第6話 善と悪
「つ、罪に決まってる」
「どうして?」
当たり前のことだ。誰に聞いたとしても同じ答えが返ってくるだろう。
藤堂さんは不思議そうに小首を傾げる。まるで幼子のように無垢な表情で。けれども、その奥には淀んだ欲望と愉悦の色が見える。それは人殺しという行為に対してのはずだが、何故か僕へも向けられているような気がした。
「ひっ、人殺しは犯罪じゃないか」
殺人を厭わない狂人を目の前にして、声は震える。それにもう一人、彼女の言葉を信じるのであれば、連続殺人犯が同じ室内にいるのだから。
「法律なんて分かってるわ。そうではなくて、もっと単純な善悪の話。私のしようとしていることは、悪?」
単純な善悪。法とは切り離された話。
問いかけられて、僕は考えてしまう。思考が誘導される。善とは何か、悪とは何か。
縛られた男へ視線を移す。未だにくぐもった声を上げて、左右に身を捩らせていた。その息は荒い。
楽しげな彼女の真意は何なのか。こんな狂気的な光景を見せて何を求めているのか。善悪の基準とは。
いや、考えるまでもない。善悪はきっちりと法律によって定められている。日本は法治国家なのだから。
「単純な話、と言っているのよ。確かに今、罪とは法律や条例で定められている。では、法律が出来る前は善悪の概念は無かったのかしら? 世界最古の法律、ウン・ナムル法典。ハンムラビ法典の方が有名だけれども、それよりも前に成立しているわ。そんなことじゃない、貴方の中の正義がどう感じるかよ」
「それは⋯⋯」
藤堂さんが言うことは、正しい。法律制定より前にも善悪は存在していたはずだ。それに対して罰を与えるものとして法律が出来た。犯罪に対する抑止力として。彼女が言っているのは、所謂『どうして人を殺してはいけないのか』という、そんなよくある質問の延長線にあるものといえるだろうか。
僕は、僕の中の正義とは。
「この男は、既に人を殺している。そして、放っておけばこの先も続ける。理由はどうであれ、既にハードルは超えてしまったのだから。ここで殺せば、それは止まる。善良なる人々が殺されることは無くなる」
「警察にこのまま引き渡せばいい」
彼女の問いかけに対して、正確に返してはいない。しかし、今の僕が答えられるのはそれだけだった。
「嫌よ」
即答。彼女にはそのつもりは全くないらしい。確かにその気があるのであれば、既にそうしているだろう。ただ、殺したいから、それだけの理由でこの男を警察に引き渡すという当たり前の選択肢を取らない。狂人には、狂人の理論がある。僕は決して、彼女の頭の中を理解できないだろう。
「殺さないのであれば、逃がすわ。そして、私は新たな獲物を見つけるだけ。さぁ、それは貴方が選ぶのよ」
「なっ、なんでそれを僕に決めさせるんだ」
「うふふ、貴方が正義の味方になりたい、なんて書くからよ」
小学校で、ほんの出来心で書いたもの。たったそれだけのことで目を付けられたというのか。凶悪犯を殺すことを容認するか、それとも逃がすのか。彼女が逃がすというのであれば、そうするのだろう。説得の余地はない。それに、彼女の期待を裏切れば僕が殺される危険性すらある。嫌な汗が、頬を流れるのを感じた。
しかし、僕には決められない。
「
「⋯⋯どっちも悪だよ。人を殺す、その時点で悪だ」
どちらも正しくなんてない。殺すことを容認することなんて出来るわけがない。人殺しは悪だ。どちらも悪だ。それは揺るぎのない事実だ。僕は、何も間違ったことなど言っていない。
「貴方には、関係の無いことだものね。私の殺人欲求も、この男の犯した罪も。巻き込まれちゃって、可哀想」
憐憫と、しかしはっきりと愉悦を含んだ声色。ナイフを顔の横に立てて微笑んでいる。
何故、それをこの女が言うのか。だったら最初から僕を巻き込むな。理不尽に対する怒りが込み上げてくる。拳が自然と握り込まれていく。
そうだ、こんなこと、僕には何の関係もない。急に呼び出されて、殺人欲求を語られて、こんな所に連れてこられて。そして、殺すか逃がすか決めろという。
僕が何をしたというのだ。
汗が止まらない。シャツが張り付いて気持ち悪い。心臓がバクバクと破裂しそうな程に脈打っている。視線を藤堂さんと男に交互に向ける。藤堂さんは、微笑みを崩さない。まるで全速力で走った後のように息が乱れている。男の呻き声。藤堂さんの微笑み。汗と皮脂の臭い。花のような香り。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、思考がこんがらがって、彼女の言葉が頭の中に反響し続けて。意識が遠のきそうになるのを感じて。
僕は。
僕は。
僕は。
──僕はその場から逃げ出した。
そうすることしか、もう出来なかった。
藤堂さんが追いかけてくる気配は無い。
「あーあ」
そんな呟きが、僕の耳に届いた気がした。
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