第11話中国 北京
「お呼び立てして、申し訳ありません。どうぞおかけになってください」
父親が相手に座るよう促すのを覗きながら、ウェンはドキドキしていた。一体どう切り出すのだろう。
「ねえ、これ、私もいていいの?」
後ろにいるリンシンが囁いてきた。シーっと指を立てながら、ウェンは再び父親たちに視線を戻す。
あの後。リンシンの相手を探しに行き、父親に見つかった後。
ウェンは正直に「結婚できない」と告げた。そして父親に打たれた。まあ当たり前の反応だったと思う。リンシンが止めてくれたけれど、結局そのまま車に無理やり乗せられた。
車の中で、父親は顔を真赤にして怒鳴っていた。
「結婚できないだと!? たった一日で婚約破棄なんて一体何を考えているんだ……」
「父さん、聞いて。私……」
ウェンは深呼吸をひとつ。今、口を開けば後戻りはできない。でも言わなくちゃいけない。どうなるかは、全く予測はつかないけれど。それでも覚悟はできているのだから。
「私、女の人が好きなの。だから医者を目指して、アメリカに行きたいの」
ふっと、嘘みたいに気持ちが軽くなった。背負っていた荷物を全部降ろしてしまったような気分だった。
ずっと目を逸していたことから、ようやくまっすぐ見据えられた気がする。
火に油を注いで、父親が怒りで血管が切れるか、血圧が上がるかしているんじゃないだろうかと思っていると意外にも彼は静かに窓の外を見ていた。
「どうしてもなのか、それは」
怒鳴っていた父親がどこかへ行ってしまい、ウェンは少し戸惑った。
「え?」
「どうしても、女じゃないといけないのか。結婚が嫌でそう言っているのか。それともあの画家が好きなだけか」
「……女の人じゃないと、ダメだわ」
リンシンと一緒にいる時に感じた心地よさ。意識したことはなかった。でも、リンシンの気持ちに嫉妬して、応援してみてよくわかった。
恋だったのだ。
自覚する前に終わってしまったけれど、それでもようやくはっきりできた。
縁を切られるかもしれない。殴られるかもしれない。それでも――今、自分に嘘をつくと、この後もずっと嘘をついていかなければいけないのだ。そんなことは耐えられない。
けれど父親は冷静だった。怒鳴らなかった。結婚できないと言ったときはあんなに怒っていたのに。不思議だった。
「お前は私の出世のためだと思っているかもしれんが、お前に良かれと思って彼を連れてきたんだ」
「すごくいい人だと思った。友達としては最高だと思う」
「それなのにダメなのか」
「ええ、ダメだわ」
「そうか」
父親はそう頷いて、それきり黙った。
家に着いて車から降りると、父親はぽつりと呟いた。
「明日、断ろう」
ウェンは驚きすぎて、しばらく父親が何を言ったのかわからずに固まった。
「……いいの?」
父親がなぜ急に心変わりをしたのかわからず、ウェンは混乱していた。父親はそんなウェンに気づいていたのか、微笑んできた。
「私は優秀な政治家だ。我は通すが、道理は知っている。人の根本は変えられない。無理に押し進めても良いが、それはいい結果は得られないだろう」
「縁を切られるかと思った」
正直に話すと、父親は呆れたような顔をした。
「お前の幸せを思うなら、縁を切るなどしないさ」
意外だった。彼が理性的な父親だったことを、初めて知ったような気がした。そして何よりも――。
「父さんは……私のことを大切にしてくれているのね」
当たり前のようで、でも気づけないこと。ウェンはこれまでの父親の命令が全部自分のためであることを悟った。
「お前は私の娘だからな」
そう言って、父親はウェンの婚約を断ること約束してくれたのだ。
そして今。父親は自分の上司にあたる人を呼び、話をしようと座ったところだ。リンシンを呼んだのは、この焦れったさと不安を最後まで付き合ってもらうためだった。そんなプライベートなことまで踏み込んで良いのかと困るリンシンに、昨日は散々付き合ったのだからこれくらい付き合って欲しいと強引に頼んだのは悪かったかなと思った。
父親はコーヒーを一口飲んだ後、言いにくそうに切り出した。
「昨日決めた結婚の話ですが……」
父親がそう言った瞬間、相手はとても申し訳無さそうな顔をした。
「ああ、もうご存知なんですね……。ということは、見られたのですか」
「……え?」
「申し訳ない。あんなどこの馬の骨ともわからないアメリカ人と付き合うだなんて……。本当に、一族の恥です。しかもそれをSNSに公表するとは……。とはいえ、婚約を公にする前で本当に良かった。お嬢さんに恥をかかす前に、話をなかったことにできませんか」
「あ……はぁ」
父親は意表を突かれて言葉も出ないようだった。
「私からはあのアメリカ人と別れるように伝えます。別れたらまた折を見て、婚約の話を……」
「いいえ! いいんです。その……もうその話は、なかったことに。愛する者同士を引き離すことは、私としても本意ではありませんから」
父親が慌ててそう言うと、婚約者の父親は肩を落とし、
「本当に申し訳ない。このお詫びはいずれきちんと」
その会話を聞いて、ウェンはリンシンを連れて自室に戻った。
「どうなってるの? 婚約者の人、恋人がいたの?」
「私も初耳だわ」
不思議がるリンシンを呼んで、ウェンはスマホでフェイスブックアプリを立ち上げた。婚約者だった人のアカウントを探す。
いた、シュエンさん。彼のタイムラインのトップには、赤毛の白人と一緒に写っている写真が何枚も表示されている。二人ともビールを片手に楽しそうだ。最後にはなんとキスをしている写真まであった。その写真には英語で「ようやく付き合えた!」という喜びのメッセージ付き。
「……わぁ、これはお熱い」
一緒にスマホを見ていたリンシンが呟いた。ウェンはおかしくなって、笑いだした。
「こんなの見せられちゃ、結婚なんてできないよね」
「そうね。良かったね、ウェン」
優しくリンシンが微笑んでくれて、ウェンは満足だった。彼女には本当のことは伝えていない。ただ結婚を父親が断ってくれることだけ伝えていた。どうやって説得したのかと驚くリンシンに、ウェンはそのうち話すと伝えていた。多分、その日はウェンが医者になるためにアメリカへ行く日になるだろうから、しばらく先だけれど。
ピロンッと音がなった。ウェンのスマホではなかった。リンシンが自分のスマホを取り出して、ツイッターを見ている。かと思うと、彼女の頬がほんのり赤く染まり、興奮気味にウェンにスマホを見せてきた。
「ウェン、あの、これ」
「え? 何?」
スマホをちゃんと見ようとリンシンの腕をつかむ。固定されたスマホには、中国語のメッセージが見えた。どうやらツイッターのDMのようだ。アカウントを作ったばかりなのか、白い卵のアイコン画像だった。
「覚えているかわかりませんが、僕は一年前、バーで会った日本人のケイイチです。連絡先を失くしてしまって連絡出来ずじまいでしたが、先ほどこのアカウントを見つけました」
ウェンは思わずリンシンの腕を放した。手を放されたリンシンは、信じられないのかスマホの画面を見つめている。ウェンは彼女を可愛く思い、言った。
「届いたじゃない」
「う、うん……」
机の上にあるリンシンから貰った恋の招き猫が目に入る。なんて遠回しなやり方だったんだろう。けれどそれがリンシンのやり方だったんだ。昨日の私は必要なかったのかもしれない、と考えたけれど、結局今の私があるのは昨日のことがあったからだ。つまり自分にとって必要なことだった。
それなら全てが繋がって、今があるのかもしれない。ウェンはそう思って、彼女の幸せを願った。彼女の恋の物語が、幸せな結末になればいい。
返信の言葉を迷っているのか、スマホから目を離さないリンシンにウェンはにっこり笑った。彼女は気づかない。それは多分、今のウェンには何よりも幸せなことだった。
スマホに映る元婚約者の投稿をもう一度見る。幸せそうな二人。
それに、ウェンは心からのいいね、を押した。
バタフライエフェクトという名の。 朋峰 @tomomine
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