真宵猫ー温泉宿
「ここが温泉宿ですか……」
入り口だけでもとても大きく、その大きな入り口の上には幻想宿と書かれたのれんがでかでかと掲げられている。入り口の左右には旅館によくある昔ながらの提灯も飾られ光が灯っている。
「幻想宿……ですか?」
「ええ、ここが私一押しの宿屋よ」
幻想宿、その名の通りどこか神秘的で幻想的である。周りは街灯などなくすべて田畑などに囲まれ、うす暗く感じるが宿屋の光が道を照らしている。しかもその光がまた淡い光のため本の世界に入ったような不思議な光景が広がっている。
「さ、入ろうか」
怜の前に軽く手を出し掴むように促す先生、先生の手に触れると優しい温かさが右手にポカポカと広がっていく。
「あ、そうだ。怜、今からは部屋に着くまで一言も喋らないでね」
「え?わ、わかりました」
先生に手を引かれ宿屋ののぼりをくぐると慌ただしく駆け回る従業員らしい女性らが食膳を抱えながらあっちへこっちへと走り回っている。
「お見苦しいお姿をお見せしてしまい申し訳ありません。お待ちしておりました。リリム様、そしてそのお弟子様」
声がする方に目を向けると今まで奥の廊下で駆け回っている従業員らとは打って変わりここの女将であろう雰囲気を醸す三十代くらいの女性が立っていた。
「こんにちは、女将。急な予約にも関わらず部屋を取ってくれてありがとう」
「いえいえ、リリム様のお願いですからどんなに忙しくても断ることなどできませんよ。ささ、お部屋へご案内いたしますのでこちらへ」
靴を下駄箱に入れスリッパに履き替える。その間も先生は怜の右手からは手を離さない。
女将の案内で階段を上る、上っていくと他の客の騒がしい喧騒が聞こえてくる。
「ずいぶんと騒がしいね」
「ええ、申し訳ありません。ただいま団体のお客様が来られておりましてそちらの方々が一、二階を貸し切られてお祭り騒ぎをされていらっしゃるんです」
「へ~そうなの」
三階に上がると一、二階とは打って変わり騒がしかった声がパッタリと止み、一、二階とは明らかにレベルの違う豪華、けれど激しくない主張の装飾品数々。和風旅館というテイストを守りつつけれど一目見て豪華であるとわかる作りになっている。まさに賓客のための階。
この三階の豪華さに目を奪われていると目的の部屋に着いたらしく女将が扉を開けて中を見せる。扉の横に目をやるとリリム様専用部屋と書かれた立て札が掲げられている。
「本日、お二方が泊っていただく部屋がこちらにございます。当館がご用意できる最高級の部屋でございます。ではごゆるりとお休みください」
「ありがとう、女将」
「いえいえ、何かありましたら部屋の中にある内線もしくはお近のスタッフにまでお声がけください。それでは」
言って女将は一礼すると少し小走りで来た道を戻っていた。
先生は女将を見送った後怜を引っ張り部屋の中に入っていく。
スリッパを脱ぎ部屋に入ると中は当館一と言われたことに納得するほど豪華だ。この一部屋だけで五十畳はあるのではないのだろうか、一軒家レベルで広々とした和風部屋が広がっていた。
入って目の前には青々とした木々山々が見える丸窓が見え、その手前にはテーブルと座布団。テーブルの上には菓子類やポットも置かれ一息付けそうだ。
先生はそのテーブルまで怜を連れて歩くとテーブルの上に立ち呪文を唱える。
「ここは聖域、シカの眠る丘、安らぎはここにありて王は休める。
すると先生を中心に淡い緑色の円が現れそれが部屋中に広がる。部屋の中すべてに円が到達すると一瞬光輝き、再び目を開けると部屋中に魔術文字がびっしりと書かれている。
魔術文字は数秒すれば部屋の壁に吸い込まれるように消えていった。
「もういいかな」
言うと先生は怜の手を借りてテーブルから降り怜から手を放す。
「先生、聞いてもいいですか?」
「ん?どうぞ」
怜は先生の対面に座るとこの宿に入ってからの疑問を口にする。
「ここに入る時から先生とはずっと手を繋いでいましたよね?あれは僕を守るため、なんでしょうか?」
先生は少し考える素振りを見せ、テーブルにあるお菓子を取りながら口を開く。
「ええ、そうよ。貴方は私の弟子だから厄介な虫に絡まれないためにもああして私の気配で包んでいたの。この部屋もそう。この部屋から出なければ特段面倒なことにはならないはずだから怜も注意しなさいよ」
そう言って先生はテーブルに置いてあったせんべいを頬張っている。
「わかりました。けど何で結界まで?普通の宿屋なら先生が近くにいるというだけで大丈夫だと思うのですが……」
「ん?ああ、それはここが普通の宿屋じゃないからよ」
「え!?」
「ここは妖や幽霊、この世ならざる者なんかが使う旅館、幻想宿よ?」
先生はせんべいを頬張りながらとんでもないことをサラッと口にする。
「……確かにこの旅館が立っている場所は普通ではないとは思っていましたがまさかかくりよだったとは……」
先生は怜の発言に対しせんべいを頬張りながら首を傾げる。
「怜、何を言っているの?ここが
「え?ですが妖や幽霊が使う宿だと先ほど……」
「ほんとこの子は……。確かにさっきはそう言ったけど私は一言もここが幽世なんて言ってないよ」
「で、ではここはどこなんです?」
「ここは幽世と
そう言って先生は常世の説明してくれた。
常世とは死んだ者が最後に行く場所、永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされるらしい。
ただどうもここは現世と常世の交わった場所にあるのだとか。そのため永遠に変わらないわけでもないし神域でもない、黄泉もないのだとか。先生いわくここは
「現夜は
「でもなんで現夜なんかに宿が?」
「私が建てたのよ、ここから見える湖が綺麗だったからね。ほらそこの丸窓、そこからちょうど見えるわよ」
「……えぇ~」
正直ここの女将さんの態度からも薄々察してはいたがまさか先生が建てたなんて……。しかもそれがただここから見える湖が綺麗だからというだけで……。
「怜、あなた今呆れているわね?ちょうどいいわ、いい時間だしちょっとそこの窓から奥を見てみなさい」
先生に言われるがまま渋々立ち上がって窓の方へ歩く怜。先生も後ろからついてくる。
「入った時からもですけど今もずっと木々しか見えませんが……」
「いいからそこに座って」
怜が椅子に腰かけると先生も対面に座る。すると窓から見える木々がゆっくりと動き出す。
「え、これって……」
「大人しく見てなさい」
木々が意思を持っているかのように怜たちが座った丸窓を避けるように端に移動していく。
そしてとうとう見えた。
木々が完全に窓から退くと目の前に言葉を失うほどの絶景が広がっていた。
「――――――」
「……どう?言葉を失うほど綺麗でしょ?」
「……え、ええ。これは確かに独占したくなる景色ですね……」
「でしょう?」
先生のドヤ顔を横目にこの湖の景色を目に焼き付ける。
どのような言葉で表そうか頭を巡らせるが結局たどり着く答えは綺麗だという一言に限る。
「この湖はこの現夜でかつこの鹿児島という場所でしか拝むことはできないわ。私も長生きしているけどこの場所は私の中でも五本の指に入るほどお気に入りの場所なの」
「ええ、これは僕の中ではナンバーワンのスポットです。こんな景色、生まれて初めて拝みました。とても綺麗です……」
「ふふ、怜なら気に入ってくれると思っていたわ」
そうして怜とリリムは約三十分ほどをこの場所で景色を眺めて過ごした。
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