40 喜ばしいお返事をお待ちしておりますわ


「マルガレーナ嬢。対話をするという目的を果たせたのなら、聖獣の館に留まる必要はもうないだろう?」


 婚姻の話はこれで終わりだと言いたげに、ジェスロッドが話題を変える。マルガレーナが困ったように眉を寄せた。


「陛下が退去をお望みなのでしたら、従いましょう。ですが、いまから荷造りをしていては、出るのが夜更けになってしまいます。邪神の欠片も危険ですが、夜道を馬車で帰るのも危険ですわ。見た者があらぬ噂を立てぬとも限りません。明日には退去いたしますので、せめて今夜は聖獣の館で過ごすご許可をいただけませんか?」


 マルガレーナが上目遣いにジェスロッドを見上げる。ジェスロッドが仕方なさそうに吐息した。


「仕方がない。だが、待つのは明日の昼までだ」


「ありがとうございます」


 マルガレーナの面輪が美しい笑みを浮かべる。


「だぅぅ~、やぁう〜っ」


 一時は機嫌を持ち直していたユウェルリースがソティアの腕の中で再び身をよじってぐずり始める。


「すまん、マルガレーナ嬢。ユウェルリースがそろそろ限界らしい。今日の話はここまでで切り上げてよいか?」


 ジェスロッドが気忙きぜわしい様子でマルガレーナに告げる。


「十分でございます。お時間をとっていただきまして、ありがとうございました」


 楚々そそとした所作で深々と一礼したマルガレーナが、ジェスロッドを見上げる。まなざしには、祈るような真摯な光が宿っていた。


「喜ばしいお返事をお待ちしておりますわ」


 それでは失礼いたします、とマルガレーナが部屋を出て行く。


 無意識のうちに詰めていた息を吐き出したソティアは、振り向いたジェスロッドにあわてて一礼した。


「申し訳ございません。おむつのようでして……」


 部屋の端に用意してあるおむつ替え用の低い台へと急いでユウェルを連れて行く。そこには新しいおむつや何枚もの清潔な布、桶にんだ水や汚物入れなどを揃えていた。


「何度見ても手際がよいな」


 てきぱきとおむつを変えていくソティアを見て、ジェスロッドが感心したような声を上げる。


「お褒めいただきありがとうございます。ですが、ユウェルリース様がおとなしく替えさせてくださるからです」


「だぁーぅっ!」


 おむつを替えてもらったユウェルリースがご機嫌に足をばたつかせる。


「お前はのんきなものだな」


 くすりと笑ったジェスロッドが、手を洗うソティアに代わってユウェルリースを抱き上げる。


「あの……」


「うん? どうした?」


「い、いえっ! 何でもないのです!」


 優しい微笑みに誘われるように無意識に問おうとしていたソティアは、はっと我に返ってかぶりを振る。


 いったい何を尋ねる気だったのか。『いつか、ユウェルリース様が大きくなられたら、マルガレーナ嬢とご結婚されるのですか?』なんて……。


 そんなことを、ソティアが尋ねていいはずがないというのに。


「そ、その。おむつの始末をしに席を外させていただきます……っ」


「ああ。ついでに、ソティア嬢も湯浴みをしてくるといい。マルガレーナ嬢を除いて令嬢達も退去したことだし、少しはゆっくりできるだろう?」


 ジェスロッド自身はユウェルが沐浴と夕食をとっている間に湯浴みを済ませている。


 夜着代わりにするのだという仕立てのよい服は簡素だが、ジェスロッドの引き締まった身体つきがよくわかって、凛々しさをいっそう引き立てている気がする。


「いえ、私は……」


 令嬢達がいた間は、令嬢達が浴室を使うとソティアが使うどころではなかったので、ソティア自身は桶に汲んだ湯で身を清めていた。


「俺も入ったのに、ソティア嬢が入らないというのは道理が立たん」


 遠慮したが、ジェスロッドは納得しない。一介の男爵令嬢と国王陛下では比べようもないというのに……。


 だが、そんな生真面目で誠実なところもジェスロッドらしくて、そう思うだけでぱくぱくとふたたび鼓動が速まってしまう。


 確かに、ゆったりと湯船につかれるのは何よりの贅沢ぜいたくだ。ユウェルリースの世話に打ち込めるようソティアを気遣ってくれているのだとわかっていてさえ、嬉しくなる。


「陛下のご厚情に感謝いたします。では、ユウェルリース様を寝かしつけたら、お湯を使わせていただきます」


 エディンスが持ち込んだ書類はまだまだある。ユウェルリースの相手をしていては、ジェスロッドの公務の時間が減ってしまう。


 濡れた手を拭きユウェルリースを抱っこしてくれているジェスロッドに歩み寄る。


「だぁーぅっ!」


 ユウェルリースが小さな手足をばたばたさせてソティアのほうへ身を乗り出す。


「本当に、ユウェルはソティア嬢に懐いているな」


「きっとおねむなので甘えたいのでしょう」


 ユウェルリースを受け取りながら答えると、不意にジェスロッドがにこやかに微笑んだ。


「きみの綺麗な声の子守唄をまた聞けるのは嬉しいな」


「っ!?」


 甘やかな微笑みに、息が止まりそうになる。


「あ、ありがとうございます……っ」


「だぁぅ~っ!」


 一瞬で真っ赤になってしまっただろう顔を見られまいと、くるりと背を向けたソティアは、優しくユウェルリースの背中をぽんぽんと叩きながらあやしはじめた。


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