第2話 時峰とアサガオ


 御簾を垂らした目の前で、白い狐面の男が、感情を読ませぬ淡々とした口調で言った。


「はじめまして、土筆姫。お噂はかねがね。」

「初め……まして。」


 土筆は、あえて警戒感を隠さぬ固い声で応じた。


 それに応えるように狐面が僅かに揺れたが、それが笑ったのか、それとも単に顔の角度を変えただけなのか、土筆には判断がつかなかった。


 そもそも、なぜ土筆が、この怪しげな男と面会をしているのか。



 この男が口にすること、そして、について、正確に考えるには、まず、この日の朝の出来事から振り返る必要がある。



*  *  *



 それは、藤原時峰が訪れた翌々日のこと。

 朝餉を終えた土筆の元に、文が届いた。


「土筆さま、こちら……」


 タマが差し出した文には、摘んだばかりだと思われる、瑞々しい青紫の花が添えられている。


「この花は……アサガオでしょうか?」

「えぇ、そうね。」

「こんな時期に珍しいですね。アサガオの盛りは、まだ一月ひとつきは先ですのに。」

「随分と早咲きのようね。どこに咲いていたのかしら。」


 答えながら、文を開く。差出人は時峰だった。

 中身は、土筆が頼んだ調査の経過報告。だが、首尾は、あまり良くなさそうだ。


 そして、その最後に……


「何と書いてあるのですか?」


 フフフと口の端を上げた土筆の表情を、見逃さなかったタマが尋ねた。


「歌だわ。」


 時峰らしい、ソツのない滑らかな筆使いで、歌が書きつけてある。


「気の早い花を見つけたので、貴女に会いたいと気が急いている私のようだと思い、摘み取りました……ですって。」


 添えられた一文の気障なこと。


 どんな歌かと、興味津々な様子で、こちらを見ているタマに、文をホイと渡してやる。受け取ったタマは、


「……えぇーっと……読み下していただいても?」


 漢字ばかりの字面に困惑して、土筆に助けを求めたので、土筆は、その歌を諳んじた。



 「ことに出でて 言はばゆゆしみ 朝顔(あさがほ)の

   穂には咲き出ぬ 恋もするかも」


 口に出して言ったら不吉な事が起こるといけないので、朝顔の花のように秘めた恋をしていますーーーとでもいったところか。



「万葉集の歌ね。それも、わざわざ万葉仮名で書いてくるなんて。」

「はぁー、それでアサガオですか。相聞歌そうもんか(恋の歌)ですよね。」


 なんてお洒落と、嘆息するタマに、


「言っておくけど、文に添えられたアサガオと万葉集の朝顔は別の花よ。このアサガオは、わりと最近、大陸から渡ってきたものだもの。」


 昔のアサガオは、ムクゲのことだと教えながら、土筆は、ナヨナヨとした花弁を傷つけぬよう気をつけて、青紫の花を優しく手のひらで掬った。


「また、そんな身も蓋もないことを……」


 情緒ロマンスを楽しまぬ物言いだと、口を尖らせるタマに、「はい、はい。」と適当に応じて、


「それより、タマ。適当な器に水を張って、持ってきてくれる?」


 土筆に頼まれ、タマが「分かりました」と、腰をあげた。


 タマはすぐに土筆の所望の器を調達してきたので、そこに、土筆が丁寧に、花を浮かべた。


「アサガオは一日花だから、長くは持たないけれど、これで少しはマシでしょう。」


 水の上を、青紫のアサガオの花がプカプカと涼し気に泳いでいる。


「なかなか良いものでございますね。」


 タマも「ほぅ」と感嘆の声をあげた。が、すぐに文に視線を落として、


「それにしても、中将殿も『秘めた恋』とは、良く言ったものですわ。」


 と、やや呆れたように言った。


「あれを秘めた恋と申しましたら、世の中の恋のほとんど全部が、極秘中の極秘扱いですわ。」


 チラチラとこちらに意味ありげな視線を寄越すタマに、土筆は、黙って苦笑いした。


 時峰が自分のところに足繁く通っていることを、土筆は、未だに何かの冗談か暇つぶしだろうと思っているから、こういうことを言われても、反応に困るのだ。


「それにしても、よりによってアサガオとは……」


 今度は一転して、渋い顔に変わるタマ。その変化が気になって、


「アサガオに何か意味があるの?」


 土筆が尋ねると、「ご存知ないんですか?」と、タマは唇を尖らせた。


槿あさがおの君ですよ。」

「槿の君? 源氏物語の?」


 源氏物語は、かつて中宮彰子に仕えた紫式部が書いた物語だ。そして、槿の君は、その登場人物の一人であり、源氏の君の年上の従姉妹。

 源氏の君が慕った数多の女性の中でも、かなり執着していた相手だった。


 源氏の君は、一時期、かなり熱心に口説き、槿の君のほうも、満更でもなく心を寄せていたが、源氏の君に愛された数多くの女たちの一人に加わるのを嫌った槿の君は、ついにその想いを受け入れなかった。


「そう……なんですけど、違います。物語の槿の君ではなく、時峰さまの従姉妹の槿の君です。」

「時峰さまの従姉妹? あまり存じあげないわね。」


 タマが言うには、槿も、式部卿宮の娘だという。源氏物語の槿の君と同じ……ーーー


「あぁ、あの方ね。お付き合いはないけど、聞いたことがあるわ。なるほど、今をときめく公達の年上の従姉妹で、式部卿宮の娘。それで、槿の君なのね?」


「勿論、そういう意味ではあるのですが……」


 それだけではない、という。


 源氏物語の槿の君は、源氏の君と互いに想い合いながらも、他の女たちとは違い、源氏の君を受け入れなかった。つまりは純愛ーーーだからこそ、


「槿の君こそ、源氏の君の真の本命だ、と考える方もいるそうです。」

「まぁ、本の読み取り方は人それぞれだものね。いいんじゃないかしら?」


「いえ、そうじゃなくてですね……」


 タマは、少しもどかしそうに、


「時峰さまも、今でこそ土筆さま一筋でこちらに頻繁にいらっしゃっていますが、もともとは、あっちこっち女性の元に通われていたでしょう?」


 将来有望な近衛中将にして、稀代の色男。土筆の元に足繁く通うようになる以前は、いろんな姫との出逢いを重ねてきたという。

 本人曰く、あくまで文字通り「出逢った」だけらしいが………。


 ともかく、タマの言う通り、これまで、あっちこっちの女性のところに顔を出してきたのは事実で、それ故、とんでもない好色男プレイボーイだという評判だった。


 ただ、好色男は、一人の女に固執しない。どの女性とも、軽く浅い付き合いだと認識されている。


「ですから、土筆様が現れる前まで、巷では、年上の従姉妹の槿の君こそ時峰さまの本命だ、と考える向きもあったのです。」


 ところが時峰は今、誰がどう見ても土筆に熱を上げている。

 それも、かつての時峰には考えられないほどの執心ぶりだ。何せ、伝え聞いたところによると、他の女のところには、一切行かなくなったらしい。


 つまりタマは、「熱心に口説いているはずの我が主に、そんな曰くのある相手と同じ名の花や歌を、送って寄越すだなんて!」と、時峰に苦言を呈したいわけだ。


「もともと、槿の君自身も満更ではなかったそうですし……こうなった以上、下手したら槿の君は、土筆さまのことを妬んでいるかもしれませんのに……」


 タマの言葉を聞きながら、土筆は、水に浮かぶアサガオの青紫色の花をチョンと触る。


 確かに、わざわざ自分と噂のあった女の名を冠した花を送るだなんて、狙ってやっているとしたら、随分と意味深だ。


 でも、時峰の文にそんなに深い意味があるのかしら?


 時峰と実際に話す前の土筆なら、感じの悪い色男だわ、などと思っていただろう。

 でも、今の時峰を考えると、ピンとこない。

 時峰は、確かに熱心に土筆のところにやって来る。どうやら、土筆と話をすることを楽しんでいるらしい。だが、だからと言って、そういう恋の駆け引きをしたがるようには、見えないのだ。


「まぁ、槿の君に限らず、時峰さまに懸想している姫は、かなり多いですからね。」


「そう……なのね…。」


 土筆は俗世間の噂話に疎いから、あまり深刻に考えていなかったが、確かに時峰の行動は、皆の口の端に登っているかもしれない。


 そのことについて、皆は………槿の君はどう思っているだろう。


「………なんて面倒なこと。」


 勝手に時峰が足を運んでくるだけなのに、他の姫の恨みを買うだなんて……それこそ勘弁してほしいものだわ。


 土筆は寝そべてって、のんびりとアサガオの花を眺めた。


 土筆につつかれた花は、人間の嫉妬など関係ないよ、とばかりに愉しげに揺れている。


*  *  *


 そんなやり取りがあった日の午後のこと。前触れもなく、花房邸を訪ねてきた客人がいた。

 その男は、白い狐面をつけて、自らを陰陽師だと名乗った。


 昨今、話題の狐笛丸こてきまるだった。

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