第7話 束の間の平穏
その日はどのようにして帰ったのか、よく覚えていない。余程顔色が悪かったのか心配する母親の声を無視して、部屋に入るなり鞄を乱雑に放り投げ、着替えもせずに布団に包まった。完全に日の落ちきった真っ暗な室内で、ただ布団に包まり、全身を襲う寒気に身を震わせていた。
先刻まで繰り広げられていた光景は、現実だったのだろうか。ただの白昼夢ではないのか。しかし、時折鈍痛を発する首の傷がそれを否定する。
まだ、心臓は早鐘を打っている。全身を襲う寒気もまだ治まっておらず、とにかく心も体も疲れ果てていた。
幸い、今日は金曜日だ。明日は学校に行く必要はない。落ち着け、と自分に言い聞かせ続ける。時折聞こえる母親の心配そうな声も全て無視する。
そうして、何十分、何時間経ったか分からない内にいつの間にか僕は眠りについていた。
▼
週が明ける。
二日間の休みを経ても、やはり僕の心は疲れたままだった。
藤堂さんは、あの後どうしたのだろう。
あの男は、あの後どうなったのだろう。
そればかりが、頭の中にに反響していた。
「あっ! ごめんっ!!」
後ろから誰かにぶつかられて、体がよろける。走って投稿していたのだろう、学年一位のアイドルの戸ヶ崎さんが両手を合わせて申し訳なさそうな表情をして走り去っていく。
関わりを持ったのが彼女だったなら、きっとこんなことにはならなかったのだろう。関わりを持つことなんてきっとないだろうが。
玄関口までたどり着くと下駄箱を開けることに恐怖を覚える。自然と鼓動が早くなる。
目を閉じて、ゆっくりと開いていく。
恐る恐る目を開けると、そこには何も入っていなかった。
安堵の息を吐く。もしもまた呼び出されたとしたら、最早拒否する権利などないのだから。
教室に入ると、そこにはいつも通りの光景がある。日常。それに酷く安心を覚えた。
窓際の最後尾、藤堂さんの席へと目を向けると、彼女は以前と変わらずに読書をしていた。何を読んでいるのだろうか。少し興味は沸いたものの、きっと知らない方がいいのだろう。
同じく最後尾、藤堂さんから三つ離れた場所にある次席へと座る。
「おはよー、護。⋯⋯どした? 顔色悪いぞ?」
前に座っていた男子生徒が僕の方へと振り向く。
佐藤大介。
小学校からずっと一緒の、所謂腐れ縁というやつだ。親友、という言葉が当てはまるだろうか。
「ちょっと体調崩しててさ⋯⋯。でも大したことないから大丈夫だよ」
「季節の変わり目だもんな。無理すんなよ?」
笑顔を貼り付けて返答すると、彼は心配そうな表情を浮かべる。気兼ねなく話せる友人。今の僕にとってはそれが何よりもありがたかった。
「そういやさ、例の強盗殺人犯まだ捕まってないらしいな。身近にそういう奴がいると思うと怖いよ」
今、この町を賑わせている一番の話題だ。僕は、その犯人を目にしている。まだ捕まっていないということは、藤堂さんはあの後に警察に引き渡したということはないようだった。
──だとしたら、
いや、休み中に何度も考えた事を打ち消す。
何があったかは、僕の預かり知らぬことなのだから。
ちらりと、再び藤堂さんへと視線を向けた。膝の上に広げたハードカバーに目を落としている。艶のある黒髪は邪魔にならないように耳に掛けられ、深窓の令嬢、といった雰囲気だ。きっと僕の視線は感じているだろう。しかし、彼女はこちらを見ない。
それならば、きっとそういうことなのだろう。
それから数日が経っても、彼女が何らかのアクションを起こしてくることはなかった。未だにあの日の悪夢を見るが、それもやがて消えていくのだろう。
彼女はあそこで選択することが出来なかった僕を見限ったのだ。もう、関わってくることは無い。そう、僕はほんの少し日常に触れただけ。彼女の狂気の一端に触れただけ。
ふと、視線を感じた。
藤堂さんさんの方を見るが、彼女はいつもと変わらず本に目を落としていた。ただの気の所為に違いない。
それこそ、彼女の殺人欲求も突発的なものだったのかもしれない。
あの男も、犯人などではない、ただ一般人だったのかもしれない。
普通に考えて、一般の女子高生が未だ顔も分かっていない殺人犯をたまたま見つけるなど、そんな都合の良いことがあるはずはないのだ。
そうやって、自分に都合良く考えていた。もうあんな目に遭うことはないと安堵を抱いていた。そんな、ある種の現実逃避。
その翌日、逃れられない現実が突きつけられることを、僕はまだ知らなかった。
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