第6話中国 北京
「ねえ、ウェン。やっぱ帰らないとまずいんじゃ」
門限の時間はとうに過ぎていた。薄暗くなって来て、周りの電灯がぽつぽつと順番に明かりがついていく。
気まずそうなリンシンを無視して、ウェンは彼女から聞き出した店名をグーグルマップで確認しながら歩いていた。先程から何度か父親から電話が入っているが、無視している。父親が自分を探し出すまでそんなに時間は要さないだろう。早く行かなくては。
「ウェン、いいよ、私ひとりでいくからさ。帰りなよ」
肩を掴まれて、リンシンを振り返る。眉が八の字になっているのを見て、珍しい表情を見れたな、とウェンは思った。
「ここまで来たなら、最後まで居ても変わらないよ。いいから。早く行こう」
リンシンの手を引っ張って、お店に入る。まだ開いたばかりのバーは、客の入りも少ない。意外と広く、テーブル席だけで十席はあった。カウンターも細長く、大勢の人が座れるようになっている。
「ねえ、まずいって。あんたまだ未成年なんだから」
確かに勢いで来てしまったが、学校にバレたら謹慎処分になるかもしれない。中国では飲酒の年齢制限はないが、その分しつけの厳しい親や学校がいる。
ウェンは一瞬入り口で立ち止まったが、それでもリンシンを引っ張って、カウンターの席に座った。ここまで来たのだから、引き返すわけにはいかなかった。
「すみません」
カウンターの向こう側にいる店員の男に声をかけると、やる気のない足取りで二人のところまで歩いてきた。
「はい、何にしますか」
「ちょっと尋ねたいことがあるんですが」
男はあからさまに面倒くさそうな顔をした。注文しないのなら帰れという態度だ。仕方ないのでウェンは、カフェオレを二つ注文した。酒じゃないのかと肩をすくめながら男が背を向けてカフェオレを作りはじめた。
その背中にウェンは聞いた。
「あの、ここに日本人の男の人って来てないですか? えっと……名前は?」
横を向いて、おとなしく座っていたリンシンに尋ねる。そういえばその人の名前を聞いていなかった。リンシンはしばらく黙っていたが、ウェンが何も言わずに待っていると渋々その名前を言ってくれた。
「ケイイチ」
男が二人の前にカフェオレを出しながら、首を傾げた。
「日本人? あー、たまに来るやつがいるよ。こんなバーになあ。名前、何だったかなあ。結構前に名刺をもらったんだけど、失くしちゃって。ケイイチって名前だったかな?」
なんていい加減な人なんだ。それでも該当する人がいると聞いて、ウェンはカウンターに身を乗り出した。
「その日本人、前はいつ頃来たんですか?」
男が考えるように天井を見上げた。
「先月かな……。ひと月に一度くらいは顔を見るよ。いつも入口の近くで静かに飲んでるよ」
「今月はまだ来てないんですよね? ね、リンシン。もしかしたら会えるかもよ」
そう言われてもリンシンは嬉しそうな顔をしなかった。
「ウェン、もういいよ。その人かもわからないし、会ってどうするの。一年連絡なかったんだから、覚えてないだろうし」
ウェンはそう言われても引き下がれなかった。
「もう一度会って、確かめればいいじゃない。どうしてそんなふうに諦めるのよ、ずるいよ」
「ずるい?」
聞き返されて、ハッとした。それはウェンの本音だった。自由なリンシンが自分の選択で道を諦めようとしていることに対して、ひどくやりきれない想いでいた。怒りすら感じていた。「私はリンシンが……」
その怒りが何なのか、ウェンは理解している。理解しているけれど、ずっと目を背けている。今も、これからも。それはまるでクローゼットの中にギュウギュウと押し込まれた洋服のように、色んな感情がごちゃまぜに、しわくちゃになっていた。
だって、自分はやめられない。諦められない。そして、彼女に伝えられない。
でも――きっといつか、必要になる。その気持ちを受け入れることが。
そう思った瞬間、ストンと何かが腹に落ちてきた。そうだ、いつか必要になるなら、それはいつだって――今だっていいのだ。そんな簡単なことに気づいて、ウェンは顔を上げた。いつだって諦められる。だからもっと藻掻いたっていいじゃないか。
「そんな風に、諦めてしまっているのが哀しいのよ。諦めるのは直接振られてからだっていいじゃない。直接相手の気持ちを確かめたわけじゃないのに」
「でも連絡もしてこないなんて……」
譲らないリンシンといよいよ本当に口喧嘩になりそうな雰囲気に、男が口を挟んできた。
「あー、お嬢さんたち。ちょっとすみませんがね」
「何よ?」
リンシンがギロッと彼を睨みつけた。男はそれに怯みながら慌てて言った。
「いや、あの。その日本人男性……思い出したんだけど、一年くらい前に聞いてきたんだよ。ちょっと慌てた様子で、女について。名前も連絡先もわからないから知らないかって」
「少なくとも私じゃないわね。連絡先も渡したし、名前も言ったわ」
そう言ったリンシンに、男が肩をすくめてみせた。
「ああ、じゃあそうかもな。ちっちゃい招き猫の木彫りを見せられて、それを作ってる子だって言ってたし」
「招き猫って、こういうの?」
先ほどリンシンから貰った招き猫を取り出して尋ねた。男が顔を近づけてそれを見た後、頷いた。
「ああ、そうだったかも。なんか独特のデザインだったから印象に残ってる」
振り返るとリンシンは素直に驚いた顔をしていた。どういうことなのかわからなかった。招き猫はきっとリンシンのものだろう。だというのに、連絡先がわからないなんて。リンシンが酔っていて間違えたのか、それとも――。
どちらにせよ、少しは希望があるみたいだ。ウェンはリンシンの背中に触れた。
「リンシン。ねえ、会ってみようよ」
話しかけると、リンシンはハッとしたようにウェンを見てきた。
「あ、でも……」
「そのために作り続けてるんでしょ」
招き猫を見せると、リンシンは押し黙った。ウェンは続けて言った。
「諦めるのはいつでもできるじゃない」
「……そう。そうね」
その言葉を聞いてか、彼女は鞄から木彫りの招き猫と自分の名刺を取り出すと、男に渡した。
「……あの、これを。彼が次に来たら渡してくれない」
黙って男がそれを受け取ったので、ウェンは男に釘を刺す。
「失くさないでくださいよ」
「わかってるよ、招き猫なんだ。レジの横に置いとくよ」
男が招き猫をレジに置きに行くために、ウェンたちから離れた。冷めかけたカフェオレを飲みながら、ウェンはリンシンに言った。
「来てよかったでしょ」
「そう……なのかな、まだわからないけど」
いまだ懐疑的なリンシンを窘めようと口を開いたが、入口に見えた姿に口を閉じた。
「ウェン」
怒りに殺気立った声だった。リンシンが振り向いて、目を見開いたのがわかる。ウェンは諦めて、リンシンの前に出た。
「父さん、来たの」
「お前は、門限を破っただけでなく……こんなところに」
父親が呻くのを聞いて、ため息をついた。彼のこめかみに青筋が見える。相当頭にきているようだ。どうやってここを見つけたかなんて聞かなかった。人を使ったに決まっていた。
「用はすんだから、もう帰るわ」
「一体こんなところで何をしてたんだ!?」
怒鳴られても、ウェンはなぜか落ち着いていた。なんだかもう、色んなことを飲み込めていた。手に持っていた招き猫をギュッと握る。
自分のクローゼットを思い出す。しわくちゃに詰め込まれた洋服。でも、もう、出してしまおう。必要だったら捨てたって良いのだ。
「おいウェン、お前聞いているのか!」
父親がウェンの腕を掴んできた。ウェンは振り返りながら、リンシンを見た。彼女の眉が下がっている。どうしたらいいのか考えているようだった。
リンシンにはわからなくても、ウェンにはわかっていた。ただ、伝えようとすれば良いのだ。リンシンが諦めずにそうしたように。
「父さん」
深呼吸をして、それから顔を上げた。
「私、結婚できないわ」
ごめんなさい、と言おうとしてウェンは口を閉ざした。それは謝るべきことではなかった。
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