真宵猫ー温泉

「先生、とても綺麗でした。目を奪われるってこのことを言うんですね」


 先生の方を見るといつの間にやら入れたお茶を啜りながら湖を眺めている。


「そう言ってくれて嬉しいわ。まあでもここの旅館はこの湖の景色だけが取り柄じゃないのよ?」

「と言うと?」


 すると先生は小悪魔のような悪戯っぽいけれど可愛らしさも含んだ笑みを向けて答える。


「温泉よ」

「まあ温泉宿ですからね」


 当たり前ではある。だって温泉宿なのだから。温泉が売りじゃないのなら名前を改名するべきだ。


 ただそのれいの返答は先生には不服だったらしい。顔をムスッとしながら目の前のテーブルに頬杖をつく。


「はあ~確かにそうだけどここの温泉は普通の温泉とは違うのよ。ここの温泉は妖なんかも入れるようになっているから普通の温泉とは効能が大きく違うのよ」

「そうなんですね」

「その感じ、またわかってないわね……。まあいいわ、怜準備なさい。行くわよ」

「え?どこにです?」

「決まってるじゃない。温泉よ」


 一応鹿児島には泊りでの滞在は考えていなかったため寝巻どころから替えの下着さえ持ってきていない。故に準備も何もなにをすればいいのか。


「えっと、先生?自分温泉宿に泊まるなんて聞いてなかったので下着とか持ってきていないのですが……」

「知っているわよ、そんなこと。はいこれ」


 言うと先生は何もないところからキャリーケースを取り出すと怜に向けて転がしてきた。


「開けてみなさいな」


 言われるがままにキャリーケースの中身を空けると自分の替えの下着やら明日の衣服、先生がいつも使っているお気に入りのシャンプー&リンスにボディーソープそれにトリートメントまで用意されている。それと……これは、クマのぬいぐるみ?


「あっ!?」


 悲鳴のような先生の声が聞こえたかと思うと怜の手に持っていたはずのクマのぬいぐるみが一瞬にして消えた。


「えっと……先生?」

「なに?」


 笑顔、ただ目が笑っていない。なんなら後ろに死神が見える。これ以上はいけない本能がそう警告を発している。


「いえ、なんでもないです」

「そう」


 クマのぬいぐるみのことは一旦忘れよう。


 そうして怜は必要なものを揃えると先生に声をかける。


「先生準備終わりましたよ」

「そうわかったわ。じゃあ行くわよ」


 先生はまた怜の前に手を差し出す。外に出る時は必ず繋がなければならないらしい。


 先生は怜が手を握るのを確認すると外に出た。


 外に出ると先ほどは知らなかったがために感じられなかった妖たちの気配がそこかしこにあふれ出す。


 ここには大物の妖も利用しているらしい、先ほど通る時に騒がしかった団体の客がいると言われている二階部分に一際大きな霊力を感じる。


 先生がいるとはいえ体が強張る。


 すると入る時と同じ落ち着く温かさが手から体全体に広がっていく。


「大丈夫よ、私がいる。私だけを見てなさい、怜」

「先生……」


 その一言が一瞬にして怜の緊張を取り去った。強い安心感がそこにはあった。


 先生に連れられ一階へと戻る。やはりまだ従業員らはドタバタと小走りで駆け回っている。


 先生に引っ張られながらも周りを見ると障子しょうじに様々な妖の影が映る。人型の狐や角を生やした大男、狼男に巨人、人っぽいのもいる。


「―――ッ!?」

「怜、わ・た・し・を見なさい!」


 両頬に温かくやわらかな感触がしたと思うと怜の顔がグイッと先生の目の先まで移動する。


「い、痛いです、先生……」

「あなたが悪いのよ。さっき言ったばかりなのに他の所をじろじろじろじろ見続けるから」

「す、すみません、先生。次から気をつけますので離してくださいませんか……?」


 ヘラっと笑うと訝しげな眼で見られたがゆっくりと頬から手を放し、右手を掴む。


「まあいいわ。本当に気をつけなさい?私がいるとはいえ妖は視線に敏感なの。今は酔ってるみたいだし気づかれることはなかったけれどあまり下手に視線を送らないように!私だけを見てなさい!わかった?」

「は、はい!」

「よろしい」


 可愛らしい笑顔を怜に向けると先生はまた歩き出す。


 先生に注意されたため流石にこれ以上は視線を先生だけに固定する。


 先生は髪がとてもサラサラだ。すべてを包み込まんばかりの黒髪なのにときどきチラチラ見える純白の襟首、華奢に見えてついているとこにはついている筋肉。まさに魔性の魔女だろう。


 怜が先生の姿に目を奪われて数分後、目的地の場所に着く。温泉宿は広々としているため目的の場所に着くにも時間がかかる。


 途中外に出たりもし、今二人がいる場所は本館から少し離れた離れの小さなけれどしっかりとしたつくりの個室温泉。


「さ、着いたわよ怜。私に見惚れるのもいいけど今は中に入りましょうか」

「え!?あ……はい、ってえ?ここですか?」

「ん?そうよ、私専用の離れの温泉。ここの露天風呂に入りながら湖を見るのが好きなのよ」

「そ、そうですか」


 怜の思考が加速する。今この状況がどういうことなのか理解するために。


 先生専用の離れの温泉、それはわかった。露天風呂もそこから見える景色は最高なんだろ。想像するだけで綺麗だと思える。でも待て。さすがに分かれているよな?混浴……な訳、ない……よな?


「なにしているの、怜?早く入るわよ」

「え、あ、はい」


 困惑しながらも中に入る怜、中は男女で分かれていることを祈って……。ただ入って一瞬でその淡い願いは儚く散る。


 入って目の前に広がるのは脱衣所、先生は入って来た扉に鍵をかけると怜から手を放し、靴を脱いで一人ロッカーに向かって歩き出す。


「え?ちょっ、待ってください!先生!」

「なに?どうしたのよ、怜」


 すでに先生は靴下をぬぎ籠に放り込んでいる。


「えっと、勘違いならすみませんが聞かせてください。まさか……一緒に、入るのですか?」

「え?あたりまでしょ、そんなこと。何言ってるのよ?」


 もうゴスロリな服を脱ぎ下着になっている。両方黒だ。よく似合っている。……じゃなくて!


 怜は先生から顔を反らす。横目でも見えないように手でガードを作りながら……。


「いやいやダメでしょ!自分、これでも思春期の男ですよ!?自分はてっきり男風呂、女風呂で分かれるとばかり思っていたのですがなぜ混浴に!?」


 はあ~というため息と共にこちらに向かって近づいてくる足音。


 視線はやれないが先生だろう。


 怜の目の前で止まる足音。するとカチャカチャと何か金属どうしが擦れる音が聞こえる。怜は今の状況にいっぱいでそれが自分のズボンのベルトから発せられる音だとはベルトが取られるまで気づかなかった。


「…………ッ!?先生!?ちょっ、え!?何しているんですか!?」

「服を脱がせているのよ。見てわからないの?」

「い、いやわかりますけど……え?あの本当に入るんですか?今からでも自分だけ男湯の方に行きますよ?」

「はあ~怜、あなた死にたいの?」

「え!?」

「ここは現夜にある温泉旅館よ?その温泉には妖ももちろん利用している。怜がそんなところに一人で行ったら食べられちゃうわよ?」


 あ、そう言えばそうだった。


 この状況に思考が上手く回らずここが現夜にある旅館であることを忘れていた。


「確かにそうですけど、でもわざわざ一緒に入らなくても……。時間を決めて交互に入れば……」

「時間がもったいないでしょ?それに私からあまり離れすぎても攫われる危険性があるのよ。だから一緒に入るわよていってんの。それともなに?やましい気持ちでも抱えているの?」

「やましい気持ちって、そりゃ……」


 今の下着姿さえ結構来ている。なのに裸で一緒になんて理性が保てるかどうか。


 怜は幼いころから両親に監禁されて過ごしていたため家族以外の女性にはほぼ全く会ったことがない。女性の裸などはこの年になってまで見たこがない。そのため女性への免疫力が皆無といってもいい。いくら先生の体形が幼くても理性が仕事をしてくれない。


「はあ~いいわよ、怜が欲望を押さえることができずに私を襲っても構わない、怒るつもりはないわ。と言っても怜が私を襲えるかは別問題だけどね」


 先生の笑顔の圧が怜に突き刺さる。


 そりゃ~そうだ。先生はこんな見た目でも最強の魔女だ。僕が手を出そうものなら触れることすら叶わず気絶させられるだろう。


「はあ~降参です。入ります、入りますよ。ただせめてバスタオルくらいは巻いてくださいよ?」

「やっと諦めたわね。バスタオルは巻くけど温泉に浸かる時は脱ぐわよ?それがマナーだもの」

「わ、わかりました……」


 先生が下着を脱ぎ先に温泉に入るのを待ってから衣服を脱ぐ。


 腰にタオルを巻き、持ってきたシャンプーなどを入り口に置いてあった桶に入れて中に入る。


 湯気が立ち込め視界を覆うがそれも一瞬そこには大浴場と言ってもいいほどの広さの露天風呂が広がっていた。


「これは……広いな―――」


 左側に洗い場が十列ほどある。


 先生が言うには完全な先生の専用の温泉らしい。てっきり小さな浴槽があるぐらいなんだと思っていたがここには五十人以上は確実に入れるほど湯船がでかでかと広がっている。その他にも点々とだが小さな温泉がいくつもある。


 先生はというと先に温泉に浸かり体を温めている。明らかに一人ようのサイズではない。


 先生がいる温泉には目を向かないように気をつけて先に体を洗うために怜は洗い場に向かう。備え付けのシャンプーやリンス剤があるがせっかく持ってきたので家でもよく使う方で髪や体を洗う。


 洗い終え、席を立ち上がろうとすると後ろから声がかけられる。聞き覚えのある声、先生だ。


「怜、私の髪も洗ってくれないかしら?」

「え、いやえっと……」

「ほら、お願い」


 先生は怜の横に座ると怜に向けて上目遣いでお願いする。


「いや、ですが……」

「いつもやってくれてるじゃない」

「そ、その時はいつも服を着ているでしょ!」

「あなたの歳でその女性に対しての免疫力不足は異常よ。将来もしかしたらあなたにとっての運命の女性に会えるかもしれないのよ?その時に裸だからと何もできないようじゃヘタレもいいところよ?」

「うっ、それは……」


 確かにその通りではある、それは怜自身一番理解している。けれどトラウマとはいかずともこの年になって抱えるにしては大きな問題、これに関してはどう克服すればいいのかわからない。


「はあ~じゃあこれでどう?」


 先生はあまり怜に刺激を与えないためか湯気を操って秘部などを隠している、湯気でできた下着のようなものだ。


 ただ怜にはそれでも刺激が強かったようだ。ツーと鼻から垂れる真っ赤な血。


「怜、あなた……血が出ているわよ……」

「え?あ、うわっ!本当だ!す、すみません」

「謝らなくていいからむしろ謝るのは私の方というか。まずは血を止めなとね。怜鼻に触るわよ」

「は、はい」


 怜が目を瞑ると同時に鼻に温かな感触がしたと思うと鼻血はもう止まっていた。


「はいおしまい。怜、大丈夫?そんなに血は抜けてないとは思うけど辛いなら言いなさいね」


 ……このままじゃ先生にも迷惑をかけつつけるんじゃないか。その思考と先生への申し訳なさ、免疫力がなく鼻血を出してしまった恥ずかしさから怜の瞳に火が灯る。


「だ、大丈夫です、先生。ありがとうございます。それで髪、でしたね。わかりました。不束者ですがお手伝いさせていただきます」

「無理はしなくてもいいのよ?」

「いえ、いつもやっていることなので大丈夫です。それに先生に迷惑をかけたお詫び、もしないといけないので」

「そう、じゃあお願いしましょうか」


 そう言うと体を少し後ろに倒し、怜が髪の毛を洗いやすいように体を預ける。


 大丈夫、いつもやっていることだ。


 先生が起きたら先生の身支度、髪をとかしたり服を用意したりなどはいつも怜がやっていることだ。

 

 今の現状も何ら変わりない。ただ先生が裸だと言うだけ……。


 怜は一度深呼吸するとまず髪の毛にブラシを通す。そのとき髪の毛を痛ませないよう細心の注意を払ってゆっくりとといていく。


 怜が丁寧に髪を洗おうとしていることに気づいたリリムは少し魔力を使って怜とリリムの周りの気温を上げる。それに怜は気づいたのか一層本腰を入れて髪を洗う。


 ブラシを通し終わると次はお湯で髪をゆすいで予洗いをして汚れを落としていく。この時のお湯はぬるま湯で、先生の髪は長いため四回ほどに分けてゆすいで汚れを落とす。


 次にシャンプーで髪の毛の汚れを落としていき丁寧にすすぎを行う。


 その後トリートメントを指でつまんで毛先まで滑らせるように丁寧になじませる。最後、ぬめりがなくなるまですすぐ。その後リンスも同じ工程で洗い、終えた後、魔法で温めておいた乾いたタオルで優しく包み込んで髪の水分を取っていく。


 これでひと先ずの髪の洗いは終わりだ。髪の毛をまとめ頭の上でお団子を作る。髪の毛がお湯につかないようにするためだ。


「ありがとう、怜。すごく気持ちよかったわ」

「ふぅ~いえ」


 どうやらこちらが髪の毛を洗っている最中に体の洗いは終えていたらしくバスタオルを巻いて立ち上がる。


「さ、魔法で気温をいじっていたとはいえ体は冷えているはず、風邪をひくといけないから早く温泉に浸かりましょう」

「ええ、そうですね」


 腰のタオルを取ってかけ湯をしてゆっくり肩まで温泉に浸かる。

 

 すると一瞬で体全体が外側からポカポカと温まり出す。それだけじゃない。体にあった小さな傷跡や擦り傷なんかがゆっくりと治っていく。


 そんな普通の温泉にはない効能に驚いていると先生がこのお湯について効能解説を始めた。


「驚いたでしょ?この温泉の効能は体の外傷治癒なの。体にある小さな傷なんかを治してくれるわ。そしてそのとなりの温泉は体の内の傷や病や肩こりなんかを直してくれるわ」

「す、すごいですね……。というかここ温泉いくつあるんですか?」


 入った時に見ただけでも大きいのが三つ、他にも一人用だろう小さなものが五個ほどある。


「あ~大きいのは三つで合ってるわ。小さいのは正確には十五個ほどかな。それぞれ効能や温度なんかも違うから入り比べをしてみるのもありだと思うわよ」

「そうなんですね、いくつか入ってみます」


 たださすがに全部は入れないのでその横にある体の内の傷を治すという温泉に移動して浸かる。すると先ほどの温泉とは違い体の内側からポカポカと温まり出し一気に眠気と疲れが体を襲う。


「うおっ!?こ、これは……」

「あ~言い忘れたけどその温泉は体の内側にある疲れなんかもからいつも働きづめな人ほど眠気や疲れが出てくるわよ」

「そ、それ先に行ってくださいよ……。ふう~ただ気持ちいいですね。疲れが取れていく感じがしてずっとこうしていたいです」

「それはよかったわ」


 浸かりながら奥を見ると先ほど窓越しに見えていた湖が目の前に広がっている。


 窓越しとは打って変わり水の見え方まで変わっているため温泉に浸かりながら変化を探している。


 先生はと言えばどこから取り出したのかオボンを温泉に浮かしそこにお酒を置いて景色を肴に楽しんでいる。


 変わっていく景色を眺めながら温泉をしばらく楽しむ。今が先生との混浴であることなどとっくに忘れて……。


「ふう~そろそろ上がるか……」


 あれから三十分くらいだろうか、あれから個別用の小さな風呂や、サウナなんかにも入った。もう少し浸かっていても良かったのだがなんせ眠気とただ浸かっているだけなのに疲労が貯めっていくのでこれ以上は無理だと上がることを決めた。


「先生、自分はもう上がりますけど先生はどうされますか?」

「ん~?あ~私ももうすぐ上がる~は~うま~」


 もうできあがっている。温泉のせいかお酒のせいかほんのり顔が赤らんでいる。


 怜はできあがった先生を置いて先に上がる。


 体を拭いて旅館の浴衣に着替え、髪を乾かしているとガラガラガラと戸が開いて先生が上がってきた。


 前についている鏡が後ろの先生の姿を反射していたため慌てて目を瞑って乾かす。髪を乾かしドライヤーの電源を切ると肩が叩かれた。振り返ると浴衣姿に着替え終えた先生が立っていた。


「髪の毛を乾かしてくれんか~」

「あ、はい。わかりました」


 しゃべり方がなんか変だがまあ酔っているのだろう。先生を自分が座っていた椅子に座らせ丁寧に櫛を通しながら髪の毛を乾かしていく。


「ん~よいぞ~気持ちがよ~い」

「ふふっ、それはよかったです」


 あまりにも子供っぽい先生の一面に思わず笑みがこぼれる。


 酔ったらこんな子供っぽくなるんだな~と思いながら髪の毛を乾かしているといつの間にやら乾いていた、このまま髪の毛を垂らしたままでもいいが今から食事もあるとのことなので食事をするときの邪魔にならないように髪を一つ結びで束ねる。


「よし、終わりましたよ、先生」

「ん~?おお~うむうむ、よいぞ~さあ~次はご飯ぞ~早く行くぞ、怜~」


 もう三度目自然に先生の手を握る。ただ今回は少し違った。恋人つなぎというやつだ。がっしりと握られている。


「せ、先生?」

「ん~?どした~?」

「あ~いえ、なんでもないです」

「そっか~」


 まあ今完全に酔ってるもんな、この人。何言っても聞かないだろうな。


 怜は諦め、先生に身を預ける。


 先生はそれを待っていたとばかりに怜の右腕に体を寄せる。その時右腕にやわらかな感触があったが気のせいだろう。


 脱いだ衣類やシャンプーを左腕に抱え風呂屋を後にする。


「さ~いくゾ~!」

「はいはい」


 

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