第8話 三月
以知子は管理人室でいくらか荷解きを終えると、ゆっくりとした足取りで春休み真っ只中の学園内を突き進み、礼拝堂へと向かった。
そっと礼拝堂のドアを開ける。練習開始時間と教えられた十分前に着いたが、既に合唱部の女生徒たちがずらりと壇上に並んでいた。
「以知子さん、来たね」
城山がピアノの椅子から立ち上がって応えた。
「私、どこに居ればいいでしょうか」
「どこでもいいよ。好きな場所に座ってください」
城山はそう言うと、ピアノの椅子に再び腰掛けた。以知子は中央よりも少し外れた、後方の席に着席した。
「もう皆集まっているよね。少し早いけど始めようか。まずは校歌」
ピアノの和音が鳴り出すと、厳かな面持ちで並んでいた少女たちの表情が一変し、
ひとりひとりが呼吸とともに脈動するように動き、歌い出す。以知子は生徒たちの声量に圧倒された。城山はピアノの一音一音を丁寧に弾くことを信条としているようだった。最後の一音まで手を抜かずに弾ききる。
校歌が終わると、指揮を行っていた部長と思しき生徒がパートごとにこうした方がいいと改善点を付け加える、それに対して各部員がハイ、ハイ、と大きな声で応える。その間、城山は伸びをしたり、手をブラブラさせたり譜面を確認したりしていた。
「それじゃ次、"ピエ・イエス"ね」
ひとりの少女がハイ、と応えると一歩前へ踏み出し、ピアノのメロディとともにソロパートを歌い始めた。その声はどこまでも遠く伸びていくような雲ひとつない青空、湖面を過ぎっていく霧を同時に思い起こさせた。
とても繊細なのに一度もブレることのない強い声。以知子はその声の主に注目した。
くるくるとカールしている長い栗毛をハーフアップでまとめている。色白で顔の造りが小さい。まつげが長く、その一束一束がピンと上を向いて目を縁取っている。髪色と本人の雰囲気が紺色の制服とよく似合っていた。以知子は声から芯の強さを感じ取る。
ピアノが止まった。
「
城山がソロパートを歌う生徒に呼びかけた。
「本当に素晴らしい。でももっとここは注意深く舌を巻いて歌ってみて」
以知子は女生徒の名前を憶えていた。
相田クリスティンは来年度に高等部の二年生になる寮生で、以知子は噂好きな清掃員の女性から、彼女は幼い頃に父親を亡くしていて、土日も帰宅しない奨学生だと聞いていた。
再びピアノが始まる。合唱部の部長は頷きながらソロを歌う相田と呼吸を合わせる。この一連の動作から、城山と合唱部、合唱部と相田の間には強い信頼関係があると思われた。
以知子は演奏している城山を見た。
教育に力を入れているヴァンパイア、か……。
礼拝堂の天井からは日が差している。太陽も厭がっていない。
そういった
が、相田クリスティンの歌声に思考を全て奪われる。
凄い。単に綺麗なだけではない歌声。本気で"歌を歌う"ことに集中している。
英語の歌詞だが、ひとつひとつ意味や発音、音節などを理解した上で歌っているのだろう。
丁寧だからこそなのか、とっても感情に訴えかけるものがある……
ピアノが曲を盛り上げると合唱部のそのほかの生徒も応えるようにユニゾンで歌い始めた。礼拝堂に聖歌が響く。以知子は身じろぎもせずに聴き入っていた。
___________
「相田さん、すごいでしょう」
「ええ、本当にすごかった」
そうでしょう、そうでしょう、と城山は自分のことのように嬉しそうに応えた。
二人は寮の管理人室に居た。管理人室は学園内の保健室とあまり変わらない広さで、以知子が仮眠を取るロフトベッドなどもある。此処は以知子のこれからの主な仕事部屋に当たる。城山は合唱部の練習後、気兼ねなく管理人室へ寄りに来ていた。
「彼女ね、今度二年生になるのだけれど、部活動だけでなく自主的に練習もしていてね。努力家で本当に素晴らしい生徒なんですよ」
「そうなんですね」
以知子は相田クリスティンの声を思い出した。
「でも僕は心配かな」
どうしよう、と城山は例のように逡巡している。でも以知子さんだったらいいかな、ともごもご言っている。
「何でもお聞かせください。私はお話相手としても此処に居るわけですし」
「そうだね。それじゃいいかな。僕、君と話しても消えない自信があるし」
以知子も城山は自分と話しているだけでは消えないと思った。まだまだ知らない、分からない点がたくさんある上に、心が開けているようで何層も何層も扉があるような感覚があった。
「僕はね、自分としては正直に生きているの。でも他の人が何をどうするかは分からない……。僕は人間不信なんだと思う」
そして一呼吸置くと以知子をまっすぐと見据えた。
「君も遅かれ早かれ耳にするだろうと思う。一年前、うちの学園の生徒が一人失踪していてね。彼女の両親が警察に届け出を出したのだけれど、行方が分からない。家出か事件に巻き込まれているんじゃないかってね。……でもこの学園の中での反応を見る限り、僕はヴァンパイアの仕業じゃないかと思ってる……。君のようなハンターがあれから何人か学園に来たんだ」
勿論、僕も槍玉に挙げられていただろう、と言った後、城山は続けた。
「以知子さん、この学園には生徒の中で不思議な伝統があってね。『
「『
「そう。『黒百合』……。毎年九月の学園祭で、何かひとつ能力が秀でているひとりの生徒を全校生徒から選ぶ催しなんだ。選ばれたら大学入試に受かりやすいとか推薦入学出来るとか幸せな結婚が出来るとか、まあそういう在り来たりな噂もあってね。いつからあるものなのかも知らない。僕がこの学園に来た時には既にもうあったよ。そして去年、その『黒百合』に選ばれた生徒が失踪した。木嶋麻衣子っていう子だった」
城山は以知子から目を逸らした。遠い何かを見つめるような目だ。
「木嶋さんは合唱部のソリストだった。」
城山は声を詰まらせ、目に涙を溜めた。
以知子は冷静に相対しようと努めた。
「理事長は……相田さんが『黒百合』というものに選ばれて、同じようにヴァンパイアから狙われることを心配されている、ということですか?」
「……そう。君の言う通り」
以知子は一気に押し寄せた情報をひとつひとつ頭の中で整理した。
合唱部のソリスト、学園祭の『黒百合』に選ばれた女生徒が失踪……
それは聞くところによると学園内に居るヴァンパイアに因るものだという。
ハンターたちからしたら最初に城山を疑うのも無理は無い。私もそれを聞いて城山理事長を疑う必要がまずあると思う。けれども犯人が城山なら、担当している合唱部の生徒を、ここまでの内情を私に見せ、話していてそこまでのことをやり
「三人目のヴァンパイアが誰か、ということは理事長でも分からないのですか?」
城山は顔を上げた。
「そうだね。君はもう今井さんからこの学園のヴァンパイアの生徒について聞かされているとは思うけど、僕もその子はずっと注視している。けれど、その子以外に誰がヴァンパイアか、僕には分からない。」
以知子はまだ見ぬ二人目を思った。今井から聞かされた学園の生徒。
「これまで私がハントしたのは三人だけです。他のハンターたちにも分からずじまいだったのに、これからヴァンパイアを見破って、ハントするのは難しいことかと」
「君、正直過ぎない?だけど今井さんからの紹介なんて、今までに無いことなんだよ。いつもシレっと教師や生徒の中にハンターを紛れ込ませていたりするからね。こんなに正面切ってだなんて……僕は期待せざるを得ないな」
城山と今井の間には一朝一夕ではない、窺い知れぬ
「理事長、学園に居る教職員スタッフと生徒たち、牧師さんや
城山は片眉を上げ、おや、という表情をした。
「そうだね。必要なものは一通り君に渡しておこう」
城山に笑顔が戻った。
「君がどれほどの期間でどこまで調べられるかは分からない。でも僕は君を応援するよ」
「分かりました。私もどこまで出来るか分かりませんが……善処します」
ヴァンパイア・ハンター 森口吾蘭 @morimowa
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