三滴ほど口に含んでください。」

「口に含む?」

「左様。さすれば、身体の内より神力を宿す水です。」


 信じて良いものか。


 読めもしない狐面に目を凝らしたが、すぐに諦めた。霊力の宿った水だと渡されて、断る理由がない。そもそも、霊障など起こらなければ必要ないだろうし。


「ありがとう……ございます」


 土筆は、陶器の器を見てから、再び狐面を見た。その瞬間、なぜか背筋がゾクリとした。


 この男の力によるものか、それとも、無機質な面を気味悪く感じたのか……


 妙な居心地の悪さ。と、狐笛丸が、


「では、私はこれにて。」


 フワリと立ち上がった。

 背は時峰より少し低い。狩衣からのぞく腕は白く、痩せている。


「何かあったら、そのときはまた、お助けに参りましょう。」


 狐笛丸な、そう言って、出ていこうと踵を返したところで、ふと足を止めた。

 狐面が、斜め下、部屋の隅に置かれた器に向いている。


「……アサガオ?」


 視線の先には、今朝、時峰から送られたアサガオ。水を張った器にプカプカ浮かんでいる。


 狐笛丸は、妙に意味ありげな間を取った後、呟いた。


「………知っていますか? アサガオには毒がある、ということを。」


「え……? なんですって……?」

「いえ。なんでも。」


 聞き返そうとした土筆を遮り、狐笛丸は、そのまま、さっと部屋を出ていった。


「あの! チョット?!」


 後ろ姿が几帳の向こうに消える。急ぎ、土筆はタマを呼んだ。


「タマ!」


 清めの水の小瓶に近寄り、触れても良いものかと、体を屈めて舐めるように見ていたタマは、土筆に呼ばれて、「はぁい!」と、体を起こした。


「狐笛丸を追いかけて。すぐに。」

「えッ?!」

「菫に会いに行くかもしれない。」

「あ………!!」


 土筆の指摘に、タマは、すぐに立ち上がり、「分かりました」と、身を翻して、部屋を出ていった。


 土筆には、狐面丸の目的が、こんなのを渡すことだとは思えなかった。

 きっと、何か別の狙いがある。それは菫か、それとも、他の何かーーー。


 ざわざわする胸の内を抱えて待つ。


 しばらくすると、タマが首をひねりながら戻ってきた。


「おかしいですよ?」


 唇を尖らせ、眉間にシワを寄せている。


「あの陰陽師、どこにも見当たらないんです。」

「見当たらない? もう帰ったてこと?」

「それが……門衛にも聞いたのですが、そんな男は通ってない、と……」

「じゃあ、裏門のほうに出たのかしら?」

「いえ、それも違うようなんです。」


 タマは念のため、裏門にも回って、そこにいる者たち尋ねたらしい。


「でも、皆が口を揃えて言うのです。そんな男は見なかった……と。」


 男がまるで、煙みたいに消えたというのか。


 自分の存在の不気味さを匂わせるために、あえて存在を消してみせるーーーそんな意図でもあるような気がして、土筆は何だか嫌な予感がした。


「もしかして、菫の部屋に行った……ということはないのかしら?」


 そうでなければいいけど、と案じながら口にしたら、タマは首を横に振った。


「それは、ないと思います。」


 タマは、表門を確認してすぐ、裏門に行くより先に、菫の部屋に引き返そうとしたらしい。


「そしたら、ちょうどそのとき、菫さまに出くわしたんです。」

「菫に出会った? どこで?」


 引っ込み思案な菫が、自室から出歩くのは珍しい。


「東の対屋の方へ抜ける廊下の手前です。」

「なんでまた、そんなところに?」

「それが……」


 タマの顔が曇る。

 何か、あまり良くないことを言おうとしているのだと分かった。


「何かあったのね?」

「いえ、あの………」


 タマは躊躇いながら、


「菫さま、笛の音を聞いた気がする……と言うんです。」


「笛の音ですって…?!」


 二日前に、時峰が言っていた。


 狐笛丸が人を呪う時、そこには笛の音が響き渡るのだ、と。


「菫はッ……!? 菫は大丈夫なの?」

「はい、それは……」


 タマが何か言いかけた、その時。


「お姉さま、お加減いかがですか?」


 末姫の愛らしい顔が、几帳のむこうからヒョッコリ覗いた。


「菫!! 貴女、なんでここに?」


「だって、みんなが噂していたんですもの。お姉さまのところに陰陽師が来たって……」


 言いながら、土筆の部屋に入ってくる。


「菫さま、陰陽師が来たこと、ご存知だったんですね……」


 箱入り姫の菫には刺激が強すぎるだろうと、皆、彼女には教えなかった。


 だが、女房たちは結構、噂好きだ。皆が菫を、厚い御簾で覆い隠して守っていても、意外と当人は、その隙間から耳を差し入れ、人の話を聞いている。


「ねぇ。お姉さま、何かあったんですか……?」


 尋ねる菫に、土筆は、「大したことはないのよ。」と誤魔化して、


「それより、貴女、狐のお面を被った男を見なかった?」

「狐のお面?」


 菫はキョトンとした顔で、首を傾げた。


「なんですか? それ?」

「さっき、笛の音が聞こえたのでしょう?」


 菫は、パッと目を見張って、「えぇ、そうです!」と、コクコク頷いた。


「微かに音が聞こえた気がして、部屋を出て……でも、すぐに止んでしまったから、聞き間違いかと思って……。」


「その時に、白い狐面の男に会わなかった?」

「いいえ。会ってないわ。」


 菫は今度は、首を横に振った。


「その方が、どうしたのですか?」


 菫の反応は、取り繕っているようには見えない。それどころか、狐面の男を知らないようにすら、見える。


 でも、恋をすると変わると言うから……ーーー


「本当に、狐面の男のこと、知らないのね?」

「知りません。」


 菫は、「変なお姉さま」と、愛らしく笑った。


 では、結局、菫の想う相手は、あの狐の陰陽師ではないのだろうか。



 ともかく、自分にも、菫にも、何事も起こらなければ良いのだけれど………




◇  ◇  ◇



 この時の土筆は知らなかった。

 菫が逢っていた、正体不明の男のことを……ーーー

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