第9話アメリカ ニューヨーク
「シュエン先生、お疲れ様でした」
「ああ、うん」
十時間に及ぶ手術が終わって、シュエンは久しぶりに深呼吸した。長時間の手術は体力的に厳しいが、それ以上に精神的にどっと疲れが来る。交通事故の急患の対応だった。なんとか患者は助けられたけれど、手放しに喜べるほど体力は残っていない。
甘いものが食べたいと思い、病院の中にある菓子の自販機でスニッカーズを選ぶ。ゆっくりと菓子が押し出されてくるのを待ちながら、腕時計を見た。すでに八時を過ぎている。窓の外を見ればももう暗かった。
もうダメだ。彼女のシフトはとっくに終わったし、店も閉まったはずだ。シュエンはため息の代わりに深呼吸をした。落ちてきたスニッカーズを拾って、封を開ける。もう急ぐ気もなかった。ねちょねちょの甘いスニッカーズを食べると気分が落ち着いてきた。
「シュエン、今オペが終わったんだってな」
シドだった。手には火傷防止のスリーブ付きテイクアウトカップを持っている。それをシュエンの方に突き出してきた。
「飲むか? 朝のコーヒーのお礼だ」
「あぁ……ありがとう」
それを受け取るとまだ温かくてホッとした。テイクアウトしてきたばかりなんだろう。しかしこの辺にテイクアウトできるコーヒーなんて、とうに閉まっているはずのケイトが働いているカフェしかなかった。不思議に思ってシドに尋ねる。
「このコーヒー、どこで買ったんだ?」
「ケイトのカフェさ」
肩をすくめたシドに、シュエンは笑ってみせた。
「あそこの店は夜には閉まるだろ。どうやって買ってきたんだ」
シュエンの言葉にシドはにやりと笑ってきた。
「それがどうやら、今日は延長大サービス、九時までやっているんだよ」
「え!? な、なんでまた?」
「そりゃあ、あれだ。神様からの贈り物だろ。さ、ほら。早く行けって」
背中を押されて、手に持ったコーヒーを零しそうになった。
「いや、でもケイトはもう……」
シフトは終わってしまったはずと言おうとすると、ズイッとスマホの画面を突きつけられた。ツイッター画面だ。
「三十分の休憩で、これから三時間も残業!」
ケイトのツイートだった。三時間。つまり彼女はいまもまだ、働いている。シドにコーヒーを返した。
「いってくる!」
病院を飛び出して、ケイトの店がある公園に駆け込んだ。そこには驚くほどの人だかりが出来ていた。
「これは一体……?」
みんなスマホを手に写真を撮ったり、コーヒーを飲んだりしている。もはや祭りのような騒ぎだった。
カフェは店にも入り切らないくらい大行列だった。一体何だってこんなことになっているんだ。今から並んで、店に入れるかすら疑問だった。そもそもケイトはいるんだろうか。いや、いたところで彼女に話しかける時間はあるんだろうか。今朝の怒鳴られた記憶が蘇る。
「あら、シュエンさん」
声をかけられて振り向いた。ケイトだった。いつものエプロンを付けていない。何も準備できていなかったシュエンは口をパクパクさせた。
「あなたもあれ見て来たの?」
「あれ?」
聞き返すと、ケイトは少し興奮したように話しだした。
「あなたの招き猫よ! もう、あれのおかげで大反響。まあこのありさまを見ると、大反響すぎともいうわね。おかげで私、残業大変だったんだから」
招き猫? あの招き猫が本当に効いたのか? そんな馬鹿な! シュエンは考えを打ち消すように頭を振って、ケイトに聞き直した。
「ごめん、一体何のことかさっぱり……」
「見てないの? これよ」
訝しげな顔をした後、ケイトはスマホの画面を見せてきた。それはフェイスブックの動画だった。今日の日付の投稿だというのに、シェア数はなんと一万を超えている。
タイトルは「幸せを呼ぶ恋の招き猫」だった。動画の左上には昼頃にやっているローカルニュースのロゴが掲載されている。画面の中のアナウンサーがマイクを持って、カフェを指差していた。すぐそこにあるケイトの働くカフェだ。
「今日はここにある、中国から来た幸せを呼ぶ招き猫をご紹介したいと思います!」
アナウンサーの言葉とともに映し出されたのは、ケイトにプレゼントした招き猫だった。
「ちょっと待って。あの招き猫がテレビにでたの?」
びっくりしてケイトを見ると、彼女は口をへの字にした。
「そうなのよ。昼頃にいきなり取材に来て、店長が喜んでオーケーしたの。店の宣伝になるからね。あの招き猫、最近SNSで人気になってる中国人アーティストのものなんでしょう?」
そう聞かれて、シュエンは頷いた。父が最近投資のために絵を買おうとしていた女性アーティストのものだ。シュエンは彼女の絵よりも、招き猫の方を選んだのだ。
「アナウンサーの人が、ハートをモチーフにしているから恋愛にも効果があるんじゃないかって言ったら、それに乗っかって店長もコーヒー買いに来てSNSで拡散すればきっと恋が叶うとか言い切っちゃって。段々それがティーンたちにSNSで拡散されていって、今は二十代の若者たちが集まってきているってわけ」
「ワオ」
思わずアメリカ人っぽい驚きの言葉が出た。シュエンはケイトを見つめて「それなら多分、大正解だと思う」
「何が?」
「恋愛にも効果があるってやつ」
花束とかワインなんて渡さなくて良かったと、招き猫に感謝しながらシュエンはタイミングを計れず、つまらないことを聞いた。
「それで、君はなんでここに」
「なんでって……私、早朝勤務から残業だったから、少し早めに上がらせて貰ったんだけど……あの招き猫、あなたから貰ったのに置きっぱなしにするわけにいかないでしょう。ここでこの馬鹿騒ぎが終わるの待ってるのよ」
「あー……なるほど、そうか」
シュエンは頷きながら、二度目の奇跡に感謝した。どこかで男が「どーだ、俺の特集は大成功だろう!」と大声で馬鹿笑いしているのが聞こえてきたが、それすら気にならなかった。
二度も奇跡に助けられたのだ。神様も僕の背中を押してくれている。今、僕が勇気を振り絞らずに、一体どうするのだ。
「あのさ、ケイト。良かったら――この騒ぎが終わるのを待つ間、食事でもどうかな」
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