第5話

明が、いつものように空手の練習に行くと、師範が

「押忍。明、毎日が充実してるみたいやな、顔に出てるぞ」

明は、目をパチクリしながら

「押忍、そんな事ないです」

「いやー、その顔が充実感を表しているんや。今まで見たことのないいい顔をしてるぞ」

「そうですか」

と、言いながら明は、右手で顔をぬぐった。

「今日は、明が指導をしてみるか」

「押忍」

空手三段になってから明は、師範の横で空手の指導の手伝いをしてはきたが、師範から直接指導しろとは、今まで言われはしなかったので、明は、

(正直、嬉しい)

空手の練習に来た子供たちを前に

「押忍」

と、ひとりひとりに挨拶をしてから、まずは師範に

「押忍」

と言って、頭を下げてから、子供らに振り返って

「それでは、今日は私が直接、指導します。押忍」

すると、生徒の中でいちばん年長である中学生の田中が

「お願いします」

と言うと、続いて残りの生徒たちも田中と同じように

「お願いします」

と。明が

「それでは始めます。その場突き30本、イチ、ニ、サン」

明は、子供たちに実践して指導する。

「蹴り30本」

「下段払い、刻み突き逆突き二挙動」

と、明の指導の元、練習をこなしてゆき、一時間の練習は、あっという間だった。練習を終えて明が師範に頭を下げると、師範が

「もう、この道場は、明に任せても大丈夫やな」

と。


明は週に一度、金曜日だけ洋子の許しを得て、夜中の防犯で近所の街をパトロールする。

老人からもらった薬は、明は半信半疑ながら飲んではいるが、薬が効いているかどうかは、わからない。

そんなある日の午前3時頃、一軒の家から煙が昇っているのを発見し、明はその家の玄関を激しく叩きながら

「大丈夫ですか。何か、燃えてませんか。大丈夫ですか」

と大きな声で叫んでいると、家人が起き出して、そのひとが煙の出ている台所へ行ってみると、コンセントから煙が激しく出ていて、辺りは真っ白で、慌てて消火器を持って来て消しと止め、危うく火事になるところだった。

「危なかった」

と、家人の声が明にまで聞こえ

(やっぱり、防犯パトロールはやってて良かったんかな?とにかく洋子さんが待ってるから早く帰ろ)


ある日、洋子と明が夕食時、洋子が

「明君、正当防衛ってわかる?」

「はい、ある程度は」

「明君は、空手三段なんだから正当防衛の意味をよく理解しないと、いけないと思うわ、絶対」

「はい」

洋子は、本棚から広辞苑を持ってきて、付箋の付いているページをめくり

「広辞苑には、急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するためやむを得ずする加害行為。刑法上は処罰されず、民法上も不法行為としての賠償責任を負わない緊急防衛。と書いてあるわ」

「そんな急迫不正の侵害とか、わかりません。要するに、自分から手を出すなと言うことでしょ」

「まあ、そんなとこね。私にも上手く説明出来ないけど、ひったくり犯を捕まえた時も、老人を助けた時も、自分から先に手を出したらいけないと言うことね」

「要するに、自分から先に攻撃しなければいいんでしょ。洋子さん、『空手に先手なし』と言って、幼い頃から、いつも師範に教えを頂いているんで、大丈夫ですよ」

「そう、それならいいけど」

「大丈夫ですよ。洋子さんも、僕が空手の先生だって、誰も知らなかったじゃないですか。普段、僕は大人しくしてるから、誰も相手にしませんよ」

「そうじゃないのよ。防犯パトロールに行くくらいなんだから、普通のひとよりは正義感が強いでしょ。そこが心配なのよ」

「正義感ですか」

「うん、例えばさっき明君が言った、不眠薬をくれた老人を助けた時ね」

「押忍、いやハイ」

「その時、チンピラ三人組がもし刃物をみんな持ってて、明君に襲いかかってきたとしたら。そこのところを心配してるのよ。正義感はいいけど、万一大怪我をして一生車椅子生活になったりとか、ほんとうに死んでしまったりとかしたら、残された私はどうなるの、そこを心配してるの」

「洋子さんは、僕の毎週の防犯パトロールをやめろと」

「そこまでは言ってないわ。私が心配してるのは、明君がほんとうに危険だと思ったら、躊躇せず逃げてほしいの。空手三段だからって、刃物や凶器には、かなわないのだから。自分の命のことを、まず考えてほしいの」

「はい」

「ほんとうに、わかってくれた?」

(僕はもう、自分ひとりじゃあないんだ。いまは洋子さんがいるんだ)

「わかりました」

明の顔を見て、洋子は

「ようやく、わかってくれたみたいね。それじゃあ、乾杯」

「乾杯」

二人は、缶ビールをグッとあおった。


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