第10話 満月の下で

 僕の背後で屋上の扉が金属音を上げ、足音が遠ざかっている。狂気は、去っていった。僕の心に不穏を残して。さっさと僕もこんな場所から離れたい。たった二度しか訪れていない屋上は、最早恐怖の場所でしかない。

 ただ、目が開かない。目を開けば、其処には現実が待っているから。僕の置かれている現状を、そしてその先に待つことを、直視させられてしまうから。

 だから、僕は目を閉じたまま、動かない。動けない。






 どれほど、時間が経ったのだろう。


「……護?」


「……っ!!」


 突然背後から肩に手を置かれ、反射的に体を捻り、バランスを崩してその場に尻餅を付く。心臓が早鐘を打ち、息が乱れた。


「⋯⋯だい、すけ」


 漸く開いた目の先には、友人の姿があった。夕日は沈みかけ、夜が始まろうとしていた。

 唯一無二の友人、佐藤大介は両手に二つの鞄を持っていた。片方は僕の物だ。


「教室に鞄が置きっぱなしだったから探してたんだよ。⋯⋯大丈夫か? 最近変だぞ」


 僕を取り巻く狂気が薄れ、日常がほんの少し顔を出す。それだけでも今の僕にはありがたかった。屋上にまで来るとは、かなり広範囲を探してくれたに違いない。

 小さく息を吐いてその場に立ち上がってズボンを軽く叩く。


「⋯⋯うん、大丈夫。心配かけて悪いな。ありがとう」


「ん、気にすんな」


 持ってきてもらった鞄を受け取る。こんな時間に屋上に蹲っているのだから、明らかに大丈夫ではないだろう。それを分かっていながらも、彼は深くは聞かずに短い返事と共に笑みを浮かべる。

 その気遣いがありがたかった。話せば、いくらだって相談に乗ってくれるだろう。どんな話だとしても。どんなに荒唐無稽なことだとしても。


 しかし、だからこそ、話すことなど出来るわけもなかった。この優しい友人を、あんな狂気に巻き込みたくなどない。


「ほら、さっさと帰ろうぜ」


 鞄を肩を回して背中側で持った大介が、空いている手を差し出してきた。脳内に渦巻く黒い靄をふるふると首を振って払い、その手を見つめて小さく頷いた。




「久々にゲーセン寄るか」


 帰りがけ、商店街の一角のそれなりに大きなゲームセンターを前にすると、不意に大介がそれを指差して悪戯っぽく笑う。

 僕はとてもそんな気分にはなれずに否定の言葉を返そうとしたが、手を取られて半ば強引に連れ込まれてしまった。


 内容はもう、散々だった。

 クレーンゲームでは、好きなアニメのフィギュアに四千円も費やしてしまい、見かねた店員さんの補助を受けて漸く取れた。

 ふざけた大介とプリクラを取ろうと向かって、男子だけでは立ち入り禁止だと怒られ。

 レースゲームでは、大差を付けられて負け。

 最後にホッケーゲームでは、完封なきまでに叩きのめされた。


 けれど、楽しかった。お小遣いが残り少なくなっても、久々に本気で悔しがって、笑って、感情を吐き出した。


「少しは気晴らしになったか?」


 その帰り道、背中を見せて前を歩く大介が言葉だけを僕に言葉だけを掛ける。今この瞬間、僕はただの高校生だった。どこにでもいる一人の男子生徒だった。


「⋯⋯助かったよ」


 本当に、助かった。

 きっと彼がいなければ、僕はずっと狂気の渦に晒されたまま、抜け出すことは出来なかっただろう。


 単純なものだ。

 藤堂さんに関わって思考を支配されかけて、自分にはもう従うしかないのだと思い込んで。しかし、ほんの少し、ほんの少しだけれども、この狂気から抜け出そうとする気力が出た。


「じゃ、ここで。また遊ぼうぜ、護」


 僕と大介の家はそれなりに近い。

 T字路で分かれ、僕の家は右側に直ぐに並ぶ住宅街の少し先、彼の家は左側で両側を田んぼに挟まれた道を歩いた先にある。街灯があるために夜でも明るさは多少確保されている。とはいえ、少し電灯が切れかかっているのか時折点滅をしていた。


「うん、また明日」


 大介と別れて静かな住宅街を歩きながら、ふと考える。

 確かに、正義の味方になりたいとは思っていた。

 けれど、あんな風に正義を試されるのは御免だ。そもそもあんなもので試されているのは、本当に正義なのだろうか。


「⋯⋯よし」


 左の拳を軽く握る。

 正義の味方になりたいのであれば、藤堂さんの、彼女の狂気を止めなければいけない。前に聞いた限りでは、その欲求は些細なものから生まれた。それならば、まだ肥大化しておらず実行もしていない今ならば、説得で好奇心を鎮めることが出来るのではないだろうか。


 勿論、もう関わりたくなどない。

 ただ接触は避けられないだろう。そうであれば、僕は自分の正義を遂行する。彼女を狂気から引きずり出す。きっと、それが僕の役割なんだ。


 ふと、空を見上げる。

 そこには僕を鼓舞するかのように、満月が輝いていた。

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