第9話 本当の望み

「貴方のせいじゃないわよ」


 夕日を見上げていた藤堂さんは、くるりと僕の方を向いた。後ろに手を組んで、やや上半身を倒して僕の顔を覗き込む。優しげな微笑みを称えて。


 ▽


 僕は、また屋上に呼び出されていた。あの日と同じように、下駄箱を開けると薄桃色の便箋が入っていたのだ。それは否応なく僕にあの日のことと、そして新たに起こった事件を想起させる。

 呼び出された所で録な用件でないことは分かっているが、それでも行かないという選択肢は思い浮かばなかった。逆らったら、何をされるか分からない。僕は、既に藤堂さんに支配されかかっているといえた。


 そして、放課後。

 夕日を見上げて僕のことを待っていた彼女は、扉を開ける音に気付いて振り返る。


「⋯⋯⋯⋯」


 そうだ、そんなことはわざわざ言われるまでもない。

 しかし、緊張で喉が乾ききっている。


「あの男が勝手にやったことなのだから」


「⋯⋯なんで、逃がしたんだ」


 犯人であろう男を捕まえていたというのに。

 あのまま警察に引き渡してくれていれば、それで事件は解決していたというのに。


「殺すか、逃がすか、そのどちらかだって言ったでしょう?」


「それなら殺せば良かっただろ! ひっ、人を殺したいなら勝手にやってくれ!」


 そうだ。なぜ僕を巻き込む。僕が殺すことを許可しなかったから逃がしたというのであれば、それは僕にも責任があるということではないか。そんなの、そんなこと、あまりにも理不尽だ。


「駄目よ、私が一人で殺したのでは意味が無い。観測者が必要なの。だって、それでは蓋を開けられていない猫のようなものよ。ただの例えで、量子力学の話ではないけれどね」


「意味が、分からない」


 蓋を開けられていない猫。シュレディンガーの猫というものだろうか。名前こそ知っていても、意味はよく知らない。彼女の言っている意味が分からない。分かりたくもないが。


「私が人を殺した、という事実を現実に定着させたい。今回、あの男が新たな事件を起こさなければ、私が殺したかどうかは分からなかったでしょう? だから、観測者が必要なのよ」


 彼女の目が細まり、微笑みが深いものになる。けれど、柔らかな中に淀みが混じる。

 なんだよ、観測者って。それが必要だとしても、誰だって構わないじゃないか。


「それなら誰だっていいじゃないか。なんで僕なんだ。なんで僕に選ばせたんだ。許可なんて必要ないじゃないか」


「最初はね、観測者なんて要らなかったのよ。ただ欲求を満たせれば良かった。でもね、犬飼くん。貴方のことを知ってしまった。貴方の望みを知ってしまった。そうしたら、こうなっちゃったの。⋯⋯そうね、観測者が欲しいというのも後付けかもしれないわ。私の本当の望みは、たのしみは──」


 僕でなくてはいけないという。

 僕が、正義の味方になりたいと書いたからだという。

 自分で理由を語っておきながら、そうではないと否定する。


 言葉を切った彼女の、真っ黒な瞳に見つめられる。吸い込まれそうな瞳。しかし、それは綺麗さ故のものではない。まるで底無し沼に引きずりこまれるかのような、そんな感覚。


「──犬飼くんに許可を得て、殺すこと」


「⋯⋯なんだよ、それ」


 狂人の理論など、狂人の愉悦など、僕には知ったことではない。けれど、彼女の望みには僕の存在が含まれている。僕は偶然ではなく、必然として彼女の狂気に巻き込まれている。


 彼女の言葉が脳内に反響する。頭を抱えて、その場にしゃがみ込む。目を瞑る。闇の中で、何度も、何度も、彼女の言葉が繰り返される。


「なんなんだよ、お前⋯⋯」


 呟きを、零す。


「藤堂凛。貴方の同級生よ」


 違う。そんなことじゃない。そんなことを問うているのではない。そもそも答えなんて求めていない。


「安心して。今度もちゃんと罪人にするから。そして、貴方は、選ぶ」


 衣擦れの音がして、僕の耳元で囁かれる。

 ぐるりと、頭の中が回転した。

 また、同じことをさせられるというのか。これで終わりではないというのか。まだ、狂気は終わっていないのか。


「今度は、逃げないでね?」


 闇の中に、彼女の微笑みが、淀んだ瞳が、くっきりと浮かび上がった。





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