57 きみに伝えなければならないことがあるんだ


「ちぇちゅ~?」


 ユウェルリースが小さな手でぺちぺちと叩くが、ジェスロッドは無言でソティアを見つめるばかりだ。


 黒瑪瑙の瞳からは、ジェスロッドが何を考えているのか読み取れず、心の中でどんどん不安が育っていく。


「あの……」


 不安を抑えきれず、ソティアはジェスロッドを見上げておずおずと口を開いた。


「先ほど、エディンス様が『ご武運を』とおっしゃっていましたが……。も、もしかして、また邪神の残滓が現れたりしたのですか……っ!?」


 昨夜、瘴気しょうきにふれた時のことを思い出すだけで、身体が震え出しそうになる。


 ソティアの問いに、ジェスロッドがはじかれたようにかぶりを振る。


「い、いや! 違う、邪神の残滓は完全に滅している! 安心してくれていい!」


 きっぱりと断言したジェスロッドの凛々しい面輪が、けれど、すぐに険しくなる。


「だが……。お願いだ。もしまた今度、昨夜のようなことがあったとしても、決してあんな無茶はしてくれるな」


「も、申し訳ございません……っ!」


 真剣極まりない声に、身を縮めて謝罪する。


 と、ジェスロッドがあわてた声を上げた。


「い、いや! 心配したのは確かだが、その、言いたいことはそういうことではなく……っ!」


「陛下……?」


 焦ったようなジェスロッドの様子に、ソティアは目を瞬く。ふだんは泰然たいぜんとしていることが多いのに、いったいどうしたのだろう。


「ついさっき、ようやく気づいたばかりなんだ……っ。その……っ」


 ジェスロッドが戸惑ったように視線を揺らす。しばらく視線を彷徨さまよわせていたジェスロッドだが、ややあって覚悟を決めたように唇を引き結んだ。


「ソティア。きみに伝えなければならないことがあるんだ」


「は、はい……っ」


 ジェスロッドの硬い声に、ソティアも緊張して背筋を伸ばす。


 いつの間に呼び捨てになったのだろうかと、頭の片隅で疑問が湧くが、とてもではないが聞ける雰囲気ではない。


 ジェスロッドは、いったい何を言う気なのだろう。


 胸の奥から、どんどん不安があふれてくる。


 凛々しい面輪は、見たことがないほど張りつめている。


 知らないうちに、とんでもない粗相をしてしまったのだろうか。王城に戻った際に、他の令嬢達は退去したのに、身分の低いソティアだけが聖獣の館に残っていることについて、貴族から苦言を呈されたのだろうか。


 おとといまでのソティアなら、たとえそう言われても、きっぱりと反論することができた。


 自分はあくまでもユウェルリースのお世話係として聖獣の館で勤めているのであって、ジェスロッドに取り入る気はまったくないのだと。


 けれど、ジェスロッドに恋をしていると気づいてしまったいまは、追及されたら何ひとつとして言い逃れはできない。


 ジェスロッドがこれほど険しい顔をしているということは、もしかして、ソティアの恋心に気づかれてしまったのだろうか。


 ありえる。ソティアのように可愛げもなく背ばかり高い地味な女に好かれて、誰が嬉しいだろう。しかも、ジェスロッドとソティアとでは、天と地ほどの身分差があるのだから。


 不敬だと叱責されるのはもちろん、凛々しい面輪が嫌悪に歪み、唾棄だきされても仕方がない。


 頭の中では仕方のないことだとわかっているのに、恐ろしくてたまらない。身体が震え出し、気を張っていなければ膝からくずおれそうになる。


 ジェスロッドに軽蔑されたら、胸の痛みで心臓が止まってしまうかもしれない。


「ユ、ユウェルリース様を抱っこいたしましょうか……?」


 ユウェルリースを受け取って、お世話があるからと下がれないだろうか。


 断罪の時を少しでも先延ばしにしようと無駄な足掻あがきとわかっていながら、卑怯なことを考える。


「あ、ああ……」


 気勢を削がれたように、ジェスロッドがユウェルリースを渡してくれる。


「おちあ~っ」


 ソティアに抱っこされたユウェルリースが、愛らしい声を上げる。あたたかな重みにほんのわずかに身体の強張りが融けた。


 だが、ソティアが辞去の言葉を告げるより早く。


「ソティア」


 ジェスロッドの静かな声が針のようにソティアを縫い留める。


「は、はい……っ」


 視線を伏せたまま、否応なしに震える声で応じると、ジェスロッドがためらう雰囲気を感じた。


「……すまん。急にこんなことを言われても、困るのはわかっているんだが……」


 苦い声音に、ああ、きっとお世話係の任を解かれるのだと察する。


 お給金のよいお世話係を解雇されるのは確かに困る。けれど、そんなことよりも。


 ジェスロッドと、離れたくない。たとえ、想いを告げられぬままそばで見ているしかないのだとしても。


 勝手にあふれ出しそうになる涙を固く唇を噛んでこらえていると、不意にジェスロッドの右手が伸びてきた。


 大きくあたたかな手にそっと頬を包まれ、上を向かされる。


 真っ直ぐにソティアを見つめ、ジェスロッドが想いをみしめるように告げる。


「ソティア。――きみが好きだ」


「…………え?」


 いったい何を言われたのか。とっさに頭に入らない。


 ジェスロッドが……。ソティアを、何と?


 告げられた言葉を脳が理解した途端、ソティアはユウェルリースを抱きしめたまま、ぺたんと地面にへたり込んだ。


「どうしたっ!? 大丈夫かっ!?」


「あぶ~っ!」


 ジェスロッドのあわてふためいた声に、ユウェルリースの楽しげな声が重なる。


 だが、ソティアは答えるどころではない。


「ソティア!?」


 両膝をついたジェスロッドが、両手でソティアの肩を掴んで顔を覗き込む。


 間近に迫った凛々しい面輪を、ソティアは呆然と見上げた。


「へ、陛下……。申し訳ございません……っ! 私、とんでもない聞き間違いを……っ! あ、あの、大変申し訳ございませんが、もう一度おっしゃっていただけますか……?」


 いくら不安におののいていたのだとしても、とんでもない聞き間違えだ。耳と頭がどうかなってしまったとしか思えない。


 ソティアの懇願に、ジェスロッドが生真面目に応じる。


「すまん。緊張していたせいで聞きとりにくい声になってしまっていたか? なら、もう一度言うぞ」


 小さく咳払いしたジェスロッドが、真っ直ぐにソティアを見つめてふたたび告げる。


「好きだ、ソティア。きみのことが愛しくてたまらない」


 とすり、と。


 矢のようにジェスロッドの言葉が胸に突き刺さった途端、こらえていた涙があふれ出す。


 ジェスロッドが黒瑪瑙の瞳を見開いた。


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