第4話日本 東京
「あー、はい。そちらでしたらすぐにご用意出来ると思います」
柏木は会社の電話を左手に、もう片方の手でPCのキーボードを打った。PC画面には顧客が注文してきた絵画が表示されている。顧客の住所をメモして、来店してもらえるように約束を取り付けた。
電話を受話器に戻して、柏木はイスの背もたれに寄りかかった。古いイスが小さく音を立てたので、何となく姿勢を正しながら、画面に映る売れたばかりの絵画を見つめる。
最近入荷したばかりなのに、こんなにすぐに買い手がつくとは思っていなかった。この作家は流行るかもしれない。
「その絵、売れたんですか?」
背後から声が聞こえて、振り返ると後輩の清水が立っていた。柏木のPCを覗き込んでいる。女性特有の香水か制汗剤かの匂いがした。
「うん、さっきね。犬飼さんが買いたいって」
「あの人ですか。じゃあきっと売れますね。犬飼さんの見る目って確かだから」
「そうだな」
柏木の働いている会社は絵や美術品の買い付けを専門としている。古い会社ではあったが、最近ではネットの波に乗って、美術品を会員制のウェブサイトで販売するようにした。仕入れた美術品をすぐに顧客に通知できるおかげで売上は少しずつだが右肩上がりになってきている。
「ところで柏木さん、今週末また北京行くんですか?」
「ああ……まあね」
答えたくない気分ではあったが、事実だったので頷いた。それに清水は笑いを堪えるかのように口元に手を当てて、
「へーぇ。一途ですねえ」
「悪いか」
「まあまあ。今度は見つかりますよ。招き猫の君」
清水が指を指してきたのは、PCの横においてある、左手を上げた招き猫だった。3cmくらいの木彫りで出来た、小さなものだ。その前足は特徴あるハート型の肉球だった。
清水なんかに話すんじゃなかったと思いながら、柏木はジロッと睨んだ。
「からかうなよ」
「だってえ、柏木さんがロマンチストなんですもん」
完全に面白がっている。柏木はため息を付いた。
「でも、あれですよね。そんな特徴ある招き猫だったらググったら出てきそうですけどね。彼女もアーティストなんでしょ?」
「あー、貰った次の日にググったけど、何一つ出てこなかったよ」
「そういうの、ちょっとミステリ入ってて、楽しいですよね」
「面白がるなよ。人の恋路を」
ちょっと睨むと、怖い怖い、と清水は自分の席へ戻っていく。やれやれと柏木は頭を掻いて、招き猫を見つめた。人を招くんだから待ち人くらい招いてくれてもいいのに。お前を作った人なんだぞ、と恨めしく思いながら人差し指でその頭を撫でた。
去年のことだ。買い付けの出張に、北京へ行ったときのこと。
無事に買い付けが終わった後、新人の作家が集まるバーへ行った。人材発掘も仕事の一つだった。
仕事だった――けど、何杯飲んでいたのか。中国語はできるから、言葉に困ることなく数人と名刺交換をしたのは覚えている。そして名刺を切らしたことも。
気づいたら、中国人の女の子が隣りにいた。自分もだが、向こうもかなり酔っているようだった。そして仕事と全く関係ないことを話していた。
「日本には三回行ったことあるわ。東京、広島、大阪に」
「へえー。旅行で?」
「ええ、そうよ。東京から来たんだっけ。浅草、スカイツリー、それから豪徳寺にも行ったのよ」
「どこだい、それ」
有名所をあげていたのに、急にローカルなところが出てきた。初めて聞く名前のお寺に、柏木は首を傾げる。
「知らないの? 招き猫がね、たくさんいて。可愛いんだから」
「へえ、知らないなあ」
「そこの招き猫、可愛くて。こんなの作ってみたの。あげる」
そう言って、彼女の手から渡されたのは小さな招き猫だった。酔っていた柏木はゲラゲラ笑いながらそれを受け取った。
「ありがとう。ちっちゃい招き猫だね」
「ちっちゃい幸福を招くのよ。ストラップにして売ろうかな。そうそう、広島の原爆ドームにも行ったわ」
「僕は行ったことないな」
「日本人なのに?」
驚いた様子の彼女に、肩をすくめてみせる。
「そんなもんだろ。人って近場の有名なところには行かないもんさ。いつでもいけるって思ってさ」
「私は人生短いと思うから、自分が興味を持ったらどんどん行っちゃうけど。後悔したくないもの」
彼女の横顔が綺麗で、柏木はその時初めて彼女をしっかり見たような気がした。遅れてきた一目惚れ、というやつだろうか。
「それが正しい。君は良い人生を送っているね」
飲んでいたのは何だったか。とにかく何かのショットだった。それを柏木はぐいっと飲み干して、
「僕もそんな人生を送りたい」
「なら今から送ればいいじゃない」
「そうだな、今日は仕事を忘れて飲みまくる!」
馬鹿だ。けれど、自分は飲んで飲みまくった記憶がある。彼女の名前は聞いただろうか。多分、聞いた。そして、多分、連絡先も。
なぜなら次の日、ホテルで目覚めた柏木の手には、ちっちゃな木彫りの招き猫と、書かれた文字が判別不可能なほど滲んだ紙ナプキンが握られていたから。
そしてひどい二日酔いの中、彼女の名前もその書いてもらった連絡先も何一つ思い出せなかったのである。
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