第4話 闇の中へ
「私、読書が趣味なの」
前を歩く藤堂さんはふと呟いた。知っている、寧ろ常に本を読んでいるイメージしかない。
「図書室でたまたま殺人鬼についての本があって、何となく手に取ってみた。それは、例えばエド・ゲインとか、彼らの起こした事件についての詳細が書かれていたものだったわ。そして、何となく興味が湧いたの。人を殺すってどういうことなのか、って。例えば、人を殺したら私はどんな気持ちになるのかしら、って。そこに楽しさを見出すのか。それとも恐怖や後悔を覚えるのか。或いは何も感じないのか。きっかけはそんな所ね、一ヶ月くらい前かしら。だから昔からそんなこと思ってたわけじゃないの」
彼女は前を向いたまま、聞いてもいない理由を話し始めた。僕は自分のハンカチで首の傷を押さえながら、彼女の後をついていく。
走れば、逃げることは出来る。しかし、それはしてはいけないと本能が告げていた。既に、手遅れなのだと。いや、最初から手遅れだったのだろう。あの手紙に誘われるまま、屋上に向かってしまった時点で。そこが分水嶺だった。
「どうして犬飼くんは正義の味方になりたいの?」
「⋯⋯特に、理由は」
きっと男なら誰しも一度は夢見ることなのではないか。戦隊ヒーローなんかに憧れて。僕はただ、そんな夢から醒めていないだけ。
「それじゃ犬飼くんの正義って何? 正義の味方って、文字通り『正義』のいうものの『味方』なんでしょう? なら、貴方の正義の定義は何?」
正義の、定義。
そんなことを深く考えたことはなかった。正義の味方になりたいといっても、さすがに進路調査で『正義の味方』と書くような馬鹿ではない。無難に、警察官になりたいと思っている程度だ。
「⋯⋯よく、分からない」
「それなら、今日は犬飼くんにとって記念すべき日になるわ。貴方の正義が形を得る。貴方の正義が何なのかが定義されることになる。正確にはせざるを得なくなる」
藤堂さんは振り返って視線を僕に向けた。その瞳には喜悦の色が浮かんでいる。ぞくりと、再び悪寒が走る。足が竦む。これ以上行ってはいけないと。
「⋯⋯どうしたの? 今更、帰るなんて言わないわよね?」
足を止めた僕に、彼女は目を細めて微笑みとともに小首を傾げる。今の僕にとって、その微笑みは恐怖の対象。脳裏を過ぎるのは、ナイフを向けられていた、あの瞬間。
それを思い出すと、結局は、震える足を一歩ずつ前に出していくしかない。彼女に逆らう選択肢は存在しない。
やがて、一つのマンションの前で先導していた藤堂さんは足を止めた。目の前を見上げる。そこは小綺麗な外観をしたマンションだった。タワーマンションと呼ぶべきものなのだろうか。一戸建てに住んでいる身としては、良く分からなかった。
「ここよ。着いて来て」
彼女はオートロック式の入口にカードキーをかざして開き、僕は震える足を無理矢理に動かしてその後をついていく。
エレベーターに入ると、彼女は二十階のボタンを押した。花のような、桃のような、甘い香りが鼻腔を擽り、ちらりと隣に視線を向ける。
その表情は楽しそうに見えた。まるでこれから遊園地に行く子供のような、そんなあどけないもの。しかし、それが何から齎されているのか、その胸中は考えたくもなかった。
エレベーターの扉が開くと、彼女は僕を一瞥してから歩き始めた。降りてから四つ目の扉の前で止まる。2004号室。そこが彼女の部屋らしい。
「私ね、一人暮らしなの。だから色々と自由に出来て助かるわ。⋯⋯入って?」
カードキーでロックを外して扉を開いた彼女は、笑顔を向けて先に入るように促す。正直、勘弁して欲しかった。殺人願望のある女の部屋に、だれが入りたがるというのか。
躊躇する僕に、彼女は目を細める。結局は、逆らえる訳もなく、入口の正面へと立った。
室内は、暗い。
電気が点いていないのだから当然ではあるといえ、中の様子が全く見えないほどの深い闇。それがぽっかりと口を開いている。
こくりと、生唾を飲み込む。
入る以外に選択肢がないのは分かっていても、一歩が踏み出せない。
「どうしたの? 早く」
急かす声は僅かに鋭さを帯びている。
背中にじわりと汗が浮かぶ。
闇の奥から、微かに人の声が聞こえた気がした。
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