第3話 彼の望み
何故、僕に。
そんな思いが去来する。当然だ。彼女とは、本当に、何の接点もない。声をかけたことも、かけられたことも、どちらも無い。
「犬飼くんって、正義の味方になりたいんでしょう?」
とんっ、と軽やかなステップで藤堂さんは僕から離れると近くに置いてあった鞄の元に行って何かを取り出そうとしているようだった。
対する僕は彼女の言っている全てが分からず、ただ離れた手の温もりと柔らかさに名残惜しさを感じて、無意識に自分の頬に手を当てていた。
「ほら」
そう言って、彼女は一冊の本を取り出して、とある
それは、小学校の卒業アルバム。
その、将来の夢を綴った部分。
そこには確かに僕の名で、下手くそな字で、『正義の味方になりたい』と書いてあった。
ああ、そういえばそうだった。
小学六年生にもなって、僕は正義の味方になりたいと本気で思っていたのだ。
「昔のことだよ」
いや、その願望は今でもまだ心の奥底に燻っている。我ながら馬鹿げたことだとは思いながらも。
他人に言えば一笑に付されると分かっていても。
「嘘ね、今でもまだその夢は残っている」
そんな僕の胸中を言い当てられてしまい、咄嗟に否定することが出来なかった。それを彼女は肯定と取ったのだろう、開かれた本の後ろで微笑みを浮かべている。
しかし何故、そんな話題を出してきたのか。そもそも何故、彼女が僕の学校の卒業アルバムを持っているのか。間違いなく小学校で同級生ではなかったはずだ。
「ねぇ、犬飼くん」
本を閉じた彼女が、呼びかける。また、碌でもないことを言い出すのだろう。
「これから、私の家に来て?」
「え?」
突然何を言い出すのだろうか。
これが告白であれば、ロマンチックなものであれば、あの藤堂さんから誘われるなど気絶しても仕方の無いくらいの衝撃だろう。
しかし、そんな青春らしさなど欠片もない。人殺しへの欲求を語られた後にそんなことを言われても、嫌な想像しかない。
藤堂さんは再び僕に近づき、じっと瞳を覗き込む。ぞくりとした寒気が背中を走り、視線を逸らした。
「ふぅん」
僅かに喜色の混じった声がしたかと思えば、不意に首に何かが押し付けられる。
鋭い、感覚。
再び、先程よりも強い寒気を覚えて視線を下ろす。
ナイフ。
せめてカッターか何かだろうという思いは、大きく裏切られた。何故こんな物騒なものを学校に持ってきているのか。そして、何故それが僕に向けられたのか。
下手に動くことも出来ずに、生唾を飲み込む。
「私の処女、ここで散らす?」
首に押し付けられた刃が僅かに引かれ、鋭い痛みが走る。肌に、一筋の血が流れるのを感じる。
恐る恐る彼女に視線を向けると、そこにはただただ純粋な笑みと、爛々とした瞳があった。
──本気だ。
直感が、告げている。
彼女の言葉は冗談ではないと。
急に訪れた命の危機に、心臓が激しく脈打つ。
じわりと、脂汗が浮かぶ。
何故。何故。こんなことになっているのか。
彼女の笑みが強まった。
より強くナイフを押し当てられ、恐怖に頭の中が支配される。
「私の家、来て?」
もう一度、問いかけられる。その口調は先程よりも強い。無意識に肩がびくりと僅かに跳ね、彼女の視線が一瞬だけ逸れる。
嫌だ。行きたくなどない。
しかし、否定の言葉は喉から先へと出ていかない。そうしてはいけないと、本能が警鐘を鳴らしている。滲んだ汗がワイシャツの背中を濡らしている。息苦しい。
「そう、それじゃ──」
「っ……行、きます」
しかし、その先を言わせてはいけないと、反射的に僕は言葉を絞り出された。直後に後悔が押し寄せる。しかし、僅かに細められた目が、撤回を許さないことを告げていた。
「本当に?」
「う、うん」
「……ちょっと残念」
今一度の問いかけに肯定を返すと、漸くナイフを下ろして一歩後ろに下がってくれた。風に乗って耳に届いた呟きは、聞かなかった事にする。その方がまだ幸せだろうから。
一先ず状況が改善されたことに小さく安堵の息を漏らすが、首に小さな痛みを感じて手を当てると、手の平には赤色が付いていた。血。ナイフで切られた傷。
本当に状況は改善されたのだろうか。
僕の返答は、正しかったのか。
「これ、使う?」
柔らかな微笑みと共に差し出されたのは、穢れのない、純白のハンカチ。
秋の到来を感じさせる僅かに冷気を孕んだ風が、僕の頬を撫でた。
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